Editor's note 2009/8


今朝の紫紺野牡丹(木場公園)

今、朝日新聞は夕刊の「検証・昭和報道」と題する連載記事で、急速に軍国主義化したわが国の支配体制に対し、自紙を筆頭とするマスコミがいかに対し、いかに屈し、いかにそのお先棒を担ぐようになったかを、かなり詳しく、客観的な資料を用いて論じている。決して自己を弁護しようとするものではなく、冷静に事実を見つめようとする論調には好感がもてる。しかし、その事実を知れば知る程日本のジャーナリズムの主体性の欠如と、ジャーナリストたちの付和雷同が分かって悲しくなる。結局日本では「ペンは剣よりも弱かった」のだ。

その頃私はどうしていたか。ただ怯えていた。幼児期にはお化けや閻魔様といった魑魅魍魎に囲まれ、学齢に達した頃には怖い兵隊が威張り散らし、やがて夜中に空襲警報で脅かされ、防空壕で身をすくめた。繁華街の方角では紅蓮の炎が渦巻いていた。昼間、近くの広場にいたらいきなり戦闘機が急降下してきて機銃掃射を浴びせられた。身体のすぐ傍を弾痕が走った。

信州・浅間温泉に集団疎開させられた。小学3年から6年生までの寄宿生活である。最低学年の学童は、既に軍国少年と化した上級生たちの餌食となった。そこも空襲が激しくなったので、下伊那の山奥に再疎開させられた。山寺の本堂に寄宿したがノミ・シラミの大群に襲われて寝もやらず、朝は早朝の勤行で叩き起こされた。食事はドングリ粉で作ったパンとか、僅かな芋と菜っぱの入った雑炊が主であり、おやつは炒った大豆が3粒。それを一粒ずつ皮をむき、二つに割り、ゆっくり噛みしめながら食った。たまに親から差し入れがあっても、たちまち上級生に奪われて空箱だけが残った。

ひもじかった。その為かしょっちゅう下痢をした。夜中その気配に飛び起きて、お墓の先の厠に飛んで行くのだが間に合わず、途中で漏らしてしまう。すると翌日の朝礼で犯人捜しがあり、申告すると往復ビンタで殴られ、そのまま朝食抜きで立たされた。誰も告白しなくなると全員が処罰された。

教師はいたが授業はほとんどなく、毎日勤労奉仕に行かされた。山に登って薪を背負ってくるか、養蚕農家に行って桑の木を刈り、その枝の皮をはがす作業で日が暮れた。あまりの空腹に、桑の実はもとより、アケビ、蛇、イナゴ、蛙、それに農家の納屋にいるネズミまで捉えて食べた。その情景は、本堂にあった餓鬼の絵図そのままだったろう。

やっと終戦になった。山奥の学校にもアメリカ兵がジープでやってきた。それまで米英敵視を声高に訓示していた教頭が、その前でペコペコ禿頭を下げていた。そして「あいつ等のいうことを聞かないと皆殺しにされるぞ」と脅した。それでも何とか帰京の日がきた。が、帰ってみれば自由が丘駅前は全くの焼土と化し、瓦礫の山となっていた。ガリガリに痩せ衰えた姿と、ボロボロになった靴や着衣を見て、母は涙を流した・・・。

それでもまだいい方だった。何人もの友人が家を焼かれ、肉親を失っていた。授業が再開されても、元の級友は半減していた。母はその後もんぺ姿でぎゅう詰めの買い出し列車に乗り、近県の農家に物々交換の食料を求めに通った。父は幸いにも半年後に外地から引き揚げてきたが、焼け出されて住居のない部下の家族も一緒であった。窮屈な共同生活と猛烈なインフレに伴う耐乏生活は、その後も長く止むことはなかった。

―――――今、衆院議員の総選挙が近づく。世論の大勢は政権交代に傾いている。マスコミは軍部に代わる視聴率や低俗なコマーシャリズムに迎合し、その世論を煽るばかりである。政治家は人気取りに終始し、官僚と財界は既得権益の確保に汲々とする。社会に警鐘を鳴らす木鐸(本来はそれこそがジャーナリズムの真価と考えられていた)は存在しない。「民主主義体制は衆愚政治」といわれるが、今ほどその負の側面が際立っている時代はない。そして愚かな大衆と化した国民は、容易に一党独裁型の強権政治に牛耳られることになる。

言論の人・福澤諭吉は、この現状をどう評されるであろうか。今は、醒めた個人が、一人ひとり、よくよく考えて選挙に臨む他はない。(8月5日オザサ)

学童疎開の頃:伝えられる「東京大空襲」は昭和20年3月10日のことですが、昭和19年11月には東京空襲が始まりました。小学校3年生以上の学童疎開が始まりました。主幹だけでなく多くの先輩たちが大変な目に遭ったのです。その頃、私は4歳で外地にいました。当時は日本本土を「内地」それ以外の占領地は「外地」と呼ばれていました。

昭和16年、太平洋戦争開戦以前に私の家族は現在のソウル、当時の京城に引っ越しました。そして、開戦を迎えました。戦争末期には、少しはわけが分かっていたようです。新聞やラジオで空襲のニュースなどが伝えられました。東京は焼け野原になったと聞かされました。私は毎日、近所の家を巡り玄関先で「予科練の歌」を唄って歩いていました。軍歌のアカペラ・ソロ出前をやっていたのです。

