Editor's note 2013/4

紫木蓮(花言葉:愛、持続性)

 3月21日(木)、日吉で高校楽友会第49回の定期演奏会があった。その予報を送ってくれた亀井淳一君(高校16期/三田会29期)のメールに、「愚息は塾高1年になり、文字通り楽友会の後輩として云々」と記されており、それが非常に懐かしく、ほほえましく思えた。最近はこうした「愚息」のような謙称にトントお目にかからなくなっていることもあり、自分が「愚息」であった高校楽友会時代を想い出し、フト頬がゆるんだのである。 
 

 機関誌「楽友」はまだ音楽愛好会時代の1951年に創刊された。また楽友会の「定期演奏会」は、1952年に塾高+女子高+大学1年生(男声のみ)で開催された「第1回楽友会発表会」をもって創始とする。従って厳密にいえば、大学楽友会のみが例えば「第61回定期演奏会」と称するのは少しおかしいのだが、今ここでの問題ではない。ここにご紹介するのは、そうした楽友会草創期のエピソードの一つである。要するに、その頃は高校生がほとんどの楽友会であったが、さすが塾生の集まりというべきか、経済観念たくましく機関誌「楽友」や定演の「プログラム」に掲載する広告とりにも精力を費やしていたことを書き遺しておきたくなったのだ。

「楽友」第2号 1951年8月

 皆は思い思いに広告主を探して交渉する。だが大半は日吉や三田界隈の商店 ― 本屋・レコード店・喫茶店・洋服屋さん等に集中する。だから大抵は敬遠され、得るものは少ない。それはそうだろう。店主にしてみれば学生相手の薄利商売なのに、広告や寄付をねだりに来るのは多数だ。文化系、体育会系それに自治会系が次から次へと押し寄せる。一々応じていたら店がつぶれるだろう。そこで翌年は場所を変え、自由が丘の「サカキバラ楽器店」に頼んでみた。そこのオヤジさんなら顔なじみだし、競合相手もここまでは来ないだろうと思ったのだが甘かった。「今年だけだよ」と釘を刺されながら涙銭を頂戴できただけだった。後は親頼みしかない。

第6回定期演奏会プログラム 1957年11月

 父はしばらく考えてから「企画書を見せろ」といった。だが、先輩に聞いても「そんなもんない」と冷たい。もちろん自分で書けるわけもない。結句、その段階から父の指導を受け、それらしき物ができあがったら次に名刺4〜5枚と名簿を渡された。「この人たちを訪ねて行き、名刺を渡し、会えたら企画書を提出し、自分の努力で支援を得よ」といわれた。で、その通りにしてボクは4、5人の社会人と会い、話を聞いてもらうことができた。だが実際に広告を貰えたのは1社だけだった。後で考えれば、それは父が友・知人と裏で打ち合わせた通りの結果だったらしいが、当時はオヤジを恨んだ。<何だ、オヤジの名刺なんか殆ど役立たず!時間も努力もムダだった!>と思ったのである。

 父としては<これも教育の一環>と考えたのだろう。福澤先生の説かれた「実学」である。確かにそれは<獅子の子落とし(古諺)>を地で行く鍛錬であった。金銭の得がたさ、ありがたさ、それを得るための具体的方法論をボクはこの時初めて、身をもって学んだ。それと同時に、今では殆ど死語と化した「愚息」や[豚児]、ついでに女房⇒愚妻、お父様またはお母様⇒父または母といい代える謙称の実例も体験した。父の名刺には「愚息・和彦をよろしくご引見云々」と書かれていたのだ。ちなみに、広告を出してくれた唯一の会社はある大手製糖会社であった。当時は「三白景気」で、製品が白色の製糖・セメント・製紙(あるいは化学肥料、繊維を挙げた向きもある)といった業種が日本経済のエンジンだった。だがボクは高校生になりながら、そんなことも調べないで恋と音楽に現(うつつ)を抜かしていた・・・・・。(オザサ・4月7日)


木村由紀夫(1950- )

 ミニチュア・カメラ:昔から仲の良い太鼓叩きがいます。木村由紀夫というドラマーですが、世良さん(世良 譲、2004年没)の最後の10年間は、世良トリオのドラマーを務めました。

「物集め物作り」が趣味で半端ではありません。昔の電気機関車なんて人並み外れたコレクションです。後で由紀夫ちゃんのサイトをご覧ください。

6月には私のグループOZ SONSのコンサートで一緒にやってくれます。
 

2年半くらい前のことです。昔の慶應のボート部だった先輩がジャズ・パーティを開いては、私たちを呼び集めます。銀座のBRBに行きました。

当日の出演者の1人、ギターで漫談を奏でる日本版バーニー・ケッセル、田辺充邦が「木村さん、あのカメラで撮ろうよ」と言って、由紀夫ちゃんが楽屋から持ってきたデジカメが傑作でした。

