Editor's note 2014/5


季節の花:カーネーション
 年頂いた年賀状に特異な一枚があった。「謹賀新年」の後に、いきなり次の文が綴られていた。「昨年12月6日、特定秘密保護法案が多くの国民の危惧と反対にも拘らず国会を通過しました。こんな政治が罷り通る日本の政治家の質の悪さに絶望するとともに、日本の亡国の徴を見る思いがしました・・・」。

この差出人とは高校楽友会時代からの、ながーいつきあいである。日頃は温厚な友が、突然こんな激しい文章を寄こしたのでビックリし、いっぺんにお屠蘇気分が吹っ飛んでしまった。

私とてこの悪法成立の経緯を知らないではない。かなり憤慨したが、隠居の性分でそのまま放っておいた。だがこの友は、その思いを直ちに年賀状にしたため友人知己に広く開陳したのだ・・・その違いは何なのか? その解答を探るため、彼に「楽友」への寄稿を求めたが色よい返事が無い。それでここに私なりの考えをまとめてみた。―― その違いは多分、彼がつい最近まで現役で活躍し続けてきた一方、小生は70歳で隠居し、日々を気ままにというか、バッハの教会カンタータでいえばBWV.156「片足は墓穴にありて我は立つ(Ich steh mit einem Fuss im Grabe)」の状態で過ごしていたことにある、と気づいた。隠居するとは元来そういうことで、あらゆる世事から遠ざかり、傍観者になることなのだと思い定めていたのだ。するとその時、なぜか55年前の大学卒業式の情景が頭をよぎった・・・時の潮田塾長(福澤先生のお孫さん・政治学者・楽友会の初代名誉会長)が「君たち、これからも死ぬまで、毎年少なくとも専門書を1冊(10冊だったかな?)は読みなさい」と訓示された・・・。


潮田江次元塾長

現役時代は社会人になってもこの教えを忠実に守っていたが、隠居してからはその垂訓をすっかり忘れていた。しかし、今年はこの年賀状のお陰で発奮し、正月から「特秘法」関連の資料収集や政治関連書籍の読書に励んだ。そしてその一端が先月の「編集ノート」に記した憲法改正問題となり、今月はその続編となった。こうなったらもう死ぬまで続けよう。必ずしも「楽友」にふさわしい話題とは思えぬが、安倍内閣の横暴な政局運営をこのまま座視し続けるのも業腹だ。そこで、意のある楽友諸兄姉と腹蔵なき意見を交わしたく、あえて管見を披瀝する。お目通しの上、ご意見をお寄せ頂ければ幸いである。
 

 月の主題は冒頭の年賀状にある「日本の政治家の質の悪さ」: ごく最近、猪瀬直樹前東京都知事の5千万円問題と「みんなの党」の渡辺喜美前代表の8億円問題という事件が発覚した。何れも選挙に絡んだ金銭貸借上の問題らしいが、どうしてこんな途方もない大金が個人間で動いたのだろう。この問題が明るみに出て直ぐ両者共に職を辞したので、裏に何かやましいことがあったからだ、と勘繰られても致し方あるまい。こんな事例が過去に山積しているから嫌になる。 

山師の玄関
政治家と山師とは同義語で、議事堂は「山師の玄関(山師が玄関の構えを立派にすることから、実質がなくて外観ばかりを立派に飾ることをいう広辞苑より)」といわれる。議員一人ひとりの素質が優秀だとしても「朱に交われば赤くなる」で、議会は国会か地方議会であるかを問わず、そうした金権亡者たちのたまり場になっているらしい。こんなことだから国家や首都百年の大計が審議されたり、「最大多数個人の最大幸福」を目指す施策が実現したりする余地があるはずはないのだ。主権者たる国民を愚弄すること甚だしいものがある!

