Editor's note 2011/2

 今年の正月、元旦以後は風邪で完全な寝正月。それでもテレビやDVDで多くのオペラや声楽曲を堪能して格別な日々を過ごした・・・
 

オペラに興味をもったのは、若杉弘さん(3期)のお陰だ。高校時代、近所のよしみでよく遊びに行ったが、彼はその都度大きな段ボール箱をどこからか運んで来て、その中に貯めこんだ大量の演奏会プログラムを引っぱり出しては、熱っぽくその感想や思い出話を、時には自らの弾き語りや踊りも加えて語ってくれた。話のテーマはバレーやオペラが主であった。

ある時彼は新しい楽譜を示しながら、いかにももったいぶった口調で「これを本邦初演してみたいのよ」と言った。それは「アマールと夜の訪問者」という、アメリカのテレビで放映され、一躍大変な評判をとった一幕物の小規模オペラであった。そこにちょうど長谷川洋也さん(1期)も来合せたので、早速若杉さんのピアノで一緒に試し歌いをしてみたら<これはいける!>ということになり、その年(55年)の楽友会クリスマス・パーティーでご披露した。

内容は、東方で見たメシア誕生のしるしである星に導かれ、その許を旅する「3人の学者(新共同訳聖書マタイ2:1-12/脚本ではKingとなっている)」一行が、偶然立ち寄った民家での出来事。脚が不自由な少年アマールと、その貧しい母とに生じた波紋と、その結果もたらされた不思議な、いかにもクリスマスにふさわしい奇跡が感動を呼ぶ作品である。

私には「3人の学者」の一人、メルキオール役が与えられ、それがきっかけとなり、オペラに身分不相応な程の入れこみをするようになったのである。

 といっても私の関わり方はディレッタントの域を出ず、せいぜい1950年代半ばに始まるNHKのイタリア・オペラやドイツ・オペラ団の引っ越し公演の殆どを、万難を排してかぶりつきの席を入手し、食い入るように眺めるくらいのことで終わった。

だが、今にして思えば、楽友会とその周辺には、その頃既にオペラにのめりこみ、それに生涯をかけた、あるいは、かけようとする人たちが何人も育っていたのだ。前述の若杉さんはいうに及ばず、島田孝克(6期)さんもその一人であった。彼は塾高に進学して楽友会(当時は音楽愛好会)に入団するや直ぐに声楽で頭角を現わし、新人にも関わらず前述の「アマール」で「3人の学者」の一人、バルタザール(バス)役を任されてその大役を果たした。その経緯を若杉さんはこう記した:

<もう4年程前になりましょうか。まだ私が慶應の学生だった頃です。私が加わっていた楽友会合唱団で恒例のクリスマスの集まりに、ぜひオペラをやろうという話がもちあがり、季節柄メノッティ(1911-2007)作曲の「アマールと夜の訪問者」を仲間と準備したことがあります。その時は稽古時間や経費の関係から、結局ささやかな演奏会形式でしか発表できなかったのですが、あの美しい音楽にひたり、演じる者も聞く側も一体となって楽しいクリスマスを過ごした思い出をもっています。

その折、高校生の中に割合声も出て、音楽もしっかりしているバリトンが居たので、一役当てて加わってもらったのですが、それが、本日晴れの舞台で「ベン」を演じる島田君その人でした(後略)>

これは1958年、慶應義塾創立100年記念祭の一環として企画・開催された「慶應オペラ研究会・第1回公演」用プログラムに載った、指揮者としての挨拶文の一部である。つまり若杉さんは55年のクリスマス・パーティーで島田さんにオペラへの情熱を焚きつけた見返りに、この公演の指揮を引き受けることになったらしい。でもその「オペラ研究会」とは?「ベン」とは?


