Editor's note 2012/6

山法師(5月下旬満開―深川).

 先月は浅草の三社祭(5月20日・日曜)から翌日の金環日食、さらにその翌日の東京スカイツリー開業と、久しぶりに賑わいの日が続き、暗い世相も一挙に春めいた観があった。しかし、スカイツリーに「天望」なる奇怪な用語があるのを見て、とたんに気分が滅入ってしまった。
 

この文字は「天望シャトル」、「天望回廊」、「天望デッキ」といったぐあいに、いたる所で使われて並んでいるが、これは明らかに誤字・当て字の類であり、こんな文字をいたる所で見せつけられると頭が変になる。恐らく東武グループの宣伝担当者らが<世界一高い建物の展望施設なのだから、なんかカッコイイ名前をつけよう>と考えてひねり出した苦心の作なのだろうが、その見識を疑う。

 第一、子どもたちを迷わすな、と言いたい。現に、近くにいた小学6年生が「アレッ? あの字、変だね」と言っていた。今後もたくさんの学童が見学に来るだろうが、先ず皆この誤字につまずくはずだ。学校では「展望」としか教えない。それが「天望」もアリとなったら、誰もが書き易い「天望」と書くだろう。だが中学入試でそれは通らない。従って採点はX。誰が責任をとるのか? 第二にこの語義は何か?「人望」なら誰でも知っているだろうが「天望」は辞書にないから不詳である。「人望」の対義語としても意味をなさない。「望」には「遠くを見わたす」という意味があるから、例えば「天望回廊」は「天を見わたす回廊」と解すのだろうか。だがこの回廊では地上の風景しか見えず、曇りの日には周囲すら見えない。それを「天望」と称するのは、誇大広告に等しいペテンであろう。


東京スカイツリー

 東武鉄道はこの建物の営業開始に先立ち、「業平橋」という最寄りの駅名を「とうきょうスカイツリー」に変えてしまった。1931年以来続いた由緒ある駅名を、なぜ惜しげもなく捨ててしまったのか?しかも、他の資料では全部「東京スカイツリー」となっているのに、なぜかここだけは全文字かな書き。東武の考え方が全く分からない。そういえば下の商店街は「東武タウンソラマチ」となっている。ソラを飛ぶマチでもあるまいに、何とも空々しい、空とぼけた命名である。せっかく画期的工法と先端技術の粋を駆使し、世界最高の電波塔を完成させたというのに、こう迄バカバカしい小細工の数々を見せつけられると、折角のお祭りも単なる空騒ぎと思え、空しくなる。

 だが、事は東武グループの国語に関するイリテラシーに限らない。事態はもっと深刻である。かつて梅棹忠夫氏は「世界の文明国で正書法がないのは日本語だけだ」と慨嘆されたが、真に日本の国語政策はなってない。「正書法」ばかりでなく「正読法」もない。「言葉」は国民にとって一番大切な教養であり武器ともなるのに、わが国の文化庁や国語審議会や国立国語研究所等は、組織や施設は立派でもほとんど有効に機能していない。フランスでは4世紀近い歴史のあるアカデミー・フランセーズが、地道な辞書や文法書の編纂と出版活動、時の変化に柔軟に対応した勧告等を続けながら、その世界的普及と質の維持に強いリーダーシップを発揮している。またイギリスの小学校では、中学年からシェイクスピアの作品などを暗唱させて音読による表現読みの訓練が始まる。これは今から30年ほど前にわが子が実体験したことだが、これによって幼い英語力が格段に洗練されたことを思い出す。他の欧米諸国や中国、タイでも同様の教育制度があるというのに、日本では聞いたことがない。読み書き能力(リテラシー)の教育なら、江戸時代の寺子屋の方がよほど進んでいたようだ。人は易きにつく。このままいけば、やがて日本語は死語となるだろう。井上ひさし氏は<言語は絶えず揺れ動き変化する>と認めつつも<日本語の将来は動詞が他言語に置き変わらない限り、まだまだ大丈夫>と楽観しておられた。が、つい最近、私は近所の幼稚園児が「オーイ、僕はもう○○(よく聞きとれなかった)をゲットしたぞー」と叫んでいるのを聞いたのでゾッとした。既にして日本語は<大丈夫>とはいえない状況になっている! 

 名高い文人の家系に育ち、文部大臣を務めたことさえある与謝野馨氏は「世論」を「セロン」と発音してはばからない。政治評論家の田原総一郎氏も同罪で、しきりに「セロン、セロン」とまくし立てている。漢字の教養がある人なら誰でも知っているように、これは正しくは「ヨロン」と読む。 最近できた新党「きづな」も奇異だ。この政党の主眼が「現代仮名遣い」を「歴史的仮名遣い」に戻すことにあるのでなければ、やはり現代のルールに則り「きずな」と訂正すべきだろう。 NHK TVは子供向け番組で「どーもくん」というオッサン人形―「キャラ」と言うのか―を使い、「どーも」という一語だけを連発させている。誠に耳障りだ。他のことばは一切使わない。子どもたちがこれを真似て「どーも」だけで全てを済ますようになるのは時間の問題だ。こうした問題に歯止めをかけるのはマス・メディアの重要な任務の一と思うが、NHKは率先してこの軽薄化の先棒を担いでいる。世も末だ。ちょうど同趣旨の意見が朝日新聞(5月29日)の「声」に載ったので、要約して紹介させて頂く。川越市の津村みゆきさん(主婦・50歳)という方からの投稿で、表題は「感情表現には適切な日本語を」である。