 折テレビが「国会中継」を放映するが、ご覧になった方は何と思われた?小学生だって「あの人たち何しているの? 変な大人たちだなー」と呟くだろう。完全な時間と金の浪費である。国会議員の待遇をご存知か?歳費(衆参両院の議長・副議長及び議員に毎年支給せられる金銭広辞苑より。要するに給与・報酬の類)は1年生議員でも軽く年収4千万円を超え(他に、秘書を雇えばその給料も3名分までは別途国からベラボーな金額が加算支給される)、国際比較すればダントツの高給ということが分かる。しかも勤務評定も業績査定も定年制もないから、余程のへまでもしない限り、超高額報酬付きの終身雇用が可能となる。現実に84歳で落選したつい最近迄、41年間議員を辞めなかった医師出身の爺様がいた。議事堂に隣接した100uの快適な個人用事務所(議員会館)が自由に使え、6万円強の月家賃で都心の一等地に3LDK の議員宿舎が借りられる。もちろんたっぷり休みもとれるから、まさに言うこと無しの職場だった筈である。そんないい所ならボクもワタシも働いてみようと思うだろうが、そうは「問屋が卸さない」。もちろん選挙という関門があるが、その前に日本では国会でも地方議会でも「世襲制」という悪弊が立ちはだかっており、 一見いちげんさんが簡単に立候補できるわけがない。手続き自体は簡単でも、よほど有名な人物か有力な後援者か組織(たとえば労働組合とか信仰団体)がついていなければ、供託金(300または600万円)を没収されるだけで幕となる。

 の世襲制が日本の政治のガンである。自民党は自らその弊害を認め、09年の衆議院選挙で「世襲候補の制限等」という条項をマニフェストに掲げたが、その後何の実績もないまま放置されている。完全な公約違反だ。ちなみに06年9月の第一次安倍内閣成立以来、民主党政権時代も含めて6人の首相がほぼ1年毎に入れ変わったが、その内の4人(安倍・福田・麻生・鳩山)が世襲議員であり、内2名は世襲総理でもあった。また現在の第二次安部内閣の閣僚19人中11人(約60%)が自民党所属の世襲議員である。日本の国会議員全体に占める世襲議員比率は現在40%強というが、歯止めが無いから、その数は野党も含めて年々増加する一方である。 今後は世襲議員に非ざれば総理はおろか閣僚にもなれない、逆に非世襲議員はどんなに優秀な人材でも、いつまでたっても陣笠(幹部でない下っぱの議員連中)のままということになるだろう。ちなみに議会制民主主義先進国のイギリス下院の世襲議員は全体の3%(上院には貴族制度があり、選挙制度が異なるので比較できない)に過ぎず、アメリカは連邦議会で5%である。日本の異常さは突出しており、国際社会に恥をさらしているといっても過言ではない。

 だまだ他の悪例を挙げ連ねることもできるが「日本の政治家の質の悪さ」は、既に「経済は一流、政治は三流」という格言に言い尽くされているので、これくらいで止めておこう。むしろ本当に悪いのは我々かもしれないのだ。本質は山師と見抜きながら、顔が合えば「センセ、センセェー」とおだてあげ、政治家を増長させているのは誰か。一方、政治家たちは何故もっと謙虚になり、手の内を明かそうとしないのか。一般国民から見れば、政治家は常に内向きに扉を閉ざして蠢いているだけの印象である。首相の動静にしたって、毎日のように高級料理店やホテルで時間を費やしていることは分かるが、飲食していることの他何をやっているのかは皆目分からない。マスコミも極めて限られた情報しか提供してくれない。そして更に特定秘密保護法が政治家と国民の間に厚い隔壁を建てつつある。その壁を打破し、代議士としての真価を発揮して貰うためには、国民一人一人が主権者としての自覚をもち、ハッキリとした意思を何らかの行動をもって表明する必要があるのだが・・・スペースが尽きたので今月はここまでとしよう。


特定秘密保護法案反対3千人デモ(1月25日付・朝日新聞デジタルより)

(‘14年5月7日・オザサ)


90歳のDolly Baker(1922-2014)

Thelma "Dolly Baker" Botelho 92歳で死去かっぱが最も敬愛していたおばあちゃん歌手、Dolly Bakerが4月23日に亡くなった。30年前、高樹町の富士フィルム本社の向かいの小田急ビル地下半階に”Ari's Lamp Light”という古びたピアノバーがあった。神戸のピアニスト、中川 和が「先生の家の近くだから寄ってごらん」と紹介してくれた店だ。

