Editor's note 2013/11

つわぶき(「季節の花 300」より)
 今は温室栽培などの品が増え、食物や花の季節感が薄れた。が、やはり秋は柿、梨、ぶどう等、国内で自然に熟成した旬のものがいい。花なら菊か。菊といっても最近の私は観賞用の見事な大輪よりも、路傍に楚々と咲く小さな花々を追う。例えばツワブキ(石蕗)というキク科の花が美しい。10月中旬から地上15cm位のところで少しずつ花開き、今は満開。群生している所では周囲一面を黄金色に染め、天高く澄みわたった青空と対照的に秋独特の何ともいえぬ気高い、それでいて謙虚な静けさを感じさせてくれる。

向島百花園の「菊花展」

 
 四季の移ろいはありがたい。J. S. Bach(1685-1750)の現存する約200曲の「教会カンタータ」も、その殆どが季節に沿って作られているから、聞くにしても歌うにしても、それぞれにふさわしい時を選んで接すれば思いが深まる。例えばクリスマス用のカンタータは師走から正月、イースター用の曲は復活の春にこそ映える。それが逆だったり、単に作品番号(BWV.番号)順に演奏されたりすると何となく落ち着かない。いくら名曲でも興ざめだ。真夏のおせち、真冬の夏みかんで、珍味かもしれないが決して美味とはいえない。

 ある日<秋にふさわしいカンタータは?>と問われて答えに詰まった。第二次大戦後、バッハの人と作品に関する研究は著しく進み、今ではほとんどのカンタータの作曲年代、初演日とその場所や上演の目的、その他作詞者や演奏者の人となりといった周辺状況まで明らかになってきた。楽譜もスコアからパート譜まで、いつでも簡単に手に入る。だから秋を9月から11月とすれば、その間の日曜・祭日数(つまり教会カンタータの演奏日)は15日で、それに対応する曲は44曲あると分かっている。

 だがその中には季節と無関係の曲もあるし、季節性はあっても興に乗らないものもある。「マタイ受難曲」や「ロ短調ミサ曲」等、いわば大輪の見事な花なら誰もが等しく感嘆し称讃しよう。だが1曲せいぜい20数分の小編で、ツワブキのような目立たぬ花だと「いずれ菖蒲あやめ杜若かきつばた」で、<これだ!>と言い切る自信はない。


ルター派の「教会讃美歌集」から

そこで<これはあくまでも私個人の好みだが>と断った上で「Schmucke dich, o liebe Seele(装え おお愛する魂よ・BWV. 180)がいい」と答えた。あまり知られていないが、いぶし銀のように光る、秋向きの名曲である。
 

 


聖トマス教会前のバッハ像に抱きつこうとした私

 この曲は1724年10月22日、聖トマス教会(ライプツィヒ市)で初演された。時まさに教会周辺の木々や、バッハが生まれ育った中部ドイツ・テゥーリンゲンの森の緑が、すっかり紅葉し、秋たけなわの候となっている。この日はごく普通の日曜日。人々は会衆席で当日の聖書(使徒書:エフェソ5・15-21/福音書:マタイ22・1-14)を拝聴し、次いでバッハ自身の指揮する聖歌隊の演奏でこの曲に聴き入ったはずだ。
 


Ton Koopman
(1944- /オランダ)

音楽は福音書で提示された「『婚宴』のたとえ話」を受け、明るく軽快な曲想を展開する。全7楽章の内、第1曲(冒頭合唱)と第2曲(テノール・アリア)および第5曲(ソプラノ・アリア)では舞曲のリズム(順にジグ・ブーレー・ポロネーズ)が軽やかに弾む。ただし、決して派手な感じはなく器楽に金管は用いず、全体に木管系のソフトな音調で統一され、小春日和のようにのどかであたたかい雰囲気が感じられる。