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この写真の人たちが「オペラ研究会」の創立メンバーらしい。みんな若いねー。後列右が島田さんで左が同期の平林克哉さん。この2人は高校入学と同時に楽友会に入部したが次第にオペラに熱中。高校3年の時同士を募って研究活動を始め、大学進学と同時に法学部の今泉孝太郎教授を会長に「オペラ研究会(通称『オペ研』)」を創部してその活動に専念した。そしてその旗揚げ公演として、3日連続でメノッティの「電話」を上演。「ベン」というのはその主役の青年名だったのである。これは、塾内はもとより普通高校・大学としては全国初の歴史的快挙であったという。上の写真も下の配役表も、その時配布されたプログラムの一部である。


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キャストがたった一組の男女という小規模なオペラだが、歌詞の翻訳から、演出、装置、照明、舞台監督、そして主役の一人「ベン(相手役=電話好きなアメリカ娘ルーシーを慕う気の弱い青年)」まで、その全てを未経験な学生達で組み立て、仕上げいる。大変なことだったろう。

もちろん竹原正三、長沼広光、木村重雄、柴田睦陸といった外部の諸先生方の一方ならぬご指導やご支援が得られなかったら、これほど大それたことはできなかったかもしれない。だが、海の物とも山の物とも分からない学生の集まりに、これほどの斯界の権威を動員し得たのも、彼らの情熱の賜物といえるだろう。

次は、当時名テナーとしてオペラ界の第一線で縦横の活躍をし、二期会を創設する一方、芸大で教鞭をとり、日本のオペラ興隆に多大な貢献をされた柴田睦陸(1913-88)さんからの寄稿文である(同プログラムより):

<学部の中で同好の者達が集まり、ある作品について語り合うとか、ある公演に関して批評し合うということを続けてこられたこのグループの人達が、こんどは百年祭を機会に自分達で企画し、自分達の配役、自分達のスタッフでオペラを仕上げようという夢をもたれた。

演出は誰にしよう、照明は、舞台監督はと決まり、曲目も「電話」ということになって仲間から只一人の歌手候補にされた島田君から、私はつきつめた相談を受けた。

島田君は、学部に入る前、芸大の声楽に進みたい希望で私の所に来られ、ずっと勉強してきたが、都合で芸大を諦め学部に進んだのでまんざらの素人ではない。しかし曲がメノッティでは少し荷が勝ち過ぎる。どうしたものだろうと、自分では決めかねての相談だったと思われた。

私はその話を聞いて、内心大変嬉しい気がした。理屈をこねる人達は、えてして実践的な面では極端に憶病なものである。そういう人達が、自ら自分達の議論の中に飛びこんでゆこうとすること―これは、この公演が成功の形で終われるかどうか、あるいは大学生の島田君が曲りなりにでもベンを歌うことができるかどうかということより、ずっと大きな、ずっと意義のあることだと思ったのである。

私は島田君に「君がやる気さえあれば、ベンを歌えなくはないだろう。専門家と同じようにやろうなんて思ったら間違いで、そんなつもりならやらん方が良い。それより、大学生の君達がやることに意義があるのだから、思うようにのびのびと学生らしくやりなさい。そうしたら案外、専門家の方にも参考になることがあるかもしれない。君達、社会人になり、やがて社長重役になった時にでも、俺は学生時代にメノッティを歌ったことがあると誇れること自体すばらしいことではないか」。

私はこんな風に言って激励したことを覚えている(後略)。
                      11月3日 成城にて>

かくして島田さんは勇躍この快挙を成し遂げ、ますますオペラの深みにはまっていく。遂には塾卒業後渡米4年。ボストン大学のCollege of Fine ArtsでSchool of Theatre Artsを専攻して修士号を取得し、その道でプロとして生きる素地を固めた。

ところが人生は思うようにはいかないものだ。さまざまな紆余曲折を経て、まるで柴田さんが予言されたように、現在は江戸時代以来の伝統ある家業を継ぎ、その社長のまま今日に至ってしまった。本人は「幼稚舎時代から薫陶を受けた草野先生(当HPの「亡き人の思い出と楽友会」参照)の門下生として、若杉弘さんや中村紘子さんのように音楽界で名を上げ得なかったのは残念だ」と悔しがっているが、私は次のようにいって尻を叩いている。

「何言っているんだ!オペラが取り持つ縁で、祐子さんというかけがえのない歌姫を生涯の伴侶とすることができたのではないか。今からでも遅くはない。ぜひ美しい二重唱で先生の霊を慰め、我々の心に活を入れてくれよ!」
 