西部劇に出てくる酒場の入り口のような開き戸を押して入るとゆったりしたバーカウンターが右側に、左側のフロアーにはグランドピアノを囲むようにテーブル席があった。一人で入っていったのだが、フロアマネージャーが親切に対応してくれた。河野という男だった。

「おー、このマネージャーならいい店だ」と直感した。

初めての店だからいろいろと観察している。ピアノに座っているのがこの店のオーナーでピアニストの有福 隆だった。
 

「神戸の中川の紹介で来ました」で大歓迎してくれ、すぐに仲良くなれた。後で知ったのが、幼稚舎の同級生がこの店の常連だと聞いてびっくり。店主は余計に親切にしてくれた。気に入って暇があるとこの店に通うことになるのだが、「最終木曜日にDolly Bakerが歌いに来ますから、是非来て下さい」と言われた。

最終木曜日になった。Dolly Bakerなる歌手に会いに出掛けた。

 リーとの出会い:80年代の前半というと、わたしが好んで歌う歌はサミー・デイヴィスJr.のレパートリーからが多かったし、歌い方もサミー・スタイルで歌っていた時期があった。そういう私の耳にドリーの歌は驚異に聴こえた。説得力のある丁寧な歌だった。言葉を大切に歌っていた。だからすべての単語が聞き取れる。今まで日本では聞いたことがない本物のジャズボーカルだった。「何故、こんなすごい歌手がこんな場所で歌っているだ?」ドリーは1セット歌い終わると私の隣に来てくれた。私はこの人を歌の先生に、お手本にしようと決めた。その頃、ドリーは60代、私は40代だった。ドリーの日には必ず勉強に行った。身近にいるものに聞かせたい。ゼミの女の子まで連れて行って聞かせた。飛び切りいいものはどんな素人が聞いても感動するものなのだ。


アポロ劇場

大正11年(1922年)2月7日、Thelma Bakerはニューヨークで生まれて、父親がトランペッター、お母さんがダンサーという音楽一家の中で育った。1938年のアポロ劇場アマチュア・コンテストでの優勝者である。わずか16歳の時である。かの有名なエラ・フィッツジェラルドは1934年の優勝者、サラ・ボーンは1942年の優勝者である。またたく間にドリーはアート・テイタム、チャーリー・パーカー、ビリー・ホリデーらと並び称されるミュージシャンと言われるようになっていた。

1961年にドリーの人生の転機が訪れた。ポルトガル人の事業家との、ドリーにとって2度目の結婚である。そして、1962年に夫のビジネスの場であった東京に移り住むことになった。ドリーのキャリアーはこの時すでに終わっていたのである。しかし、日本は「ジャズのホットベッド」であることにドリーは驚いた。ジャズを聴きに来る人たちのジャズの知識、ジャズへの情熱はアメリカ人のそれを凌ぐものであり、彼らが平気でオリジナルの英語の歌を聴くのを知り「言葉の壁」は存在しないと感じたという。

「ここで、もう一度唄おう」

と、ドリーは東京の地で再びライブを始めることを決心した。ドリー自身、自分に対する「需要」があることを認識したのである。

さて、”Thelma”という名前は日本人にとって発音が難しい。ある晩、Thelmaは”Hello Dolly”を唄っていた。ルイ・アームストロングの大ヒットである。Thelmaはルイの物まねも上手だった。

「そうだ!Dollyをステージ・ネームにしよう」

そして、Dolly Bakerと名乗るようになり、”Hello Dolly”はドリーの幕開けソングとなった。

 京に40年:1977年に夫は他界した。しかし、ドリーはアメリカに帰らず赤坂円通寺通りのマンションに住み続けた。ドリーほど日本を愛し、日本のジャズ・ミュージシャンを愛し、日本のジャズ・ファンを愛したジャズ・ミュージシャンはいない。

