Editor's note 2011/4

スカイツリー

 3.11(金)は床屋に行った。昼時で混んでいたので「外で待っているよ」と声をかけ、春の陽光を楽しんだ。それほどの好天だったのに、散髪が終わって店を出ようとしたら店主が「あれ、すっかり暗くなっちゃいましたね。こんな真昼間なのに・・・」といぶかしげに言った。「本当だ、変だねぇ。天気予報じゃ『今日は一日晴れ』といっていたのに」と応じながら、私は何となく不吉な思いで外に出た。<雨になったらかなわん>と思い、散歩はとりやめて家路を急いだ。
 

幸い雨は降らなかったが、1階の集合ポストにさしかかった時急に激しい揺れがあり、私は思わずその場にしゃがみこんでしまった。かつて経験したこともない凄い揺れであった。周囲に倒れそうなものはなかったが壁にはめこまれたたくさんのポストがカタカタあるいはガチャガチャ・・・と嫌な音を立てており、やがて建物全体がギィーといいながらきしんだ。とたんに先月のNZ大地震で倒壊した語学学校ビルの写真が瞼に浮かび<ここにいたら大変だ、この11階建てマンションも崩壊するかもしれない!>と思った。

そこで私は恐るおそるその場を離れ、少し離れた児童公園に廻った。そこでは数人の母親たちが恐怖にひきつった顔でジャングル・ジムや滑り台に縋りつきながら、泣き叫ぶ幼児たちを必死にかばっていた。目を転じると完成まぢかのスカイツリーが目に入った。ここ深川から約1里(約4km)ほどの距離にあるが、634メートルの塔が微動だにしていないように見え、少しホッとした。

8階の居宅に戻ろうと思ったが当然のことながらエレベーターは停止したまま動かない。ゆっくり階段を昇っていくと、途中で普段は見かけないさまざまな住人と出会った。みんな外に飛び出し、青い顔して互いの状況を語り合っていた。幸いご近所に大きな被災は出なかったようだ。

 だがその頃東北・関東地方の太平洋沿岸は未曽有の大災害に襲われていた。そしてその惨禍は時々刻々広がり、その後3週間以上過ぎた今日でさえ、その全容はつかめていない。中でも、特に東京電力・福島原子力発電所における事故は何ともおぞましい。もし第二のチェルノブイリ事故に発展したらどうなるのか?!

既に3名の作業員が放射能を被曝し、「死の灰」に類する放射性物質が周辺地域の人々はもとより、遠く海外にまで不安の種をまき散らしている。実害の程は、悲観論から楽観論までさまざまな情報や論説が飛び交っており、何を信用していいのか分からない。自主的に判断するしかないが、東電や行政当局、そして政府の見解や専門家のコメント、さらにはそれを伝えるマスコミ報道は当てにならない。皆それぞれの立場や利害得失を考え、情報操作するであろうことがミエミエだからだ。むしろ当局が「予断を許さない」といえば「危険」と読み替え、「安全」といったら「本当か?」と疑ってかかった方がいいと思っている。

そう思うのは私だけではない。東電社長の頼りなげな、というよりも、おどおどした記者会見や、首相の「冷静に」という呼びかけを見たり聞いたりした人々は、すぐさまスーパーやコンビニへ買いだめに走った。そしてスーパーの生活必需品の棚はアッという間に空になった。次いで飲み水や雨が幼児たちに害を及ぼすかもしれないとの報道で、首都圏の親たちまでが子供の避難先探しや真水の確保に大慌てした。現実に当編集部の若山家でも拙宅でも、孫たちは関西方面に疎開した。「疎開」なんて言葉は二度と使いたくなかった。れっきとした軍事用語である。だが事態は、それほどまでに緊迫していた。「冷静に」考えれば、そうせざるを得ない根拠があったのである。

 月刊誌「世界」(岩波書店)が今年の1月号で「原子力復興という危険な夢」と題する特集を組んでいた。これは昨年10月末にベトナムを訪問し、2基の原発受注に成功した菅首相の笑顔に対する痛烈な批判であり、原発の危険性に対する大きな警鐘であった。

確かに世界は「地球温暖化対策」という旗印の下に、原発の新設ないし再開を急ぐ傾向にあり、これを「原子力復興(原発ルネサンス)」とはやして原発関連企業群や先発推進国が舞いあがっていた。「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」で、米スリーマイル島(79年)や旧ソ連チェルノブイリ(86年)事故以来、原発開発から遠ざかっていたアメリカやロシアまでその事業再開に意欲を燃やした。だがそのつけは、最初に日本を襲った。