 前掲のプログラムを島田さんから借りたのはつい先日、楽友三田会新年会(1月29日)でのことだが、それと一緒に貸してくれた古い会誌を読んで、私は思わず襟を正した。「三田オペラ」と題したその会誌は59年7月から60年6月にかけて3回発行されたらしい。

残念ながらその第2号はないが、他の2冊で大体のことは分かった。外見はガリ版刷りの質素な装丁だが内容は濃く、「ドン・カルロにおける悲劇性―シラーとヴェルディについて(永竹由幸)」とか「海外オペラ界の動向(島田孝克)」といった専門家はだしの大論文や、「劇としてのオペラ―モーツァルト(ジョゼフ・カーマン著/町田知音訳)」という大部の邦訳文献(大体この人たちは語学力にも優れ、オペラ「電話」も訳詞して上演している)が並んでいる。

それ等全てを紹介するゆとりはないが、上に掲げたごく少数の表題を見ただけでも、「オペ研」草創のメンバー各位が、いかに広く深くオペラの探求に情熱を注ぎ、観るにつけ演じるにつけ、真摯に学び、知性を磨き、もって総合芸術としてのオペラの真価を極めることに熱心だったかが分かる。


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そこに永竹由幸さんの名があったが、それも新発見であった。その名は最近「世界文化社」から刊行された「DVD決定盤 オペラ名作鑑賞 全10巻」のDVDコーディネーターとして、またその解説書の著者兼監修者であるのを知る程度であったが、島田さんから「オペ研」時代の盟友と聞いて一挙に親近感を増した。なるほど、いたいた!前掲写真の前列左の人。

島田さんは普通部から塾高で楽友会に入り、永竹さんは中等部から塾高では演劇部へと、似ているようで少し違う。しかし高校で合流して「オペ研」を作り、片や歌手、もう一方は演出家として活躍したことが何とも絶妙な、天の配剤だったといえよう。

この関係、実は「オペラシアターこんにゃく座」の芸術監督、作曲家の林光(楽友会・会友)さんと、塾高演劇部出身で「劇団四季」の代表兼芸術総監督、演出家にして実業家の浅利慶太さんとの高校時代の交流と似て、尽きない興味がわく。だが、そのことについてはまた別の機会に譲り、今月は「オペ研」のことだけで話を留めておこう。

 話を前に戻すと「三田オペラ」第3号の会員名簿に名を連ねた大野洋(9/10期)さんの名を見出したことにも一驚した。彼は高校時代から「プロのオーケストラ指揮者になりたい」と洩らしていたから、オペラを勉強することの大切さを知っていたに違いない。大学進学と同時に「オペ研」にも入り、楽友会と二足の草鞋をはいてがんばろうと思ったらしい。現実に彼は休学してドイツに行き、チェリビダッケやサバリッシュに指揮法を学んで帰国した後には、團伊玖磨の門下に入ってオペラ「夕鶴」の下振りをさせて貰ったりしていた。

だが不幸にもこの未完の大器は癌に侵され、20年前に早世された。その次第は同期の山内彦太(10期)さんの寄稿文(@追悼文集Aリレー随筆⇒「軽井沢バロック山荘のこと」)に詳しいのでここでは触れないが、ふと「オペ研」の存在も彼の命運と同様、かなり早くに姿を消してしまったのではないかと思った。少なくとも現在は塾高と大学に「オペ研」という名称の団体はない。きっと彼等の学生時代に激化した学園紛争の荒波に押し流されてしまったのだろう。

ただ一人、前述した永竹由幸さんが今でもオペラ界で気を吐いておられる。つい先日もNHK-TVに出演し、ミラノ市中とスカラ座を案内しておられる番組を拝見し<ああ、こういう生き方もあったのだなー>とつくづく羨ましく思いながら、1時間半も画面に見入ったことであった。

前述の「電話」を無事上演した後、商学部で“Export Marketing”を専攻した永竹さんは三井物産に就職。入社4年後の65年にイタリア修業生としてボローニャ大学留学。その後2回にわたり計11年、同社ミラノ店に勤務して88年に退社された。

