記念資料集(特集「学童疎開」)

思い出すがままに―戦争体験者として

 

筑紫 秀子(4期/国民学校3年生)

太平洋戦争が始まったのは、私が幼稚園生の時でした。その頃私は現在の「初台」に住み、代々幡幼稚園にベティさんの顔のついたバスケットにお弁当を入れて、楽しく妹たちと通っていました。

ところが昭和19年3月に東京に大空襲が起こり、田舎に知人のいない私達一家は叔父のつてで、群馬県の後閑(ごかん)とゆう所に疎開することになりました。それまでは初台で庭に防空壕を掘り、警報が鳴るたびに皆でそこに避難していました。

呑気者の私は、東京の大空襲の時、B29の爆音を聞きながら、2階のベランダで焼夷弾が落ちる時の明るい光に見とれていました。その時「早く防空壕に入りなさい」と叫んでいた母の大きな声は、今も耳について離れません。結局<これ以上東京にいることは危険>とゆうことになり、両親の判断で後閑に疎開いたしました。

私は長女でその下に二つ違いの双子の妹、その下に五つ違いの妹と二歳の弟の五人の子供がおり、皆小さく移動も大変だったことと思いますが、未だに辛かったことは思い出せません。又その時の状況も何も頭に残っていません。

疎開先の家は古い農家で、もともと蚕を飼っていた所で天井に蚕棚がありました。ある晩寝ている時、ドサッとすごい音がし、目を覚ますと太い大きな青大将が落ちていて、とぐろを巻いていたのには、さすがの母も悲鳴をあげていました。勿論私達子供はその晩は眠れませんでした。

疎開したこの農家は上越線の後閑の駅から徒歩で30分位の所にあり、駅からは坂を登り丘の上の桃園第2小学校の前を通り、利根川を渡って、我家に着く感じでした。隣近所は数軒の農家が在る様な所です。桃園第2小学校は私が通った学校で、終戦まで在籍していました。

最初のうちは「疎開者々々」と大分いじめに会いましたが、いつの間にか沢山の友人に囲まれ、楽しい思いをすることができました。大変だったことは。授業の一環で利根川の砂利を校庭の整備に使うために、皆で取りに行かされたことです。誰かしら手を貸してくれていました。

子供達が学校で色々新しい経験をしている間、両親は本当に食料の調達に苦労していたようです。父は公務員でしたので、疎開はせず東京に残っており、土曜日、日曜日に、何かしら手に入った物を運んで来てくれていました。当時の農家の方々には現金は通用せず、ほとんど母の着物と物々交換したようで、父はいつもリュックサックに品物を詰めて運んで来ていました。

土曜日になると私は校庭に立って、父の姿が現れるのを待っていました。・汽車に乗るのも大変だったことと今になれば、その苦労の大変さが分かりますが、当時は、会えるとゆうことだけの喜びでした。母は気丈な人で、父のいない子供を食べさせながら、農家の方たちと仲良くなり婦人会のような集まりを作り、情報交換をしていました。今でも忘れられないことが起こり、母を再認識したのは、ある日増築した台所で電気のコードが漏電し燃えはじめたのですが、素手でそれを掴み、包丁で切り落としました。アッとゆう間のことでしたが、家庭を守る母の強さを感じた出来事でした。

甘い物も父が帰って来るまではあまりなくて、唯一許されていたのは、農家から分けて頂いた柿の皮の干した物でした。群馬県は干柿の産地でしたので、柿の皮を干して、俵に詰めて保存していました。今から考えてみますと、漬物の甘味料に使っていたようです。また、裏庭には、桑畑があり、季節になると美味しい実が沢山なります。しかし、これを食べることは母から禁止されていました。でも甘い物に飢えていましたので、ついつい食べることもあり、口の中が真紫色になり、すぐに見つかり、叱られたことも良い思い出の一つです。

また泳ぎも利根川で覚えました。今から考えますと、急流で急深でしたが事故もなく、良く無事に済んだものと思います。又「いなご取り」や「たにし」など地元の仲間に教えてもらい、東京にいたら経験出来なかったことを沢山味わうことができました。

大人達は本当に大変だったと思える出来事が一つあります。ある日学校で勉強していますと、担任の先生から呼び出され「秀子に会いたい」と云う人が待っているから、正門に行きなさいと云われ飛び出して行くと、軍服を着てリュックサックを背負った男の人が小さな女の子を連れて立っていました。男の人は母の弟で長い間満州で生活していて、お芝居をしていた人でした。女の子は同じ劇団に所属していたロシア人の女性との間の子供で、私の従妹に当たる人です。ロシア人の女性は素敵な人でマリアと云い、私もマリア叔母さんと呼んでいました。戦争が激しくなり、身一つで引揚船に乗り帰国し、初台を訪ねて後閑に疎開していることを知って、我家を訪ねて来たのでした。母に連絡し、直ぐに迎えに来てもらい、感激の再会をはたすことが出来ました。従妹は栄養失調状態で、それはそれは可哀相な姿でした。母の献身的な看護で、日々元気を取り戻してゆき、私達とも元気に仲良く過ごすことが出来ました。

戦争も終りに近くなった頃には、食糧事情も最悪の状況になり、物資に対する取り締りも厳しくなり、父は大変だった様でした。真正直な性格の人でしたので、本当につらかったことと思います。終戦後も東京が落ち着くまではと、私達はその後一年間後閑で過ごしました。そして三田の「札の辻」に父が家を見つけて、やっと帰京することになりました。その間、父のリュックサックの中味も、だんだん美味しい物が増え、進駐軍からのララ物資でチョコレートを口にした時、世の中にこんなに美味しいものがあるのかとショックを受けました。

私達一家が東京に帰ることが決まった日、全校生徒が校庭に集まってくれて、横断幕に「さようなら またおいで」と書いて見送ってくれたことは、今でも目に焼き付いて離れません。桃園第二小学校というくらいですから、桃の木が校庭の周りに植えてあり、その花の美しさや香りが忘れられません。60年経った今も、妹達はその頃の友人と仲良くしている様です。

札の辻には5年間居て、その後は又元の家のあった初台に戻りましたが、「札の辻」時代に慶應義塾に御縁が出来たお陰で、楽しい、素晴らしい人生を送らせて頂くことが出来ています。

疎開とゆうせっぱつまった状況の中での経験は、当時の大人の方達にとっては、本当に想像を絶する事が沢山あったことと思いますが、私にとりましては、本当に東京では味わえない自然とのつながりを経験し、生きてゆく道の一つが開かれたような気がしています。

ただし戦争は絶対あってはならないこと、これだけは、体験された方達はもっともっと声を大にして、若い方達に伝えてゆくべきと、つくづく感じているこの頃です。(2010年7月20日)


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