おっほっほっほ、何と「ライカ M3」です。1954年に発売されたライカ M3という写真機は世界中を席巻した名機でした。ご存知の方はいい歳であるか物知りなのかです。その名機を模してミニチュアといってもちゃんとMinoxフイルムで写真が撮れる優れものが売りに出されたことがありました。いち早くこの「大人のおもちゃ」を見つけた私は仕入れて飾り棚に飾ってありました。これです。


ミニチュア・ライカ M3


ミニで田辺君が撮った写真

由紀夫ちゃんはこのミニカメラのデジカメ・バージョンを持って来ました。新しく出来たのですね。専用の小さなストロボまであります。驚きを通り越して嬉しくて笑ってしまいました。由紀夫ちゃんと私は同じ人種なのです。

 父親のお宝:1958年6月、高校3年の北海道修学旅行に私のクラスメートは本物のM3を持ってきました。そのカメラを洞爺湖の温泉ホテルの部屋の窓際のガラス窓と障子の間に置き忘れたまま札幌に向かうバスに乗ってしてしまいました。札幌に着いてからホテルに電話して調べてもらいましたが、「ない」という返事でした。泥棒が盗みに入らなければ無いはずは無いのです。犯人はホテル従業員です。このカメラは、板橋の大病院の院長だった父親のお宝カメラだったのです。信じられないような実話です。結局、本来なら盗難事件ですが、うやむやのままになってしまいました。

実は私も親父のお宝カメラを持って行ったのです。それはCONTAX IIaというドイツカメラで、ドイツカメラのもう一方の旗頭Zeiss Ikon製です。1950年(昭和25年)に製造されました。親父がその1,2年後くらいに手に入れた名品です。いくらで買ったのでしょうか。現代人が聞いたら呆れると思います。


CONTAX IIa

写真を大きく引き伸ばした時に真価が発揮されます。ボケることなくいくらでも大きく引き伸ばせます。普通部から高校生の頃、自宅の雨戸を閉めて赤いランプを点け、写真の引き伸ばしを自分でやっていたのでよく解ります。Sonnar f1.5のレンズの解像度は物凄いと思いました。国産のカメラ、オリンパス6で撮ったフィルムとは精度が違うのです。

もう1つ驚くべきは、1/1250というシャッター速度を実現していました。昔は絞りとシャッター速度を感で決めるのです。この2つのパラメーターの組み合わせで、写真の調子が決まるのです。写真機に人間の意志を伝えるのです。昔は勉強する者、研究する者が美しい写真を撮ることができるという、マニアにとっては素晴らしい時代だったのです。

 全自動カメラ:その後、露出計という電子機器が出現し、それがカメラに搭載され自動露出・自動焦点のカメラが出てきました。シャッターを押せば、誰でも写真が撮れるという「バカXXXカメラ」の時代になりました。

日本のカメラは優秀で世界的になりましたが、キヤノンはライカの模倣、ニコンはコンタックスの模倣でした。オリンパス、コニカ、フジカ、ペンタックス、ミノルタ、ヤシカ、リコーなどの製品が出回りました。ゼンザブロニカというスエーデンのHasselbladの模倣もありましたね。

昔の写真機は精密工学・光学の粋を集めた芸術品でしたが、こういう高級機と較べると、今どきの庶民が使うデジカメなんて「屁のつっかえ棒」くらいのものでしょう。私もその「屁のつっかえ棒」のユーザーですがね。はっはっは。

もっと凄いのは、携帯電話で写真を撮るのが日常という人が多くなったことです。これは「屁のつっかえ棒」にもなりません。カッパは呆れます・・「電話で写真を撮る〜?!」「電話でインターネットを見る〜?!」・・・こんなこと言うと、80か90の爺さんだといわれそうです。「電話なら掛けりゃいいのに、メールなんか打っている」・・・こんなこと言うと、また怒られそうだ。

 ハードもソフトもデジタル:かくして、時代はアナログ時代からデジタル時代になってしまいました。ボケた写真でも画像処理でそこそこ改善できてしまいます。露出なんてどうでもよろし、真っ白に飛んでいなければよし。いや、アナログ時代はハードウェア自身の性能と使う者の腕が勝負だったのですが、今はソフトウェアがハードウェアの尻拭いまでしてしまうのです。

久し振りにコンタックスを引っ張り出して、シャッターの音を聞き確かめました。「シャカッ」いい音ですなぁ。電池なんて要りません。手に持った重量感が何とも言えません。

最近、「楽友」に須藤写真館(9期)が古い写真をたくさん送ってくれました。「懐かしい!」とメールが寄せられています。そんなわけで、今月は写真機談義でした。あー、写真機ひとつにしても昔の人には夢とロマンがあったのです。(2013/4/7・かっぱ) 

⇒ 木村由紀夫のホームページ
 


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