全体のテキスト(台本)作者は未詳だが、基軸にはJ. Franck(1618-77)作詞/J. Cruger(1598-1662)作曲のコラール(「讃美歌21」75番参照)があり、第1(冒頭合唱)、第3(ソプラノ独唱)および第7(終曲コラール)の各曲に、その原曲コラールの歌詞とメロディーを配して全曲の首尾を貫く。このコラールは、当時のルター派教会で愛唱された会衆歌の一つで、バッハ自身もこの曲をこよなく愛好した形跡がある。人生の秋ともいえる最晩年に纏めた「18のコラール集(BWV. 651-668)」に、若き日の思い出の1曲としてこれを組み入れ、最後の推敲を施して「コラール前奏曲」として遺している(BWV. 654)。YouTubeにTon Koopmannの名演がある。

 

https://www.youtube.com/watch?v=NqSEPo6twLI

 音楽的にはかなり明るく楽しげな婚宴の情景が活写されているが、テキストはかなりシリアスな内容だ。そのことはこのカンタータの「Schmucke dich, o liebe Seele(装え、おお愛する魂よ)」という文言から伺い知ることもできよう。実は、これはバッハが付けた標題ではなく、冒頭合唱の始めの1行を引用した詩句の一部なのだが、要は自分自身の魂に向かって「装え」−すなわち<婚宴のようなめでたい場では普段着ではなく礼装せよ>という厳かな訓戒というか、神の命令を意味しているのだ。

これを聴いた礼拝出席者の中には思わず赤面し、襟を正した人もいただろう。古来、神と信仰共同体としてのイスラエルとの関係は婚姻に例えられ、新約時代にはイエスが神の国を婚宴に例えたことが有名である。特に当日は福音書のそれに関する記事が読まれた直後だったから、いきなり「Schmucke(装え)」で始まるこの曲に、会衆はことの他緊張したことと思う。

 
教会に行く、礼拝する、聖体拝領に与ることはキリスト者として当たり前の行為だが、それ等が日常化し、単なる習慣に堕せば何の意味もない。それを戒めたのがこのカンタータである。バッハが有能な説教者といわれる所以もここにある。平和な秋の、人生の一刻、心静かにこの曲を傾聴したいものである。

 付録: 全曲はやはりTon Koopmannの指揮した名演が光っていると思うがCD盤でしか聞けないようだ。他に、この曲全般に関するH. Rillingの英語による講演がYouTubeで聞ける。なんと便利な世の中になったものか。1巻約10分の動画が3巻続く。感謝の気持ちでそのURLを順にご紹介しておこう。


Helmuth Rilling
(1933- /ドイツ)

 

https://www.youtube.com/watch?v=5Wc83-8dH2A

 

https://www.youtube.com/watch?v=yLvciy_T34I

 

https://www.youtube.com/watch?v=2lmxoBTyp2k

 (2013年11月7日・オザサ)


Mills Brothers 1922

ミルス・ブラザース:ついにミルス・ブラザースが91年目にしてその終焉を迎えた。そこで、以前にもちょっとだけ書いたが、親子3代にわたったミルス一家の話をお聞かせしよう。

ミルス4人兄弟の父、John Mills, Sr.はたまたま床屋の主人で、The Four Kings of Harmonyというバーバーショップ・コーラスをやっていた。

もちろん、床屋は日本でも浮世床というように、アメリカでも人々の集まるところで、名前の由来は文字通り床屋であります。どこの床屋にもカルテットがあったといってよい時代がある。

この伝統的なバーバーショップ・コーラスの歴史は古く1870年代に遡る。南部の黒人たちの四重唱団が生み出したもので、1910年に"Play That Barbershop Chord"という歌が出版されたときに初めて"Barbershop"という語が使用されたという。

ジョン・ミルスJohn Hutchinson Mills(1882-1967)の息子たちは、お父さんのバーバーショップ・コーラスを生まれたときから聴いて育った。

John Mills, Jr. (1910-1936)
Herbert Mills (1912-1989)
Harry Mills (1913-1982)
Donald Mills (1915-1999)