電力エネルギーの80%を原子力に依存しているフランスが、その主要エネルギー源を再生可能エネルギー(風力、太陽電池、地熱、バイオマス等々)に代えていくのは容易ではない。サルコジ大統領があわててわが国に飛んできたのも、今回の事故が自らの政治生命と、国運に関わる一大事とみての行動だったことは明らかである。

わが国で稼働中の原発基数と発電量はアメリカ、フランスに次いで現在世界第3位の地位にある。しかし建設中ないし計画段階のものを含めれば近年中にフランスを抜き、一躍世界第2位の原発大国になる。そうなれば日本も、もう後戻りはできない。

電力需要さえ満たせばお国は安泰なのだろうか。海国日本の沿岸に、今まで以上にたくさんの原発が建ち並べば、どういうことになるか。むろん地震や津波の恐れがあるが、テロや敵国にとって格好の標的となる危険性も考えておかなければならない。逆に近隣諸国は、いつ放射能災害をもたらすか分からない不気味で恐ろしい存在として、わが国への警戒心を強めることになるはずだ。

現に今回の原発事故では、当初の規模こそ小さかったものの、徐々に大気と大地と海洋に放射能汚染が広まりつつある実態が明らかになるにつれ、脱日本や日本離れの動きがグローバルな展開を見せ始めている。このような「風評」がマーケットに及ぼす影響は甚大で、底の浅い日本経済は間もなく不況のどん底にあえぐことになるのだろう。

今まで「原子力の平和利用」といえばすべてがまかり通ってきた。だが我々は今日こそ「原子力は両刃の剣」であることを再認識し、世界で唯一の原爆被爆国民として、平和的にも軍事的にも「核廃絶」に向けて総力を結集すべき時が来た、と思うのである。


第五福竜丸展示館

 昨日は「夢の島」にある「第五福竜丸展示館」に行った。茨城県沖で捕獲されたコウナゴから、基準を超える放射性物質が検出された報道を読んでいたら、自然に足がこちらを向いたのだ。

第五福竜丸

木造のマグロ漁船「第五福竜丸」は長閑のどかなマリーナに面した、目立たない建物に納まっている。23名の乗組員が遠洋に出て漁をし、収穫した大きなマグロを載せて運ぶのだから、船体は木造とはいえかなりの大きさである。今回は私と同じ思いでここを訪れる人も多いだろうと思っていたが、人影はまばらであった。

「福竜丸事件」のことなど、今では忘れ去られているのだろう。だがこの事件は広島・長崎への原爆投下に次いで、日本人として忘れることのできない、震撼すべき放射能の惨禍を示す物証の一つである。


マリーナ

54(昭和29)年3月1日、うららかな早春の陽を浴びながら太平洋のマーシャル諸島付近で操業していた福竜丸は、不幸にもビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験に遭遇し、危険水域外で操業していたにもかかわらず被爆してしまった。危険を感じ、同海域から脱出しようとしたものの時すでに遅く、はえ縄の収容に手間取ったこともあって乗組員は、船体や捕獲した魚類もろとも数時間にわたって放射性降下物の降灰(死の灰)を浴びてしまった。


 マグロ塚 と 同碑文(↑クリックで拡大)

14日、焼津港に帰った福竜丸は大変な放射能に汚染されていることが分かり、マグロは捨てられ(写真のマグロ塚と同碑文参照:以前は築地市場にあったが現在は当所にある)、23名の乗組員は全員急性放射能症で東京の病院に入院となった。だがそのかいもなく9月23日、無線長だった久保山愛吉さんは「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」(写真「記念碑」:今は文字が風化して読めないが、ここにこの太字部分が記されている)と呟きつつ、享年40歳の働きざかりで早世された・・・。


記念碑
 

広島の原爆死亡者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という言葉が刻まれている・・・。原爆であれ水爆であれ、はたまた原発であれ、原子力が人類にとって「禁断の木の実」であることを、私たち日本人は今こそハッキリと知るべきだろう。そしてまた今人類は、原発という「バベルの塔」を築こうとしてきた人間の愚かさと傲慢さに気づき、謙虚に、できることとできないことを考え直す時にある、と痛切に思うのだ。(オザサ/4月7日)

今に咲く花(花梅)

東北道 国見S.A.レストラン

 3.113月11日の午後2時半前にこの場所(@)に着いていた。昼食時を過ぎているのに、何か食べようかとレストランに入った。昼ごはんは那須高原で食べることが多いので滅多にここでレストランに入ることはない。