朝鮮の地には爆撃はありませんでしたが、一度だけB29が高い空を飛んでいくのがわかりました。防空壕から覗いていたのです。高射砲が「ドン」と撃たれるのですが、まったく届きません。花火のように「ドカン」と煙が出るだけで、手も足も出ません。

戦闘機らしいものが、「プーン」と飛び回りますが、これも赤トンボみたいなもので子犬の遠吠えでしかありません。これが、私の唯一のB29の体験です。私はオザサのような怖い悲しい目には遭っていません。そうしているうちに、原爆投下で終戦となりました。

米軍の接収:終戦と同時に米軍の進駐が始まりました。私の家は南山のふもとの奨忠洞チャンチュンドンの近くにありました。奨忠檀公園という広い池のある公園が私の遊び場でした。その公園がある日、米軍のキャンプになって、周囲には金網の塀が張り巡らされてしまいました。ここからジープに乗った「真っ赤」な顔の兵隊が出てくるのです。子供たちはジープが来ると走って逃げ回るのです。

ある日、ジープが我が家の前で止まり進駐軍と通訳らしき人が我が家にやってきました。米軍の将校が「日本家庭にホームステイをしたい」という話らしいのです。間もなく、大尉と中尉が我が家の2階に住むことになりました。毎晩、キャプテンは4歳の私に英語を教えました。

我が家は突然アメリカ家庭になってしまいました。米軍キャンプはきわめて近いところですから、将校たちが夜になると遊びに来ます。我が家の2階は米軍のサロンと化してしまいました。キャンプからレコードを持ってきて聴かせるのです。軍艦マーチや予科練の歌など軍歌ばかり聴かされていた耳に、ビング・クロスビーやダイナ・ショアなどの当時のポップソングです。英語のアメリカン・ソングってソフトに甘く聞こえました。

こうして翌年、東京に引き揚げてくるまでキャプテン達との生活が続きました。中尉は先にアメリカに帰還し、別の中尉が来ました。ウィリアム・デソテルさんという中尉でしたが、1年か1年半後くらいでしたか、東京渋谷の家にまで尋ねてきました。「どんな暮らしをしているか心配で来た」とのことです。「渋谷」と聞いていたので、渋谷警察に行って「若山ファミリーはどこに住んでいるのだ?」と聞いたそうです。渋谷署の警官が案内してデソテルさんを連れてきたのです。驚きました。私にはメキシコの1ペソ銀貨をお土産だといってくれました。ダラーシルバーと同じくらいの大きな銀貨でした。ビル・シュレーダー大尉はハーバード出身のインテリでニューヨーク在住でしたが、昭和30年代まで文通がありました。

そうそう、戦争中、渋谷の家には父方の祖父の妹のお婆ちゃんが1人で住んでいたのです。広尾小学校の近くで、回りは焼け野原なのにこの家の周りだけは焼け残ったのです。このお婆ちゃんは長生きして、私が大学生になってから亡くなりました。

こんな話をし始めるときりがありません。引き揚げてくるときの話も通常の引き揚げ話ではありません。またの機会に話しましょう。

42年後のソウル訪問:これは4歳当時の私で、京城の家の玄関前での写真です。

米軍が接収している間は、この玄関のドアには「米軍将校のレジデンスとしての家屋につき、何人たりとも無断で立ち入ってはならない」というような文章が、英語と日本語と朝鮮語で書かれていました。

ここから、通りに下りて公園に行ったり、床屋に行ったり、高野山のお寺に行ったりして遊んだものです。

この家を出て日本に帰ってきたのが1946年の1月か2月かまだ寒い頃でした。それから42年後の1988年に、われわれの学会のアジア連合の第1回大会が韓国OR学会の主催で開催されました。

私はOR学会のアジア太平洋地域の連合体を作り上げるのに1984年から活動を始めました。インド、シンガポール、香港、中国、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、そして日本の8ヶ国でした。発足後、フィリピンとマレーシアが加わりました。が、言葉の違い、宗教の違い、政治体制の違い、何から何まですべて違うのです。

「これらの国が仲良く付き合っていくようにお前が中心になってやるのだ」とセクレタリーを任されました。会長は韓国から副会長は中国からお願いしました。韓国から推挙されたアジアの会長候補は韓国の学会長であるのと同時に、財務長官という閣僚でもありました。後に副首相になりました。羅雄培という和食の好きな立派な人物でした。私はこの会長に信頼されサポートしてもらいました。

毎月、私のところからNews Letterが発送されました。当時はe-Mailなどありませんから、はじめはパソコンにタイプライターをつないで印刷したものです。10年ほど各国の代表と連絡をとりあい、仲良くなりました。各国のメールが開通したのは90年代の半ば頃です。

この会長のお膝元で第1回APORS(Association of Asian-Pacific Operational Research Societies)国際会議が開かれることになり、私は42年ぶりに第2の故郷の土を踏むことになったのです。

そのとき、我が家の跡がどうなっているか見に行きました。昔の家並みは残っていません。全体の位置関係から「この辺だ」というのがこの写真の家です。すっかり変わりましたが、家の前の道は昔と変わっていないようでした。

坂を上って高野山の方に歩いていきました。お寺はありません。跡には大きな教会が建っていました。10日後は、その終戦記念日です。(8月5日わかやま)