Editor's note 2011/11

仙石原のススキ

 医者の許しが出て、箱根の湯につかった気分は格別だった。日本の四季の光景は本当に美しい。そしてありがたい。いつも気持ちが一新される。見上げれば抜けるような青い空、ポッカリと漂う雲。紅葉はまだだったが、仙石原は見はるかす銀の穂波が秋を彩っていた。ススキもまた生きいきと色づく時期があるのである。

毎年変わることのない秋の眺めは、今年も何一つ変わっていない。だが何か特別な感懐がある。それはきっと、春の大手術を経て、命脈を保つことができたせいだろう。
 

<もしかしたら、私はこうして家族と一緒にここに居られなかったかもしれない>という思いは、マッチャン(2期・松延貞雄さん)への想いに重なる。

<15年位前だから還暦の頃だったかな。まだお若かったのに! 長い海外勤務を経て家族でのんびりと、確か登別温泉に行かれた。そして夕食後に「もうひとっ風呂」と言って、温泉に入られたのが最後だったそうだ。タヌキ(鈴木喜子さん・4期・医師)が「さぞ激しいお痛みだったでしょう」と同情申しあげていたから、多分私と同じ心臓発作に倒れられたのだろう。本当に残念なことだった…・・>。
 

思いは高校時代にさかのぼる。マッチャンは2年上で機関紙「楽友」の実質的編集長だった。名目上は皆川達夫先生がその責にあられたが、実際は生徒の自主に委ねられていた。その信を受けてマッチャンは、全てスマートに垢ぬけした手法で「楽友」の版を重ねた。高校から慶應に入った私は<これぞKEIOボーイか!>と感心しすぐに兄事した。お陰で高校・大学時代を通じ、私は道を誤ることがなかった。

卒業後の勤務先は違ったが、職場は「京橋」駅を中心に5分と離れていない至近距離にあり、ほぼ毎日のようにお会いした。傍から見れば兄弟のような存在と思われていたらしい。昼食をすませてマッチャンの会社のビルの一隅にある「いずみ」という喫茶店に行く。すると、そこのママが「お兄さんから、チョット遅れるって電話があったわ」とか言って特製のコーヒーを出してくれる。払いは全てマッチャンの給料からの天引き。ほんとうにいい時代だった!

 数年後、メーカー勤務の私は地方の工場に転勤となって疎遠となった。が、三井クラブでの結婚式に招かれて久しぶりにお会いし、皆で「木遣音頭」を歌ってお祝いをした。その後さらに数年、いや十数年はたっていたか、風の噂でマッチャンは、損保会社のロンドン支店に栄進されたと聞いた。すると不思議なことに、私もイギリスへの赴任が決まり、家族と共に南部のポーツマスに移住することになった。<さぁ、マッチャンとゆっくり本場でスコッチを飲もう>と楽しみにしていたのだが、こちらはロンドンからかなり離れた田舎町。なかなか機会を得ず、モタモタしていたら、マッチャンはサッサと別の任地に赴任された。仕事に家庭に、お互いにこの頃はとても多忙な時代だった!

 マッチャンも私も、共に東京に落ち着いたのは40歳台も後半のことだったろう。「オイ、楽友三田会合唱団に入れよ」という便りをいただいた。マッチャンは仕事の他、楽友会活動にも時間を割くゆとりができたらしい。それは嬉しいお誘いだったが、その頃の私には全くゆとりがなかった。第一に家内が難病に倒れて入退院を繰り返し、幼い子供3人を抱えたわが家は四苦八苦の生活だった。


Tatsuo Minagawa


Sadao Matsunobe

第二に私は英国から帰任早々、齋藤成八郎(5期)、海外発子(9期)、杉原泰雄・洋子夫妻(11/12期)等の諸君と共に、既に楽友会OBGを中心とした教会音楽専門の合唱団「東京スコラ・カントールム」を結成し、かなりユニークな活動を展開していたからだ。

「この『スコラ』は単なる合唱団というよりも『歌う共同体』といった感じの家族的交わりで、その存在と活動は私にとって【涙にかえて 歌をたもう(讃美歌21-390番)】といった程の、上からの賜物であり、それが私自身と家族の生きる支えともいうべきもの。だから、楽友会は大事でも、三田会合唱団の活動に定期的に参加することは不可能なのです」。

マッチャンにそう話すと深くうなずき「分かった。とにかく家庭第一だ。しっかりな!」といって手を差し伸べられた。その時の握手のあたたかさを、私は未だに忘れない。ほんとうにいい人だった。そしてそれ以来、私たちは別々の道を歩んだ・・・・・。

 だが人生も晩年に至り、徐々に時間のゆとりが出てくると、無性に自分のidentityとしての「楽友会」の真相を知りたくなり、種々のroots探しが始まった。ホームページ「楽友」開設の所以である。そうして私はマッチャンとの再会を果たした。残念ながら肉眼では見えないが、「楽友」ある限りマッチャンはいつもそこにいる。怠けると脳天をどやされそうな気配を感じる。