その間イタリア各地はもとより、退社後も世界各地を歴訪して見聞を広め、在職中より名著「オペラ名曲百科上・下(音楽之友社/ 1980-84)」を上梓。95年より東京芸術大学講師、98年昭和音楽大学教授となり現在に至っている。著書は上記と前述の「オペラ名作鑑賞シリーズ」の他に「オペレッタ名曲百科」「ヴェルディのオペラ」(音楽之友社)、「オペラと歌舞伎」(丸善ライブラリー)、「椿姫とは誰か」(丸善ブックス)、「痛快!オペラ学」(集英社インターナショナル)等がある。

これは従来の普通のサラリーマンには考えられなかった希有な生き方で、通常個人は大組織の中に埋没してしまうのだが、彼は逆に、国際企業にある身分を最大限活かし、率直にいえば会社を利用しつつ、その枠を超える自分自身のためのキャリアを築いていった、と思われる。

三井物産の懐の深さもさることながら、よくぞ没個性的な、100%の献身を求めるわが国企業の宿命的なしがらみを乗りこえ、自己の生き方を貫いたものと讃嘆しきりである。まさに国際化社会に生きる、新日本人の手本ともいうべき、逞しい生き方である。願わくは塾員として、今後は島田さん等とも協働して、後進の育成にますますの意を注ぎ、かの「オペラ研究会」や「三田オペラ」を再興されんことを。(オザサ・2月7日)


中尾ミエ 飯野晴子 小室知子 加藤タキ

 チーム・ソルトンセサミ昨年の12月16日に、チーム・ソルトンセサミ主催のチャリティ・パーティが、2010年10月にオープンしたばかりのXEX日本橋に350人のお客様を集めて開催されました。

9期の田村さん、10期の石川さんの2人がパーティに参加し、チャリティに協力してくれました。
 

「ソルトンセサミ」とはゴマ塩の髪の毛を染めない4人のおば様の会をいいます。加藤タキ、小室知子、飯野晴子、中尾ミエというメンバーなのです。前回はジャズコーラスOZ SONSが単独で歌いましたが、今回は一緒に歌いたいと言い出しました。はじめはおば様4人でコーラスをと言っていましたが、小室さんと飯野さんが「私たちは無理だ」というので、タキさんとミエさんがわれわれと歌うことになりました。

 アンサンブルの特訓ミエさんは歌手ですから何でもOKですが、タキさんは大勢の人前で歌ったことはありません。このパーティでデビューすることになりました。一生懸命練習しました。昔、ジョー・スタッフォードが歌ってヒットした”You Belong To Me”をOZ SONSと歌うことになりました。サンプルの音源CDを作ってあげました。バックコーラスのカラオケも用意して上げました。「耳から覚えてください」・・・車の中でかけっぱなしだったそうです。しっかり覚えました。全国を講演して歩いて忙しい人なんですが、ちゃんと練習してくれました。2か月前の10月に1回、11月に1回、我が家でリハーサルをやりました。
 


 You Belong To Meこの歌は、アイドル歌手からスタジオ歌手に転身した槙みちると歌うために編曲したバージョンです。シャープス&フラッツの原信夫の姪、大原江里子が私たちのピアノ伴奏を長年やってくれていますが、このコーラスは彼女の編曲で、いろんな機会に歌ってきた曲です。

いろいろな人がオージーサンズのバックで歌いました。プロ歌手も素人も歌っています。

 可愛いベイビーなんて思い出しませんか。ミエさんは”Satin Doll”、オジサン達は”Until I Met You”とコード進行が同じ曲を掛け合いでやりました。

これもオジサン達の十八番にしている歌なのですが、12年前にスリーグレイセスのコンサートで一緒に歌うために、グレイセスのフレーズにかぶせるようにアレンジしたものです。

相手の歌手が変わると、歌い方が違いますから雰囲気ががらりと変わります。ミエさんは3人目です。

編集主幹がYouTubeで見せろといいます。少しだけ編集してお見せします。
ここだけで見られる限定公開です。


Claude E. Shannon
(1916-2001)

 シャノンの話丁度10年前の今月、Claude E. Shannonという偉大な情報科学者が亡くなっています。情報理論の父と呼ばれる大先生ですが、MITの修士論文で、ブール代数を電気のスイッチ回路で表わせることを示しました。これは大変なことになりました。

