Editor's note 2012/2
 年賀状は面白い。年々枚数は減るが、一通ごとの価値は高まる。十年一日のように「謹賀新年」の4文字だけで済ます友もいるが、それはそれでよい。お互いに「あいつ、相変わらずだな」と諒解し、安心していられる。絵年賀もよい。このホームページ作成の相棒・カッパのヨーロッパの風景画は秀逸でハッとする。<よくもこんなにきめ細かく描けるな>と毎年その集中力に感嘆すると同時に、かつて見た光景でも<そうか、こんな視点もあったのか>と驚くのである。
 

もう一人、小学生時代の友人が送ってくれる江戸時代の掘割や橋の情景を木版画にした賀状も待ち遠しい。その男は千代田区の助役をしていたせいもあり、江戸城周辺の風情を活写した作品が多く、江戸時代の版画を見るようでなぜか嬉しい。それに触発され、毎年その画題とおぼしき周辺を歩いたり、そこにまつわる歴史を勉強したりするうちに、いつしか「江戸文化歴史検定」の3級をクリアーしていた。

 最近は、年頭所感を手ずから印刷してくる人が多くなった。それを読んで、いつも脳天気に暮らしてきた自分を恥じ、遅まきながら震災に備える必要を感じた。今年の話題は東北大震災と、来るべき首都直下地震対策に集中していたからである。

そもそも私の住む江東区は家康時代に始まる埋め立て地で、縦横に運河がめぐり、東は荒川、西は隅田川に接し、やがて何れも南の東京湾に注いでいる。普段は「水彩都市」と称して気どっているが、一旦緩急あればたちまち「水災都市」と化すは必定。もし3・11並みの津波がきたら全区一たまりもなく水没するだろう。

何しろ全域が「海抜0メートル」の低地帯だ。避難に適した高台はなく、高層ビルに縋りついても液状化現象で倒壊する恐れがある。<こんな所は今のうちに逃げ出すに限る。もともと私は引っ越しが好き。以前は職住近接を重んじ、3年に一度は越していた>と思ったが、<今さら詮無いこと>と諦めざるを得ないことになった。


東京ゼロメートル地帯


首都の備え

 年齢のせいもあろうが、都内はもとより首都圏のどこを探しても「ここなら!」と思える引っ越し先はなかった。

学生時代によく歌った「丘の上」を思い出す。あれは昭和3年に作られ、皆が慶早戦勝利の歌として愛唱したが、その第2節は「窓を開けば 海が見えるよ」で始まる。つまりかつては小高い三田の丘に建つ学舎からでも、東京湾を眺める事ができたのだ。

されば三田周辺の高台なら安全か?なるほど江戸城から西北部にかけての山の手一帯は、反対側の下町地区より洪水に対しては安全だろう。とはいえ必ずしも住むに適した土地とはいえない。@地震に脆い。建物の倒壊や電気、ガス、上下水道といったライフラインの遮断、交通、通信、物流の途絶によって陸の孤島と化す危険性は、海運に頼れる下町より高い。A住宅街だけに火災類焼の危険性も高い。B都心部ではかなりの高低差があり急坂が多い。非常時の移動はおろか、日常の買い物や散歩も不便である。C下町に比べて商店、専門店、病院それに公園や繁華街が少なく、高級志向で生活コストが割高。Dそれに私と女房の平均余命では・・・・・。

 と色々考え<やっぱり引っ越しはやめた>と思ったら、何と1月23日に「M7級の地震が首都圏で発生する確率は、この先4年で70%」という報道があったので<ハッ>とした。するとその5日後に、今度はその確率が「5年以内に28%」というニュースに変わったので少し<ホッ>とした。

なぜこんなに人心を乱す憶説が乱れ飛ぶのか。これでは計画的地震対策など講じられない。<一体、政府や地方自治体はなにをしとるのか>と義憤を感じたが、<先ずは自分でできる範囲の事からやるしかない>と思いを定め、しかるべき資料を手当たり次第に読むことにした。数多(あまた)ある中で、次の書が一番参考になった。

「最新・日本の地震地図(岡田義光著/06年9月・東京書籍刊・1890円)」。図表が多く、解説が丁寧で理解しやすい。しかも視野が広くて歴史、地理、地震と防災科学のデータや最新の知見に満ちている。それもそのはず。著者はこの道の権威で06年から現在まで「独立行政法人・防災科学技術研究所理事長」の地位にある人だからだ。

<そんな公的立場にある権威者が、なぜ個人の資格で単行本を上梓するのか。 公的機関が公的出版物としてこれを廉価で一般に頒布すれば、国民の防災意識はもっと高まるのに>という強い疑問がわいたが、そう思う程にこれは良書といえる。


地震発生危険度地図(クリックで拡大)


2006年と2012年の地震警鐘の地域別対比(クリックで拡大)