Donaldが7歳のときから、お兄さんたちに加わって歌うようになり、これがThe Mills Brothersの始まりとなった。ものの本には1931年結成とあるが、これはニューヨークに出て、最初のレコーディングをしたときのことである。1920年代の終わりころにはCincinnati Radio Stationでミルスのコーラスは電波に乗るようになった。上の写真は唄いだした当時の4兄弟で、1922年の写真とのこと。左から長男John、次男Herbert、三男Harry、四男Donaldと並んでいる。
 

ミルス・ブラザースはバーバーショップ・スタイルの流れを組み、そこに当時(20年代から30年代)流行したスイングを導入してジャズ・コーラスの一つのスタイルを確立して有名になった。 彼らは、自分たちのスタイルを”Barbershop Swing”と言っていた。

世界中に、これ以上温かみのあるスイング・コラースはない。非常に単純なハーモニーかと思うと左にあらず、6th、9thやテンション・ハーモニーをごく自然に、しかも有効に使っていることが、今なおモダンさを感じさせるのだ。 初期のころは、Kazooというパラフィン紙を張った「ブーブー」と鳴る楽器をラッパ代わりに使っていたのだが、ある時、カズーを忘れてきた。


〜1936まで


Mills Brothers and guitarist Norman Brown 1956

そこでHarryが両手の掌を口に当て、カズーならぬトランペットの音まねをした。

ラッパの口真似・擬音はこんなきっかけで始まって、ミルスのいろいろな歌の中に織り込まれるようになった。”Caravan”は特に有名である。スキャットはサッチモが始めたものだが、このスタイルはミルスの専売特許だ。HerbertとHarryはトランペット、Donaldはトロンボーンの音を出す

 長男の急死:John Jr.が1936年に突然26歳の若さで亡くなった。急遽お父さんJohn Sr.が代役をすることになり、22年間続けてくれた。

お父さんのパートは「口ベース」で「ボンボ、ボン」とやっていた。

初めは長男がギターを弾いていたのだが、亡くなってしまったので、1936年にギタリスト募集の広告を新聞に出したところ長蛇の列が出来てしまった。 ところがミルスは造作もなく、先頭の男を専属ギタリストとして雇ってしまった。何ともほのぼのとした話だ。この男はNorman Brownといい、その後30年間、ミルス一家の1人として働いてくれた。

 父親John Sr.の引退:その後,1958年お父さんが引退して兄弟3人で続けることになった。日本にはじめて来たのは昭和35年(1960年)のことで、3人になってからのことである。東京では産経ホールでのコンサートがあったが、ホテル・ニュージャパンのナイトクラブ、ニュー・ラテン・クォーターでの写真がある。そのときにバックで伴奏をしたメロー・ノーツのリーダー、芦田ヤスシさんからもらったものである。


初来日昭和35年 赤坂 New Latin Quater

このミルスブラザースの最後のコンサートが1981年にデンマークのコペンハーゲンのチボリ公演で開かれた。このときにHarryは糖尿病のため目が見えなくなっていた。Donaldの肩につかまりながらステージに出てきた。このコンサートはビデオに収録され売り出された。そのコンサートが終わり、帰国してHerbertは引退し、Harryは死んだ。
 

 Donald Mills 最後のレコーディング:残ったのはDonaldは、まだまだ若い。息子のJohn Mills IIと2人でツアーを始めた。

1999年Donaldの晩年まで18年間続けたのです。1999年、Donaldの最後のレコーディングが行われた。Johnが80年代に書いた”Still There's You”という歌を唄っているが、涙なしには聴けない。

「目を閉じれば、あなたたちの夢をみる・・・まだ、そこに居るみたいに」と唄うのだから。われわれの心の中にもミルスは生き続けている。

どうしてもこのCDを手に入れなくてはならない。ホームページを調べて、Webmasterに依頼したところ、John Millsから直々にメールがあり、「CD販売のページが機能せず申し訳ない」と手紙を添えておまけのGift CDもつけて送ってくれた。


Donald Mills and his son John Mills II
親父がJohn Mills Sr.、ミルス4兄弟の若くて死んだ長男がJohn Mills, Jr.、そして、4男Donaldの長男がJohn Mills II というわけで孫の世代になった。

