Editor's note 2009/10

今年の9月は何となくあわただしく過ぎた。最大5連休という、史上初の「シルヴァー・ウィーク」が実現したせいもあり、巷は行楽ムードと与野党逆転の政権交代騒ぎでわき立っていた。

 そんな中、7日(月)には新国立劇場で若杉弘さん(3期)の「お別れ会」がしめやかに、とはいえ現役の同劇場オペラ芸術監督の逝去を悼む公式行事であるだけに、盛大に挙行された。

約1200名の参加者がその中劇場を埋め尽くし、フォーレのレクィエムが背景に流れる中、大きな遺影に向かい、献花と共に静かに皆の思いが捧げられたのであった。
http://www.nntt.jac.go.jp/release/updata/20000831.html

楽友会関係者もたくさん参列されたが、前もって参加を明言されていらした岡田先生ご夫妻のお姿が見えない。体調を崩されたのかと心配していたらお電話があり「朝、出かけようとしていたら羊奈子さんから『今日は、特に蒸し暑い残暑日ですので、どうぞ遠路ご無理くださいませんように』とのお申出でがあった。せっかくのご厚意を無にしてもいけないと思い、家で静かに喪に服しました」とのこと。

喪主の羊奈子夫人は、楽友会第22回定期演奏会(1973年)のモーツアルト:大ミサ曲(KV. 427)以降度々ご出演くださり、岡田先生の指揮でその素晴らしいアルト歌唱で楽友会のメイン・ステージを引き立ててくださった。そうした親しい関係から、岡田先生ご夫妻の体調に配慮されたらしい。そこに形式ではない、若杉さんを介してのあたたかい心の交流を感じ、ホッとする思いを感じた。

 26日(土)には、上智大学構内にあるクルトゥルハイム聖堂で、慶應義塾大学カトリック栄誦会の創立90周年記念ミサがあった。この事については6月の編集ノートで少し触れたが、実は、この栄誦会は楽友会と赤い糸で結ばれていた。

楽友会正確には、その前身の音楽愛好会が国立音楽学校の女生徒の協力を得て混声合唱を始めたのは1949年7月の事だが、その初の外部行事への参加が「ザビエル記念祭」への出演であった。このホームページ開設の頃には、なぜミッション・スクールでもない塾の一音楽団体が、このような学外の宗教行事に参加したのか、その関係が不可解だった。が、現時点では次のような事情が分かってきた。

栄誦会は1919大正8年、医学部内に誕生している。そして太平洋戦争中のキリスト教弾圧時代も活動を続け、戦後は他大学のカトリック研究会などと提携し、教育機関における布教活動の中核として活躍した。そして塾校開設と同時に日吉にも栄誦会を創設し、音楽愛好会などと共に文化活動の一翼を担った。そして、その初代部長に他ならぬ岡田先生が就任された。つまり先生は音楽愛好会とカトリック栄誦会の責任者を兼務されたのだ。さらに、学生代表の藤原宏君(会友/11期・藤原隆義君の令兄)も両会を叉に掛けて活躍された。そんな関係で、場所や主催者等は不明だが「ザビエル記念祭」への出演が実現したのである。

今回、そのご縁で編者もこの創立90周年記念ミサに参加させていただいたのだが、司式者や参会者に多くの高名な神父様や、有名な女子ミッション・スクールの要職を務められたシスターの諸先生がおられることに一驚した。そして、その方々が皆、栄誦会の出身であることを知ってより一層の感銘を覚えた。皆さん塾を経て神学校や修道院に入り、生涯を神に捧げられたのだ。そうした方々がたくさんおられたのだから、往時の栄誦会が活発な活動を展開したであろう事は容易に察しがつく。

しかし残念ながら、今その旺盛な活動は途絶してしまったようで、この記念ミサに若やいだ学生たちの姿を見ることはできなかった。諸先輩は必死に学生組織再興のための努力を始められたようだが、いったん枯れてしまった木を蘇生させることは容易ではなさそうだ。

