Editor's note 2012/1

新年明けましておめでとうございます。沢山の美女から沢山の原稿が届いた夢を見ました。エッ、元旦は(さか)夢?

 昨年正月の当コーナーに、カッパが天空から見た夜間の世界写真を紹介してくれました。これを見ると世界の文明開化度というか明かりの充満度が一目で分かって大変面白いのですが、もちろん日本は沖縄から北海道まで満艦飾で輝いていました。
 


世界夜間写真(クリックではっきり拡大)

昨年は東北地方を襲った原発事故のあおりで全国的に節電ムードが高まりましたが、少しは暗くなったのでしょうか。私の知る限り、明るさはますます増しているように思います。LED電球とかエコ照明技術の進歩によって、単位当たりの消費電力は減少しているかもしれませんが総量が減ったとは思えません。その証拠に各地の電力会社が慌てて節電の呼びかけを再開していました。

しかし、その後夜の丸の内に行く機会がありましたが、節電などどこ吹く風。ご当地イルミネーションは昨年以上のきらめきを見せていました。95年に始まった神戸ルミナリエの好評以来、光の洪水は全国各地にどんどん広まっているようです。


丸の内イルミネーション


丸ビル内


皇居お堀端のイルミネーション


神戸ルミナリエ

昨年は「北の国から」というTVドラマが、放映開始後30年ということで、年末に一挙再放映されました。

昔は確か毎週金曜の夜10時からの放送でした。なぜそんなことを覚えているかというと、杉原泰雄君(11期)がいつでもその日、その時間になると「テレビを見るので」と言って帰ってしまうからでした。

その頃、彼と齋藤成八郎君(5期)と私は、毎週2〜3回は会っていました。1回は合唱修練。それは僕たちがその合唱団(東京スコラ・カントールム)の創設者だったのだから当然のことです。だがその他は概(おおむ)ねお遊びで特に「ハナ金」は盛りあがる。それなのに彼はさっさと帰り仕度。詰まらない。だから「テレビなんか見るなよ」と迫るのですが「いや、こればかりは」と言って譲らず、「何故そんなに見たいの?」と追及すると「百聞は一見にしかず」とか言って逃げてしまう。唯一度口をすべらしたのは「倉本聡は麻布の先輩なので・・・」ということでした。「なんだ、そんなことか」と言ったものの、親愛なる杉原君がそれほどまでに執心するドラマに強い興味が湧いたのは事実です。でも<連続ドラマを途中から見たって分からねーだろうな>と思い、当時は殆どその番組を見た事はありません。

だが後に「いつも音楽があった(文芸春秋刊)」という題名に惹かれて手にした自伝的エッセイを読んで、その著者の倉本氏に旧知のような親近感を感じました。年代的・思想的に近かったからでしょう。

でも残念に、それに気づいた頃は既に「北の国から」の連続ドラマは終わっており、しかも杉原君はクモ膜下出血で倒れ、その数日後に私も心筋梗塞で倒れた後でした。

それでその作品を見る事も、共に語らうこともできないまま今日に至っていました(その後の杉原の経過は、やはりカッパのホームページ中の「杉作の歌」に感銘深い記事があります⇒ http://www.ozsons.jp/SUGI/)。
 

 話を本筋に戻します。昨年末の「北の国から」の集中再放映の件です。感動しました。特に「'87初恋(87年3月27日)」では涙が止まりませんでした。子供の頃から「男が泣くものじゃない」と言われて育った僕は、涙もろくなったことを恥じながらも、開き直って、涙の流れるにまかせました。

そして早速杉原君に電話し「こんないいTVドラマを見られたのは君のお陰だ」とお礼を言いました。幸いなことに彼も奥さん(12期・洋チンこと旧姓小林洋子さん)も元気で「それはよかった!」と喜んでくれました。

何にそんなに感激したのか。ウンと要約して1点に絞ればやはり現代の、分けても光の充満した都市部では失われつつある「純朴」に会えたからだと思います。それは童心への回帰であり、不幸・不便・不自由な時代への里帰りだったような気がします。

ドラマの主役・純少年(81年当時小学4年)とその妹・蛍(同小学2年)を演じた名子役たち(純=吉岡秀隆/蛍=中嶋朋子)の名演技が実によく状況にマッチしていましたが、そのシリーズは82年で終わりました。しかしその後、83年から年1回の特別ドラマとして続編が放映されました。