単なる計算機械だったカルキュレーターが現在のような論理演算のできる情報処理機器として使えるようになってしまったのです。皆さんがパソコンをいじくって地球の裏側とメールで通信したり、ホームページ「楽友」を眺めたりできるのは、シャノンがいたからと言って過言ではありません。もちろん、シャノンだけでなくフォン・ノイマンのような天才もいたから20世紀にコンピュータの世の中が出来上がったのです。

情報を符号化し通信するという問題は簡単ではありません。雑音が邪魔したりします。誤りのある符号を自動的に訂正する仕組みを示したのもシャノンです。われわれが何も考えずに情報伝達ができるのはシャノンがいたからと言いたいわけです。

50年も前のこと、ゼミの関根智明親分がシャノンの話をしてくれました。電気のスイッチを直列に並べたり、並列に並べたりすることで、信頼度の低い安物のスイッチでもお望みの高信頼度のスイッチ回路を作ることができるという話だったのです。

これは物凄い話だと思いました。安物の部品でも信頼性の高いシステム、つまり満足に働くシステムが作れるという理論です。これは、出来の悪い社員でも間違わずに仕事をやり遂げる会社組織が作れるのだという話です。面白いと思いませんか?

 今、信頼度p=0.9のスイッチがあるとします。信頼度とは、ある一定時間、故障をせずにちゃんと働く確率のことをいいます。p=1だったら、絶対に故障をしないことを意味します。スイッチをONにした時、電気が点いてくれる確率が0.9ということです。不信度q=1−p=1−0.9=0.1となりますが、10回に1回くらいの割合で電気が点かないことがある、これはそんなスイッチです。

このスイッチをこんな風につなげてみます。直列につなぐといいます。

そして、すべてのスイッチをONにします。この直列スイッチの信頼度 =pとなります。

もし、p=0.9のスイッチを10個の場合 0.910=0.3487となってしまいます。3回に1回くらいしか電気は点いてくれません。

そうか、どれか1つのスイッチが故障するだけで機能しなくなってしまうのですね。

 つぎに、スイッチを並列につなげてみます。このようにするとすべてのスイッチ壊れない限り電気はつきます。 並列回路の信頼度は、1−(すべてのスイッチ役立たずになる確率)ということになります。それは、

   =1−(1−p)

となります。pが1に近いと(1−p)は限りなくゼロに近づきます。p=0.9でn=10の場合、信頼度 =0.9999999999となります。

私はこれを見て嬉しくてひっくり返りました。

この計算結果を見ると、直列回路は使い物にならない、並列回路は賢いぞということになります。しかし、スイッチは電気をつける時だけでなく、点いている電気を切る、OFFにする時も使います。

 電気を点けようとしているのに点かないというエラーを第一種の過誤とよび、電気を消そうとしているのに点いてしまうエラーを第二種の過誤とよびます。

直列回路は第一種の過誤には弱いのですが、第二種の過誤には強く

並列回路は第二種の過誤には弱いのですが、第一種の過誤には強い

のです。したがって、エラーを起こさない強いシステムを設計するには、直列回路と並列回路を上手く組みあわせることを考えなくてはなりません。実際には単に直列・並列を組み合わせるだけでなく、ネットワークを設計することになってきます。一つのスイッチだけでもスイッチですが、余計にスイッチを用意すれば信頼性の高いスイッチ・システムを組み立てることができるのです。余計なスイッチをたくさん用意することを「冗長性」を高めるといいます。Shannonは、どんなに低い信頼度の部品でも冗長性を高めることによって信頼性を高くすることができることを示しました。

たとえば、スイッチが4個あるとき、つぎのように組み合わせて回路を作ると第一種の過誤も第二種の過誤も小さくすることができるのです。興味のある方は力試しに計算して確かめてください。

つい、難しい話をしてしまいましたが、こういう原理を知っておかれると、信頼性にかかわるいろいろな仕組みを考えるときに役に立つことになるかもしれませんね。会社のような組織はたくさんのスイッチ(従業員)からなり、それが階層構造になっているシステムではありませんか?(2月7日・わかやま)