満身創痍で長生きした珍しいおばあちゃんである。大腿骨もステンレスの人口骨が入っているのだと聞かされた。ステージの前3時間には食事もせず、アルコールも飲まない。これもドリーが教えてくれた。もちろん、ドリーは煙草を吸わない。 ビールは飲みますがね。

20年、30年前のライブハウスは衆知のようにタバコの煙がモウモウとしているのが普通だ。そのため、高齢のドリーは喉を痛めたというより、呼吸困難になり慶応病院に担ぎ込まれたことがある。その後、心あるライブハウスはドリーの唄っている間は「禁煙サイン」を出すようになった。

1998年のゴールデンウィークには、突然、心臓ペースメーカーまで入れられてしまった。ドリー曰く、

「わたし死んでも、心臓は止まらないんだから」

そのドリーも2001年5月にアメリカに帰ることになった。そこで2月にドリーの誕生日祝いとサヨナラパーティを六本木のCozy-Lで大勢のミュージシャンやドリーファンを集めて開催した。淋しいことだが仕方がない。10月はじめには再度東京に戻ってきた。翌年の1月半ばまで滞在したが、その間に、2001年度「日本ジャズボーカル大賞」の受賞が決定した。外国人としては初めての受賞である。

ドリーはまだまだ唄える。まわりが放っては置かない。特に、ボストンで一番といわれるJazz Club "SCULLERS"でのライブにはすこぶる喜んで、その様子のVideoまで送ってくれた。その中でドリーの実の妹ボビーと2人の漫才のようなショーがあるのだが、お客さんはひっくり返るようにゲラゲラ笑っているのだが、悲しいかな、Jokeが難しくて笑えない。これには流石のカッパも参った。

 リーが東京に帰ってきた:ドリーの一番古い日本人のお友達は沢田靖司と木津ジョージである。昔のMistyで会ったのだという。2006年1月、沢田靖司の50周年コンサートに出演するため東京に帰ってきた。歳も歳だ、長旅を心配していたが元気に飛行機で飛んできた。コンサートは東京FMホールで大盛況だった。


沢田靖司             Dolly Baker             木津ジョージ

2006年2月7日は満84歳になる。そこで2月4日(日)にごくごく親しいミュージシャンと関係者を赤坂のLittle MANUELAに50名ほどを集めて誕生日を祝った。狭い店が超満員になった。


オージーサンズ”Hello Dolly”を歌う

賑やかな誕生パーティだった「俺たち何を歌おう?」「ハロー・ドリーしかないだろ!」というので、1月になってから特製のアレンジで書いた。この日は歌手も一杯、演奏家も一杯、入れ替わり立ち代わりお得意の歌を歌ったりなのだが、こういう時にプロの歌手たちの脳の無さを毎度感じる。自分の持ち歌しか歌えないのだ。

素人のわれわれは「この日のための特別の出し物」を用意した。上手い下手の問題ではない、心が通じるかどうかなのだ。普通のハロー・ドーリーではない、リズムを全く変えてやった。ドリーは叫びましたよ。

「一緒にボストンに帰ろう!」って。

 後の便り:今年のお正月にドリーからカードが届いた。毎年、写真や手紙を送り合うのが習慣となっている。こんな写真が添えられている。


最後の便り

足の色がおかしい。本人は半分冗談の積もりで自分の足の写真を送ってきたのだろう。が、本当は病が進んでいたのだった。2月始めに転んで腰を痛めて入院した。それは回復したのだが、両脚とも血行不良が原因で感染症が進んでいるのが見つかった。ついには脚が壊死してしまい医者は切断しかないと言った。ドリーはそれを断った。その後、5週間は緩和ケアを受けながら・・・。92歳と2ヶ月の生涯だった。

ドリーが必ず歌ってくれた歌があるが、その1曲を聴いてください。”Sunday Morning Comin' Down”はどれだけわたしの心を癒してくれたことか。

⇒ Sunday Morning Comin' Down

偉大な歌手ドリー・ベーカーに乾杯!

(2014/5/7・かっぱ)


FEST