早いものでそれからもう3年と4カ月。一方、彼が育てた三田会合唱団はこの11月3日に第19回定期演奏会を迎え、我々が共に歌った楽友会「発表会」は12月20日に第60回定期演奏会を開催する。定演史としては還暦の祝日だが、奇しくもその日は私の「後期高齢者」誕生日・・・・・思えば遥けくも来たものだ。楽友会よ、永遠なれ!(オザサ・11年11月5日)


Yasushi Ashida(1929-2011)

 芦田ヤスシさんとミルス・ブラザース昭和一桁の時代にダイナやタイガーラグをコロムビア・レコードで吹き込んでいる父親の芦田満さん同様、テナー・サックス奏者の芦田ヤスシさん(ヤッサン)が10月6日に肝臓ガンで亡くなりました。私と同じ干支で一回り上でした。そのせいかよく気が合い仲良くしてくれました。

芦田さんが最近の14年間メンバーだったフルバンド、The Orpheansのバンドリーダー、長尾正士さんは昭和11年(1936年)にフラタニティ・シンコペーターズというフルバンドを結成しました。長尾さんは京大から日産自動車に入った頃のことです。
 

戦後、メンバーが復員し長尾さんの下に再集結しSwing Orpheansを結成しました。3年後にブルーコーツとなります。現在もブルーコーツは75年の歴史を受け継いで演奏活動しています。

長尾さんは、1998年に昔のOBミュージシャンを中心にThe Orpheansを再結成しました。85歳の時です。アルトサックスですから最前列のど真ん中に座っていました。芦田さんもオルフェアンズに加わりました。2004年の「春のオルフェアンズ」というパーティにわれわれのカルテット、オージーサンズがゲストで歌うことになりました。


"Paper Doll" by The Oz Sons

そのときの一曲がMills Brothersの”Paper Doll”でした。芦田さんはそれを自分のことのように喜んでくれました。今どき”Paper Doll”なんて歌を歌う歌手は見たことがありません。私はガキの頃から聴いて育ったのでレパートリーに入っているのです。


The Mills Brothers & Yasushi Ashida and His Mellow Notes

芦田さんは小野満とFour Brothersのメンバーでしたが1959年にビッグバンド「芦田ヤスシとメロー・ノーツ」を結成し、ホテル・ニュージャパンのナイトクラブ、ニュー・ラテン・コーターのハウスバンドとなりました。そこにミルス・ブラザースが初来日し、産経ホールなどでコンサートがありましたが、ニュー・ラテン・コーターでもショーがありました。その伴奏が若きバンドリーダーだった芦田さんのバンドでした。

これはその時の写真で、芦田さんが私に見せるために持って来てくれた写真です。

「お前たちがミルスを歌ってくれるから持ってきた」

お宝の写真は2枚でした。ところが痛みが激しくこのままではボロボロになってしまいます。芦田さんは大事な写真を私に預けました。ボロボロの写真を精密なデジタル画像にして傷や変色を修整し綺麗な大判の写真に蘇らせて芦田さんの手許に返しました。

「もう一枚出てきたよ」とミルスのサイン入りの写真を送ってきました。これも相当痛みの激しい写真でしたが、完璧な修復ができました。これです。


Mills Brothers at New Latin Quater  
 

 あれは3年前:歌の文句ではありませんが、2008年11月に六本木All of Me Clubで3人の爺さんをフィーチャーしたライブが開催されました。

河辺さんは82歳、芦田ヤッサンは79歳、光井ばんちゃんは76歳、いつも酔っ払いの池野さんも70を越しています。

私は外せない用があり、3セット目にやっと間に合いました。このライブは私の友人の後藤さんのプロデュースです。

私より20年も若い古いもの好きの変わった兄さんですが、若い頃は富士スピードウェイでトップを争ったレーサーだったのです。「ぜひ、聴きに来てください」と言われていましたが、芦田さんに会いたくて急いで駆けつけたのです。

ばんちゃんは病気してから左手が不自由でラッパが支えられません。音も弱くなりました。失ったものは大きいのですが、大好きなボーカルは人の心を打ちます。爺さんの歌は味わい深いものがあります。


池野(pf)                    芦田(ts)    光井(tp,vo)      河辺(tb)

シルバーのジャズではありません。プラチナのジャズなんです。

私がAll of Me Clubに到着する前に、2セットの演奏があったのですが、河辺さんは貧血でぶっ倒れてしまいました。救急車が呼ばれました。ところがご本人は「俺は行かない!」といって救急車を追い返してしまいました。

「ぶっ倒れちゃってごめん」と言いながら演奏を続けたのです。お客さんは感動ものでした。

一方、光井ばんちゃんはこの日のことを忘れていて現れません。家に電話をしたら、ちゃんといたとのことです。私の到着する前に杖を突いてのそのそ来たそうです。

日本でもどんどん年配のミュージシャンが減ってきました。ぐずぐずしていると皆んな死んでしまいます。後藤さんは、それを肌で分かっているのでしょう。


ばんちゃんを見守る芦田さん

このライブの後、芦田さんの奥様の具合が悪くなり、奥様の介護でほとんど演奏活動ができませんでした。ところがヤッサンの介護もむなしく奥様は亡くなってしまいました。力を落とした芦田さんは肝臓ガンが進み、奥様を追うようにして、10月6日に帰らぬ人となってしまいました。もう一度会って古いジャズ談義がしてみたかったです。(11月6日・わかやま)