それに、ここから目的地の山形蔵王まで1時間少々で着いてしまうので、ここで食事をする必要がない。
 

美味しそうな「牛タン丼」があった。これを食べよう。静かだった。他には一組の客がいるだけだ。牛タン丼を注文して、間もなくのこと。2:46、その時刻。ドカンと真下から突き上げたと思ったら、ガシャガシャと大きな音を立ててこの軽量鉄骨作りの軽い建物が暴れ出した。

震度6強だった。もちろん、はじめて体験する大地震。意外と冷静に興味深く様子を観察していた。天井は崩れ落ちないか、ぶら下がっている電気器具は切れて落ちないか、窓ガラスが割れて飛び散らないか、こんなことを考えながら「牛タン丼」はどうなるんだろう?って考えている。

よく太ったマスターらしいおじさんが大慌てで「お客さーん、外に出てくださーい!」

揺れは依然として「これでもか」とばかりに揺れ続けている。物がバタンバタンと倒れ、棚から落ちた売り物が床にごろごろ転がり踊っている。面白いもので震度6強でも歩ける。外に出ても地面がぐらぐら動いている。

「おれの注文した牛タン丼は・・・」

揺れが収まったら、レストランに戻って食べさせてもらえるのかなんて考えていたのだからお馬鹿だねぇ。台所では皿が棚から落ちて割れただろうし、めちゃめちゃになっていたはずだ。おまけに停電だ。


 止まらぬ余震止めてある車にはちゅんちゅんが待っている。ちゅんちゅんは犬なので食堂には入れてもらえない。びっくりしたに違いないが、訳が分からない。まだ余震は続いている。車の中で様子を見ることにしよう。

おー、車の揺れ方はスプリングがあるので異常に大きく伝わる。鈍感な私でも、この地震はただものではなさそうだと思う。ラジオをつけると大騒ぎしている。当初はマグニチュード7.9とかいっていた。大津波警報が出た。岩手、宮城、茨城だけでなく、日本列島太平洋岸全体に津波警報や注意報が出された。

間もなくどこかに10mにもなるような大津波が襲いかかっているはずだ。「海岸に近い方は大津波が来ます。高台に避難してください」と繰り返している。ただならぬ雰囲気だ。

 高速道路は弱いさて、余震は続いているものの、少しは落ち着いてきたようだ。ここにじっとしていても仕様がない。とにかく、ゆっくり出て行くことにしよう。盛り土でできた高速道路は地震には弱い。国見SA(@)から次の出口は白石IC(A)である。思ったとおり、道は段差ができたり、ひびが入ったり、陥没したりしている。そんな障害を避けながら白石までたどり着いた。

係員が旗を振って「出ろ、出ろ」といっている。ここで、一般道の国道4号線に出た。村田を経由して宮城川崎から笹谷トンネルをくぐり、山形に行くことにする。久し振りにこの道を走った。山形道ができてからは下の道は走らなくなった。

一般道沿いの家は倒壊している家は殆んどない。屋根瓦は頂上の部分から崩れている家が多い。ブロック塀や大谷石の塀は無残にばったりと倒れて歩道をふさいでいる。

川崎に入る頃にドカ雪が降り出した。笹谷まで1kmくらいと思われるところでストップして動かなくなった(B)。おそらく、笹谷トンネルが通行止めになっているのだろう。見ている間に雪が積もりだした。暫らく待ったが諦めた。今来た道をUターンする。場合によってはこのまま東京まで帰ろう。白石の町で自動車のショールームのガラスが粉々に割れている。嵌め殺しの大きなガラス窓は壊れやすいのだ。総ガラスの高層ビルのガラスが割れて頭の上から降ってきたらどうすんだ。変なことを想像する。とっさの時は、逃げようとしてビルから離れるのではなく、逆にできるだけ壁際に寄り添った方がよさそうだ。

福島手前で動かなくなった(C)。多分、福島の先で道路がやられているのであろう。このまま東京に向かったらひどい目にあうと判断し、飯坂方面に右折し米沢経由で、またもや山形に向かった。停電で信号がつかず、正面衝突事故を起した車がいる。事故処理で迂回させられる。この道もよく走った13号線だ。地震のお蔭で大変な目に遭っているのに、変なもので久し振りに走ったので懐かしい気分がする。

栗子トンネルは無事通行できた。昔より明るく綺麗になった。

米沢に入ると電気がついている。明るいのは何か安心する。用意のいい車はもうガソリンスタンドで並んでガソリンを入れている。赤湯の峠から山形盆地を眺めると上山、山形、さらに天童方面が一望できるが、全て真っ暗でこちらは停電している。