ミルス兄弟が日本にツアーをしていたのは昭和30年代から40年代にかけてである。

それが、細々と息子がMillsのサウンドを唄っているのだ。

1999年最後のレコーディング Donald Mills and John Mills II

上のCDジャケットは1999年の親子合作もの。2人だけのパートしかいないが、何とか雰囲気を保っているのは偉いもんだ。”Still There's You”という歌だけが新曲。JohnがGiftだといって送ってきたものだ。

DonaldとJohnの親子のデュエットを聴いてみてほしい。

Still There's You
 


John Mills II and Elmer Hopper

 Donaldも死んだ:このレコーディングの後、Donaldは死にJohn IIは、かつてプラターズで歌っていたElmer Hopperを相棒にして続けることにした。

2005年にこの2人が来日することになった。いち早く2人からメールが来た。西蔭嘉樹というプロモーターがミルスを呼んでくれたのだ。この男は根っからジャズが好きで、我々が喜ぶタレントを呼んでくれるので仲良くなっていた。

その西蔭が自著「ジャズ・ジャイアンツの素顔」の出版記念にパーティを開催し、私を招待してくれた。ゲストに来日中のミルスが来るという。そこで、ミルスにメールをして「西蔭の出版パーティで会おう」ということになった。


西蔭の出版パーティで

西蔭はミュージシャンにギャラの遅配他、いろいろ問題があった。そこで、ミルスの2人に「お前さんたち、大丈夫か?」とメールしたら、「心配するな」と言ってきた。それで、何十年ぶりにミルスは日本にやってきた。

ところが、このパーティの翌日、エルマーから電話がかかってきて、「ライブが中止になるかもしれない、また電話する」と言ってきた。

西蔭はなんとかギャラの工面をしたのだろう。ミルスから「今夜のJZ Bratのライブはやれるようになった」との電話は夕方近くだった。それで、翌日以降予定されていたライブはキャンセルとなった。


渋谷JZ Bratでのライブ 2005年

この2人のCDは出ていない。しかし、You Tubeでビデオを見つけた。しかし、現在は見られなくなっている。そんなこともあるかと思って、ビデオファイルをダウンロードしてムービー・ファイルに変換しておいた。

You Tubeに出されたビデオが引っ込められるケースは頻繁にある。珍しいものは取っておかないと見られなくなる。

Mills Brothers 2007 Video
Paper Doll
Glow Worm
Till Then

ビデオがクリックで見られない場合は、右クリックで一旦保存をしてから開いて見てください。

次のビデオはElmer Hopperが自分でYou Tubeに上げたもので、DpnaldのそっくりのDonald Mills Jr.が写っている。ミルスの2011年のコンサートに出てきたものだ。私は親父が出てきたのかとびっくりしたビデオだ。

 
Basin Street Blues

昔懐かしいミルスのビデオがある。引退直前の3人の姿である。Harryはすでに目が見えない。同じ”Basin Street Bluse”である。

 

 2012年は記念すべき年:とJohnがFacebookの中で書いている。親父たちのグループが出来たのが1922年であるから90周年になるというのである。私が慶應義塾に入った年が創立90周年の年だった。ミルスブラザースの歴史は大学並みの長期にわたるものだ。John自身がお父さんとツアーを始めたのが1982年で丁度30年、これも記念すべき年だという。

 ミルスの終焉:そんな祝い事の話をしていたJohnが2013年7月20日に突然「ミルス・ブラザースとしての活動の終わり」と告げた。その理由は日本人にはよく分からないが、アメリカのポピュラー音楽業界においても、黒人たちへの差別は歴然として続いている。自分たちの努力がなかなか報われない。いろいろ考えた末の決断だ。最後にJohnはこう書いている。”I think I'll go listen to some Buble...”・・・そうかぁ、そんなもの聴かなくてよろしい。 (2013/11/7・わかやま)

その後、誰かに諭されたのかJohnは細々と再稼働している。


FEST