翻って楽友会はどうなのか。今は創立61年、楽友会命名より58年、定期演奏会も第58回を迎える。中だるみしてくる時期だ。そろそろ10年、20年先を見越した長期プランを練っておく必要がある、と痛切に感じた。皆が永続的発展を願うならば、の話だが・・・。

 今月の1冊:楽友会のシニアOBによる男声合唱団(OSF)のレパートリーには、自然にシューベルトものが増える。それにつれてウィーンへの思いも募り、今月はWien, du Stadt meiner Traeume(ウィーン、わが夢の町を練習した。

もう30年ほど前の話だが、シェーンブルン宮殿の一隅で、初老のおじさん達がこの曲を合唱しているのを見かけた。実にいい曲、いい光景だった。OSFの歌は今のところそれには遠く及ばないが、歌っていると何とも心地よく、気分が高揚してくる。

そこで曲の由来などを調べるべく、作詞作曲をしたR. ズィーチンスキーオーストリア1875〜1952)という人の事を調べたが、詳しい事は何も分からず、結局正統な解釈を見出すことはできなかった。でもその余録として、久々に面白い本が見つかった。曲名と全く同一の題名をもつこの本のカヴァーの扉に、次のような要約が記してあった。

<著者アンネット・カズエ・ストゥルナートは昭和13(1938)年、兵庫県西宮市生まれ。上海で幼少期を過ごし、中国大陸放浪を経て岡山県に引き揚げ。現在の高梁市成羽町で育ったが、一家離散で広島市の知人宅に預けられ、高校中退。中卒のまま准看護婦に。歌手を目指して通信教育で音楽を勉強。その後、親戚の養女となって上京し、夜間高校に通いながら、声楽家・坂本博士に師事。24歳で夜間高校を卒業し、音楽大学を受験するがすべて失敗。合唱団に入り、オペラやCMソングをこなす。31歳で日本脱出を決意。ロシヤを経てウィーンへ渡り、生涯の師ロッテ・パブシカに出会う。やがてウィーン・アカデミーを経て、1971年、東洋人として初めて、ウィーン国立歌劇場団員歌手のオーディションに合格。以後、今日まで、同歌劇場を中心に、ウィーン・フォルクスオーパー、ザルツブルク音楽祭、ザルツブルク復活祭音楽祭など、ヨーロッパ各地で歌い続けている。現在は1年の半分近くを日本での声楽指導にあてている。新潮社/06年刊/1470円)>

つまり、これは楽書ではなく旧名高島一恵という一女流声楽家の自叙伝である。しかし楽友会でいえば6期生に相当する、この音楽に魅せられた著者の半生は、歴史的にも人生論的にも長く記憶さるべき、意義ある生き方と思えた。

歴史的というのは、同じ日本人で同じようにオーストリア人貴族と結婚したクーデンホーフ光子(1874〜1941)の生涯を探求する興味とつながるものであり、また、人生論的というのは、例えれば井伏鱒二の「ジョン万次郎(1827〜1898)漂流記」や井上靖の「おろしや国酔夢譚大黒屋光太夫/1751〜1828)」にも比すべき面白さがあるという意味である。

これらの人物に通底するのは、抗し難い環境の激変に遭遇し、運命にもてあそばれながらも己を失わず、かえってそこに立脚してたくましく自分の存在価値を高め、歴史に一定の足跡を残した人々ということである。

話は飛ぶが、今年来日した「ウィーン少年合唱団」のメンバーには2人の日本男子が加えられていた。まさに隔世の感がある。人種的偏見の克服と国際化の進展は時代の潮流となったが、その源流にはこの「ウィーン わが夢の町」の著者のような存在があったことを忘れてはなるまい。

 「わかやま」に脅かされて「煙草」と「晩酌」を断った。ある日突然、永年楽しんだ習慣を止めたので身体と精神に変調をきたし、その後モノが書けない状態に陥った。でも、もう大丈夫! 心身が今日の青空のように、高く澄んできた感じ。ご心配いただいた皆さんに一言釈明とお詫びまで。(10月21日/オザサ)