 山形市内で一泊蔵王への上り口(D)まで来てロッジに電話をした。「登ってきては駄目だ。停電で何もできない。グランドホテルかホテルキャッスルで泊まれ」という。

仕方がない。駅前通りのホテルキャッスル(E)で泊めてくれることになった。しかし、ここも停電で10階まで非常階段を上がらなくてはならない。真っ暗の非常階段を歩かされたのは初めてのことだ。爺にはしんどい。

部屋には非常用懐中電灯が1個だけある。我が家は用意のいいことに、ミニミニ携帯ラジオとLEDミニ懐中電灯を持ってきた。一晩中、ラジオはNHKをつけっ放し、LEDランプはベッド脇の電気スタンドの傘の上に置いた。とても明るい優れものだ。

ホテルの非常用懐中電灯は昔の豆電球で、LEDの近代兵器には敵わない。ちゅんちゅんはコートの下に隠して連れてきた。ホテルにお泊まりとなった。幸い、学生もOB家族も東京を出る前に地震が来て、誰もこちらに向かっている者はいなかった。お蔭でグーグー9時まで寝てやった。しかし、一晩中強い余震があったらしい。知らぬが仏とはこのこと。

翌朝、相変わらず停電のまま。見通しが立たないという。蔵王に電話をして「東京に帰るぞ」ということにした。昭和53年の卒業生以来、冬のゼミ合宿は蔵王ハイムスキースクールでやってきた。昔は2月だったが、入試などの関係で近年は3月になっていた。私は今年度で定年退職となるので、最後のゼミ生達との合宿だったのである。それが、歴史的大地震でキャンセルになってしまった。

 山形⇒東京ホテルを10時に出発した。山形は停電でガソリンスタンドは全部閉まっている。米沢でも開いているGSは長蛇の列、見送っているうちに米沢を過ぎてしまった。福島も停電のままで、給水車に人だかりしている。ライフラインが全部止まっているらしい。4号線に出て東京方面にに向かう。

そろそろガソリンを入れないといけない。福島の町を出たあたりのGSに並んだ。30分くらいは並んだが、その間に隣接するスーパーで食べ物と飲み物を仕入れたし、ちゅんちゅんのオシッコもできた。トイレットペーパーを持てるだけ買って帰る主婦がいる。オイルショックの時を思い出す。ガソリンは2000円分しか入れてくれなかった。仕方がない。

福島第一原発の水素爆発は3時半頃だったらしい。一番近い本宮、郡山あたりを抜けたのはその30分くらい前のことであった。原発事故のニュースは、この時点では何も伝えていない。東京に帰って初めて知ったのだ。福島からここまで来る間に何ヶ所かで交通止めがあった。緊急の道路工事のためらしい。その度に迂回しなくてはならない。

白河の手前でガソリンを入れた。ここはセルフの店で満タンになったし、敷地の広いGSでトイレ休憩にもなった。これでガソリンの心配は要らない。福島県から栃木県に入っても、屋根瓦は同じように崩れて、塀はぶっ倒れている。壊れた屋根にブルーシートをかぶせている家がある。

宇都宮近くになると4号線は新4号線という道路が平行してある。バイパスらしい。ところが途中で止まってしまった。えいっとハンドルを切って旧4号線に回った。越谷の千間台なんて久し振りに通った。15年くらい前にここの蕎麦屋に食べに来たのを思い出す。頑固な蕎麦屋で、深川のお神輿担ぎのおやじがやっている「志ま平」という店である。今は牛込の納戸町に越してきた。「志ま平」で蕎麦懐石を食べるとよい。ネットで検索すれば出てくる。若山の紹介だといえば断られないで済む。込んでも居ないのに「予約で一杯」とかいって断るのをよく見かけている。我侭な店なのだ。

われわれのお仲間で忘年会をしたことがある。食べ終わって神楽坂のジャズバーに行くといったら、「俺も行きたい」といって店を畳んで一緒についてきたオヤジだ。大体の様子はこれで分かってもらえるだろう。

草加まで来ると、意外にも外環が開通している。渡りに船とばかり乗ったら、首都高もOK。おまけにがらがらにすいている。家まで20分くらいで帰ってきてしまった。

 後日談11日の東京の交通渋滞は凄かったらしい。一晩、山形で泊まったのが正解だったようである。厚木のゴルフ場から都内まで10時間、代々木上原から白山まで5時間、東京から仙台に向かった同級生は2日かかったそうである。

山形から東京まで11時間半。これは東北道を使っても休憩を入れれば6時間くらいかかるのだから、2倍足らずの時間で帰ってきたことになる。「お前は運がよかった」とみんながいう。

いや「牛タン丼」を食い損なったのに・・・(わかやま/4月7日)

    


このページを仕上げている、たった今、11時半ころ大きい地震が来ました。宮城県栗原、仙台で震度6強です。