とりわけ注目に値するのは「東北・新潟」の項で、著者が「(宮城県沖の地震発生)確率は99%。大地震に備えよ」との予知を公にしていたことだ。06年からこれほどハッキリした警鐘が鳴らされていたのに、原発事故も含め、何故あれほど悲惨な災害が重なったのか?こんな誰でもいつでも入手しうる、権威ある専門家の警告を、国や自治体の防災対策担当者が知らなかったとは思えない。もし知らなかったとすれば、そのこと自体が大問題である。

 教訓は「誰も当てにはできない」ということだろう。結局私は<自分でできる範囲の事をやるしかない>と悟った。ちなみに今年1月早々、同書の続編ともいうべき「東日本大震災後版」が同じ著者と出版社によって刊行されたので、その両著の目次と巻頭の日本地図を上に掲載させていただいた。微妙な表現の違いに感心すると同時に、改めて地震国・日本に住むことの恐ろしさ、厳しさを痛感する。ただし、幸か不幸か「関東・伊豆」の項では、06年版も今年の版も「直下型地震による都市災害の危険が増大」と(だけ)しか記されていない。だが、時々刻々「危険が増大」しつつあることだけは、片時も忘れてはなるまい。 (オザサ・2月7日)


赤松 清さん(7期相当)

 52年ぶりの再会:1月28日(土)に2012年の新年会が芝パークホテルにて開催されました。正式な知らせが来たのが遅かったせいか、集まりが悪かったのですが、1月になって幹事年度の皆さんの集客の努力が実り参加者が200名を超したと聞きました。

そんな中で私は懐かしい人、赤松 清さんに声をかけて参加してもらいました。普通部時代からの先輩でしたが、高校を卒業して楽友会をやめてワグネルのオケに移りました。そんなわけで、楽友三田会の名簿には名前が掲載されていません。
 

楽友会の第10回演奏会の「モツレク」のオーケストラはワグネルでした。そのときには赤松さんは我々と一緒の舞台に立っていました。ご覧のように赤松さんはピアノに堪能でしたが、ワグネルでは打楽器の担当でした。ティンパニーは彼が叩いてくれました。私達が高校から大学の初期の頃は、家も近いのでよく行き来をして音楽遊び仲間でした。しかし、卒業後は音信が途絶えていました。

赤松さんの家は牛込にありました。桐生の出身なのですが、兄弟3人が慶應で牛込に家を買ってもらって、そこから通学していました。わたしの親戚が筑土八幡だったり、神楽坂に知り合いのジャズレストランがあったり、菩提寺も牛込にあります。それに愛犬の病院が大久保にあるので、本当によく大久保通りを車で走ります。その度に「赤松さんはまだここにいるのかなぁ」と思い出していました。

昨年、ふと「赤松清」でネットを検索してみました。そうしたら出てきたのです。

⇒ 音楽ボランティアの赤松清は作曲やデジタルピアノ持込で演奏します

というウェブサイトを発見しました。驚きました。

元気で音楽をやっているのです。どうみても赤松清本人です。嬉しくなりました。そこで、メールをしました。50年ぶりにまた繋がりました。さっそく、7期の同期の皆さんにメールを回しました。元気でいないといけません。

「もう年齢だから、そろそろやめようかと思っていたところだ」といいます。止めてしまって、このサイトが閉じられていたら検索には出てきません。こんな形で旧知の友と連絡が取れるようになるとは想像もできなかったことです。

というわけで「楽友会の新年会に来ないか?」と誘いをかけて、私はパークホテルのロビーで赤松さんを迎えて会場に連れて行きました。この日は7期生は遠藤(琢ちゃん)、野本(のもちん)、三戸(よっちゃん)、河北(ミケ)の4人が来ていましたが、わざと誰にも前もって知らせずに会わせたのです。

今年の楽友三田会新年会は実に痛快でした。わたしはいい年を迎えました。

朋遠方より来たる、亦楽しからず哉

 つらら見物:奥秩父の三峰口の少し先、荒川の上流の谷間に「三十槌の氷柱」があります。「あります」と言っても聞いたこともなかった観光スポットですが、昨2月6日に連れて行かれました。日帰りのバスツアーですが、朝8時に新宿を出発です。それに間に合うように早起きをしたところ、楽友編集部オザサからメールが入っていました。いつも朝早くメールが来ても朝寝坊のかっぱは昼頃にならないと返信が出て行きません。

今日に限って私からの返信がすぐに届いたのでびっくりしたオザサから「はじめてのお早うメール」が来ました。

さて、「つらら」といっても渓谷の岩肌からにじみ出る岩清水が、今の時期になると凍って氷柱になるのだそうです。真冬のナイヤガラの滝は全部が凍るわけではありませんが、でっかい氷柱ができます。その埼玉バージョンと言うわけです。


秩父三十槌の氷柱(2月6日)

楽友会にもあちらこちら歩くのが好きな人がいますが、かっぱは無精者でこんな景色があることさえ知りませんでした。同病の方は今年は寒いので出来がよさそうです、近場です、氷がとけない内に見物に行かれると面白いです。2月3日は福沢先生のご命日でした。(2012年2月7日・わかやま)