小笹主幹の禁煙:本当に「タバコを止めなさい!」って脅かしました。タバコの煙を吸ったとたんにニコチンが肺で血液に溶け込みます。すると、血管がショックでキューッと収縮して固まるのだそうです。それを繰り返すと、血管はボロボロのホースと化します。脳梗塞や心筋梗塞は脳や心臓の血管が詰まったり狭くなったりして起こる病気です。

「タバコががんの直接の原因とはいえない」という医者もいますが、梗塞の病歴を持つ人に、そんなのんきなことをいう医者はいません。私の弟も甥も医者の端くれですが、私にタバコを吸ってもよいとはいいません。

小笹主幹は禁断症状で辛い日々を送ってくれたようです。よく辛抱してくれました。いや、私は冷たく突き放していたのです。

小笹主幹は「カッパは絶対先に死んではいけない」といいますが、小笹主幹が死んだら、この「楽友」は宙に浮いてしまいます。私1人では、私まで死んでしまいます。でも、脅かした甲斐がありました。

この「楽友」はとても評判がよく、会う人から「楽しみにしている」と励まされています。小笹主幹に原稿を頼まれた人たちが20人ばかりいるはずです。「原稿がなかなか集まらない!」といいながら、だんだん体調がおかしく、それによって気持ちまで沈んでしまいました。皆さん!!原稿はお早めにお送りください。主幹は日本語も英語も何でも達人です。頼めば、下手な文章も添削して名文に直してくれます。安心して原稿をお書きください。

「晩酌も断った」とありますが、たまにはなめる程度は百薬の長と申します。井上さんや佐々木さん、やさしく小笹主幹を見守ってください。お願いします。


Yasuo Sano(1939-1997)

 佐野康夫さんを偲ぶ会:皆さん、この顔をご存知ですか?早いもので、今年の11月は13回忌にあたります。佐野さんは、楽友会の7期生ですが、高校のときから親父のように貫禄があり、皆から畏れられていました。しかし、こんな素晴らしい友達思いの人はいませんでした。それに、歌が下手なのに楽友会を心から愛し続けたのです。

高校出身者中心だった楽友会がその所帯を大きくし、大勢の会員が大学から入会するようになってから、会の運営はそれまでと大いに変わってきました。そんな難しい時期に楽友会の先頭に立ち、骨身を削りながら皆のために尽くしてくれました。佐野さんのような立派な先輩がいたから、今の楽友会があるのだといっても大げさだとは思いません。

あまりにも人の面倒を見すぎて、自分は若くして死んでしまいました。みんな悔しがりました。みんな泣きました。

同期の仲間が音頭をとり、今回はごく少人数ですが日吉の丘で「佐野さんを偲ぶ会」を開催しました。私は佐野さんとは兄弟のように付き合いました。当然のごとく、この会には出席しました。

その報告を「Anthology」→「追悼文集」のページに掲載しました。佐野さんを知る人も知らない世代の人も是非読んでください。

 チャリティ・パーティ:先日、変わったパーティがホテルオークラでありました。チームソルトンセサミというごま塩の髪の毛を染めず、あるがままを誇りとしているオバ様、加藤タキ、小室知子、中尾ミエ、飯野晴子さんの4人の主催です。元デニーズ会長で現在は中央大学の常務理事をやっている友人が、このおばさんたちに「誰か金のかからないミュージシャンはいないか?」と尋ねられたのか、私のカルテットを紹介してしまいました。

何処で唄おうと、そんなことで臆することは何もありませんが、500名の各界の有名人がお客様でした。

後日、ネットサーフィンをしていたところ、このパーティの記事を書いているページにぶち当たりました。私達のカルテットを、アマチュアジャズコーラス筆頭格THE OZ SONSなどと紹介しているのです。それもいいとして・・・どなたが書かれているのか興味がありました。そのブログには著者の氏名までは書いてありません。URLのアドレスやロゴの様子から、キーワードとして「しま」それに「そうすけ」が浮かんできました。

これだけの情報から、このブログの著者は工業デザインを専門とする島崎爽助氏であることを突きとめました。なんと島崎藤村のお孫さんだったのです。いや、クリビツでした。

「平安の間が大騒ぎ」あるいは「島崎爽助」で検索すると、何かに引っかかります。(10月21日/わかやま)