「'87初恋」は純の初恋がメイン・テーマではありますが、倉本作品はそんな単純なメロドラマでは終わりません。
その主題に並行して、父を真似て工作好きになった純が、電気のきていない北海道・富良野のはずれにある丸太小屋の自宅に、自作の風車発電機で明かりを灯すという重要な第2主題が進行していきます。

中学3年になった純は、父の誕生日に電気が点(つ)くように頑張りました。だが父は、純が自分に内緒で卒業後東京に出奔し、働きながら夜間高校に通うという計画を隠していたことを詰(なじ)り、逆に、激怒します・・・。

 明かりが点いて家が明るくなったのか?いや、反対に父子間に亀裂が生じ、純は東京に旅立ちます。母親は他界し、初恋の相手は去り、蛍もやがて父親のもとを離れて行きます。一家離散です。

皆に喜びをもたらすはずの灯が、実は、それぞれの心の闇を照らし出し、結局は哀しみをもたらすだけの道具になってしまいました。これは現代に生きる私たちの世相を暗示しているかのようです。

昨年11月に来日されたブータン国王夫妻が住んでおられる地帯は、冒頭に紹介した夜の世界写真で見るとほぼ真っ暗で、全土が明るい日本と著しい対照をなしています。

世界に冠たる経済大国・日本とネパール山系の高地で、人口約70万の民がひっそり暮らすブータン王国を同列に論じるのはムリがあります。しかし「ブータンでは国民の97%が幸せを感じている」とか「GNHランキング(国民の幸福度順位表)でいえば日本は世界178か国中の90位で、先進国中最下位。特に若者、子供は極端に幸せを感じていない」といった論文や統計を読むと(辻信一編著「GNH―もうひとつの<豊かさ>へ―10人の提案」大月書店08年刊その他)、やはり<日本はこれでいいのか>と頭を抱えてしまいます。

楽友の皆さんと一緒に、今年はこうした問題も考えていきたいと思います。好きな歌を、好きな時に、好きな仲間と歌い続けていくことができるように。(オザサ・1月7日)


乙女峠展望台より(12/5)

 「楽友」4度目のお正月:早いものですね。主幹がHP「楽友」を開設し、そのHP技師カッパの2人で「楽友」編集部を運営してきましたが、4度目の新年を迎えました。毎月、よく7日にこの「編集ノート」がアップされます。それは、このホームページが産声を上げたのが2008年7月7日だったからです。
 

それ以来、出来る限り7日に出すようにしてきました。2009年、2010年の編集ノート1月号は、元旦に発行されています。しかし、2011年は1月17日に発行です。何故だろうと見てみたところ「編集部の爺さん、連日のお葬式で遠方に出かけたり、風邪引いて頭がボケたり・・」と(注)がありました。

楽友の皆様、どのように新年を迎えられたのでしょうか。

 虚礼廃止:最近の若者は年賀状を書く人はめっきり減りました。昔の学生達は先生に年賀状を書いてくれたものです。世の中ではいろいろ議論がありました。「虚礼廃止」という言葉をよく聞きました。90年代の中頃だったでしょうか、大学でも教職員同士での年賀状は止めようということになりました。

「虚礼」なら止めればよい。中には「虚礼」ではない年賀状があります。味噌とくXXと一緒くたにした議論です。ばかばかしいと思いませんか?心のこもった一枚のはがきは、人の心に届きます。慰めにもなります。

「喪中につき・・・」というはがきが暮になると届きます。その年に不幸があった人は「おめでとう」は言いづらいので「欠礼の挨拶」を出すわけです。家族や親族を失った人に「おめでとう」とは言えません。そこで喪中のお宅には年賀を遠慮するのが慣わしです。ある時、喪中欠礼の挨拶状に「若山さんの賀状は送ってください」と書いてありました。私は「年賀はがき」を「普通はがき」に替えて送ってやりました。

それ以来、私はいわゆる年賀状に「おめでとう」とか「賀」とかいった文字は書くことをやめました。それで、だれも怒る人はいません。別に「おめでとう」という言葉は必要なかったのです。
 


↑クリックでなんとか

 年頭の一枚:年に一度だけ、年の瀬に絵を一枚だけ描くようになって10数年になりました。賀状の代わりに「年頭の一枚」を送っています。それと並行してインターネットでも見てもらえるようにしています。

最近になって気がついたことがあります。一度も会ったことがない方から「年頭の一枚」を楽しみにしているとFacebookにメッセージがありました。そこで、Googleで「年頭の一枚」で検索したら、私のページが出てくるのです。これには想像もしていないことでしたのでビックリです。

これがカッパの2012年初驚きとなりました。(2012年1月7日・わかやま)