24日朝刊の連載「マンガ」で、その主役・ののちゃんが「まずい」「危ない」の代わりに「ヤバイ」といい、ある旅行番組ではきれいな若手女性タレントが、驚くほどおいしい料理を食べて「ヤバイ」、美しい景色を見て「ヤバイ」、かわいい雑貨を見つけて「ヤバイ」と、感情を「ヤバイ」の一言で全て表現していた。しかし、ののちゃんも若い人たちも、日本語の豊かな表現をきちんと使って自分の気持ちを言い表せる人になってほしい。

全く同感であり、現代の風潮に異を唱える人が他にもいると知って、少しホッとした。「楽友」諸兄姉のご意見も、ぜひお聞きしたい。(オザサ・6月7日)

 80年前の日本のジャズメンの写真:先日、ロスから久しぶりに里帰りをした平井老夫妻を囲む会があった。昭和2年の生まれだとのこと。もう、声が出ないと言ってお歌いにはならなかったが、お2人でジルバを踊られた。昔のモボやモガは未だ老いを知らない。

30年前には”There's No You”がお得意の歌だったという。この歌を歌う人を見たことがない。スタンダード・ジャズ歌集の定番といえるREALBOOKやFAKE BOOKに出ていないし、和製の歌本には海賊版の「306」にだけ出ているという珍しい歌なのだ。

そのMusic Sheetを15年ほど前にFrank Sinatra協会の友人にもらったものを思い出した。1950年代の中頃にシナトラが歌った。多分、その時に発売された譜面だと思う。表紙はシナトラの写真が出ている
 

この譜面探しが始まった。ありそうなところを探しているのだがまだ見つかっていない。上の画像ファイルはPCの中に入っていたものである。

そうしたら一束の古写真が出てきた。昭和一桁時代のジャズメンの写真である。幼稚舎時代の同級生が何処かでもらって来た珍品だが「若山が持っていたほうが役に立つ」と言って10何年か前に持ってきてくれたものである。
 

 コロムビア・ジャズ・バンド:その一枚をお見せしよう。誰が写っているか、古い楽友の皆さんにはお馴染みの人が1人写っている。一番左のコンダクターは山田耕筰(1886-1965)その人である。若々しいので驚きましたか?このとき48歳ですから、バンドの連中のお父さんに近いくらいです。

バンド・リーダーはベースの渡辺 良であり、菊池滋弥の率いるフロリダ・オールスターズと人気を二分していたという。メンバーを見てもらえば分かることだが、共通のメンバーが何人もいる。


コロムビア・ジャズ・バンド,新橋コロムビア・スタジオ,1934

 


山田耕筰

このバンドの前列右から3人目アルトサックスは芦田 満(1910-1967)だが、その息子がやはりサックス奏者となって戦後の日本のジャズ界で活躍した芦田ヤスシ(1929-2011)である。ヤッサンが若々しかった60年代、赤坂ニューラテン・クォーターの専属フルバンド、Mellow Notesのリーダーだった。初来日のミルス・ブラザースのバックを務めたというおじさんである。ヤッサンは去年亡くなった。

2011年11月のEiditor's Noteでヤッサンの思い出話を書いたのだが、ヤッサンにこの写真含めて当時のお父さんの古い写真を見せ損なってしまったのが残念だ。

 菊池滋弥とフロリダ・オールスターズ:昭和4年に溜池にフロリダというダンスホールが開業した。溜池の交差点から2,3軒赤坂よりの元東芝EMIのあったところである。下の写真は昭和7年に火事で焼けて再建されたフロリダの写真である。ここにも芦田満さんの姿がある。このバンドのリーダーはピアノの菊池滋弥(1903-1959)だが、慶應義塾幼稚舎〜大学を卒業した塾員である。父親にアメリカに連れて行かれてジャズの譜面を日本に持ち帰ったという。


フロリダ・オールスターズ,溜池フロリダ・ダンスホール,1933
 


菊池滋弥

芦田 満

こんな昭和一桁時代に日本にも立派なジャズバンドがいくつも存在していたのである。

ディック・ミネや藤山一郎がアメリカで流行っていたポピュラー・ソング(今でいうジャズ・スタンダード)を日本語で歌っている。日本で最初のジャズ歌手は二村定一(本名:林貞一)ということになっているが、1934年に中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズが日本初のジャズコーラスをレコーディングしている。中野忠晴は武蔵野音楽学校の出身だが山田耕筰にスカウトされて日本コロムビアに入社した。「山の人気者」は大ヒットとなった。明治、大正生れのミュージシャンはいち早くアメリカのジャズを吸収していたのである。


中野忠晴とコロムビアリズムボーイズ

最近、上記の人たちにより昭和一桁から戦前に吹き込まれた古いレコードの音源を集めて「復刻版CD ニッポン・モダンタイムス」をプロデュースした早稲田タンゴ研出身の高橋という知り合いがいる。古臭いが面白い。 (2012/6/7・わかやま)