記念資料集(特集「学童疎開」)

昭和20年夏「木造(きづくり)」

 

島田 孝克(6期/国民学校1年生)

昭和20年7月、幼稚舎疎開学園はB-29戦闘爆撃機が上空に襲来するようになった静岡県修善寺を離れ、青森の木造町へ避難しました。

私の父は中国北支の戦地へ出征しており、地方に縁故の無い我家では私と兄を安全な学童疎開へ行かせたのです。東京は3月10日の大空襲以来、各地で無差別絨毯爆撃が繰り返され、東中野の家も焼失しました。母は焼夷弾が降り注ぐ中を逃れ、かろうじて親戚の家へ避難したそうですから、私たち兄弟がそばにいたら足手まといになっていたかもしれません。

私たち1年生は「慶応寺」に泊めていただきましたが、まだ子供だったので、当時のことをあまり覚えていません。それでも、お寺が美しい稲穂に囲まれて建っていたこと、お御堂で先生や上級生たちと寝食を共にし勉強したこと、外では雀やイナゴを焚き火で焼いて食べたことなどは、楽しい思い出として印象に残っています。

疎開学園では「木造通信」が発行され、生徒たちの作文や近況が遠く離れた親元に届けられました。そこで、このたびの「幼稚舎疎開学園記念碑」の除幕式(前年10月17日)への参加にあたり、「木造通信」の復刻版を読み直してみました。そこには、先生方が親たちに心配をかけないよう、子供たちがいかに元気で頑張っているかが伝えられ、木造町の方々に大変お世話になっていることが書かれています。上級生たちの作文を読んでいるうちに私の記憶も次第に蘇えり、懐かしい学園生活の情景が浮かびあがってきました。(2010年2月17日)

新聞記事より
「塾(WINTER 2010 No. 265慶應義塾発行)」
幼稚舎教諭 神吉創二
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「木造通信」復刻版から

起床の合図にお寺の大太鼓を打ち鳴らします。太鼓が鳴ると一せいにはね起きて、すばやく布団をたたんで本堂の隅にきちんと置きます。それから裸になって前庭に出て、先生方と乾布摩擦や凍傷予防体操を力一ぱい練習します。掃除当番が掃除をする間に、食事当番は先に洗面して、食事の運搬を致します。これがすむともう一度庭へ集合して朝礼をします。遥かに宮城に対し奉し、最敬礼をし、先生方とご挨拶をしたら、一同謹んで御歌の奉唱を致します。朝礼が終わる頃には、珍しいかこう鳥の鳴き声が聞こえてきます。やがて本堂に入って食につきます。先ず仏様に向かって拝礼をし、次に感謝の黙祷を捧げてから、寮母さん方心づくしの朝食を戴きます。

筆者注)上は「西教寺」に寝泊りした4年生の書いた作文です。たとえ数カ月でも、このような経験をしたことは、その後の私の人生に大きな影響を与えたと思います。

今の子供たちには想像もできないでしょうが、こうして私たちは礼儀と規律を、そして「独立自尊の精神」を学んだのです。私の心の故郷は青森であり、人生の原点は昭和20年夏の「木造」にあります。「記念碑」の主旨が次の世代に伝わり、戦争のない社会が続くことを祈ります。

以下は先生方や吉田小五郎舎長が父兄にお書きくださった、感動的な報告文の抜粋です。

7月10日: 修善寺10ヶ月の疎開生活に別れを告げて、去る2日、木造町に移って参りました。2昼夜にわたる車中の生活も心配した程でなく、一同元気旺盛です。こちらは見渡す限り青田と林檎畑で、なだらかな山は遠く遥かに望まれ、ただ南の方に津軽富士の秀麗な姿が見られる筈ですが、雲に隠れてなかなか顔を出しません。(中略)木造町の方々は町長さんを始め、私たちの立場を充分理解されて協力的です。今は緊迫せる戦局下物資は余裕のあろう筈がなく、町の方々のご配慮で徐々に道は開けつつあることをご報告申し上げます。尚、青森県下にも敵機は参るようになりましたが、ここは県下でも最も安全地帯と云われております。

8月10日: 北国にも真夏が訪れ、日中の暑さは東京以上の様にも感じられます。然し屋内とか樹陰は、洵に涼しくそよ風に頬打たせるのは又格別なものです。児童はこの暑さの中で練成されていますが相当黒く見違える様になりました。低学年も朝の乾布摩擦の要領を覚え喜んで実施しています。隣村まで往復五里足らずの遠足にも相当疲れていながらなお最後まで頑張り通す健脚と精神力とを持つようになって参りました。此の分ならば冬季の寒さに対してはこの練成により得られた体力を以ってすれば十分堪え得るものと思われます。

雑報: 時局は緊迫して参りました。昨9日は終日警報下で暮らしましたが遂に爆音を聞くことも敵機影を見ることも出来ませんでした。ソ聯も敵に加はりました。相手にとって不足はありません。一同非常に張り切っています。

8月25日: 「疎開学園開設1周年を迎ふ」 吉田小五郎

次の時代を担ふべき子供達の保護と教育、この重き責任を負うて学園を開設して、ここに丁度1周年になります。想い廻せば感慨深いものがあります。然し、去る15日正午を期して、天皇陛下におかせられましては、御自ら戦争終結に関する御詔書の御放送をなさいました。朗々たる玉音も時に曇らせ給い、赤子たる我々は只恐縮身の置きどころを知らない思ひで拝聴いたしました。不幸にして戦争は、我が方に不利に終結を告げました。(中略)

想いをここに致しますと、我々学園が過去1年間、修善寺と木造町で行って参りましたことは、必ずや、子供達が何時の日か奮起する日の為によい素地となったことを信じて疑いません。戦争は終を告げましても当局の指示のある迄、それが本年末になりますか、年を越しますかは分かりませんが、当分ここ木造で之まで通り学園を続けて参ります。心身の練成を第一とし希望を失わぬ様に心がけ、やがて猛然と立ち上がって呉れる日を楽しみにしております。我々といたしましては、之までに倍し一層の努力を致し「逞しい良い子」として、御父兄の御手許にお返しする日まで大切にお預かりいたします。御安心願います。

10月15日: 「疎開学園を閉じるに際して」 吉田小五郎

遂に疎開学園を閉じる日が来ました。もう4、5日の後には、子供達の或るものは1年2カ月ぶりに、又或るものは7カ月ぶりに親許へ帰って行くのです。それを見送る私どもの心中お察し願いたいと思います。

戦争は終わりました。子供たちは子供たちなりに実によく戦いました。よく忍びよく耐えてきました。こし方を顧みて、萬感、こもごも胸に迫り、ただこの小さき者の上に感謝あるのみです。不幸にして戦争は我が方に不利でしたが、子供達がこの学園で養った底力を思うと気強い気がします。新しい文化日本の柱石となるのは、実にこの子供達だという気がするのです。


編者注:「幼稚舎疎開学園記念碑」の除幕式当日の模様は「三田評論(2010年3月号)」に、幼稚舎長・加藤三明氏が「64年の歳月」と題し、克明に記しておられますので、そちらもご参照ください。

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