Editor's note 2014/7


カッパと共に!

  7月7日には多くの人が「天の川」を想起します。そこで国土交通省は18年も前に、この日を「川の日」と定めたそうです。が、何しろ「お役所仕事」。その日が一体何のためにあり、その事によって日本の川にどんな変化が起きたのか、あるいは起こそうとしているのか、一向に分からぬまま今日に至っています。でも私は、そのシンボル・マークが気に入っています。お分かりでしょ?!「楽友」相棒の若山君(9期・通称「カッパ」)がカワイー?く描かれているからです。http://www.japanriver.or.jp/kawanohi/

実際、今日はホームページ「楽友」の創刊記念日でもあるのですが、2008年以来今日まで6年間、1日も欠けることなくアクセスを受け続けていられるのは、一にかかってカッパのお陰であります。このイラストを高く掲げ、心からの謝意を表する次第であります。
 

 て、本題は「川」の事。子供の頃、空襲のない日は、よく多摩川で泳いだものです。<日本の周囲は海だ。だから皆、泳ぎは達者でなければいかん!>といわれ、男子は小学校入学と同時に水泳の特訓を受けました。だから、東横線のガード下はかなり深い急流で怖かったのですが、3年になると一人で対岸に泳ぎ着くことができるようになりました。水も川岸もきれいで魚もたくさんおり、近所の子供たちは三々五々、大はしゃぎで遊んでいました。中学時代は転居して仙台の広瀬川。ここもきれいな水と川辺で、かなりの急流を遡る「抜き手」という泳法を覚えました。この泳法は常に顔を水面上に出しているので、川の情景が確り目に焼きついています。岩に砕け散って7色に輝く川波、そこで餌を待つ千鳥、緑の堤とそこに映える色鮮やかな草花、子等が群れ遊ぶ明るい情景・・・・・。

 ころが帰京して自由が丘に戻り、塾高に通い始めた1952年。東横線から多摩川を見下ろしたら、橋脚に白い大きな泡がまつわりつき水面に漂っていました。子供時代には無かった現象で、上流や周囲の工場や家庭から出た下水が原因と知りました。それ以来水質汚染が進み、今はさすがにそんな泡は消えているとはいえ清流とはいえず、誰もそのままの水は飲みません。そこにはただ膨大な水が流れ下っているばかりで、泳いだり河原に遊んだりする人影もついぞ見かけられなくなりました。

現在私は隅田川と荒川のちょうど中間あたりに隠居しているので、よく両河川の川辺を散歩しますが、こちらも多摩川同様ただの大河に過ぎず、かつて歌に詠まれたような詩情を偲ぶ風情は殆どありません。やたら無機質なコンクリートの防波堤や突堤、あるいは貸し球場群と野草の生え茂った空き地ばかりが目立つ、「殺風景」としか言いようのない風景です。

 かし仙台の広瀬川は違います。豊かな自然と景観の美そして何よりも良好な水質が今もあり、「日本の自然100選」や環境庁の「日本の名水100選」に入っています。元の環境が良かったせいもあるでしょうが、優れた治山・治水処理、それに全市民が一丸となっての清掃活動や下水道整備に取り組んだ成果でしょう。戦後急速に水質が悪化したことがあったようですが、現在では市中の住宅街・五橋あたりでも、昔私が遊泳した1949年頃と同様、子供たちが魚を追ったり泳いだりして、清流に親しんでいるそうです。さすが「杜の都・仙台」と感じ入りました。


仙台の七夕飾り
 台は「七夕」でも有名です。http://www.sendaitanabata.com/
本格的な祭りは旧暦の慣習を守って8月6日から始まりますが「一番町」通りの飾りつけはおそらく全国一の規模と豪華さでしょう。大竹がしなう見事な七夕飾りが吊るされています。通りはアーケード構造なので雨風にさらされる心配はありませんが、竹が折れたら大変です。でも係の人は「仙台竹は決して折れません」と自信満々でした。端から端まで歩くと、上ばかり見上げているので間違いなく首痛に悩むことになるでしょう。そこで皆さん途中で一休み。かき氷を食べたり食事したり買い物したりで商店街は大賑わいです。それはそれで良いのでしょうが人工照明が明るさを増せば増す程、夜空の神秘は消えていきます。しかも現在の7月7日は梅雨期と重なりますから、殆どの大都会の上空から「天の川」の星くずや「牽牛星・織女星」の星陰は姿を消しました。そこで田舎に行くしかないかと思いましたが、それも億劫で困っていました。


平和の祈り(清水七夕まつり)

 ると都会にも小さな救いがあることに気づきました。「たなばたさま」の歌です。今でも保育園・幼稚園・小学校ではこの歌を教え、皆で七夕飾りを作ったり、願い事を書いた短冊を吊るしたり、それを囲んでお祭りもするのだそうです。その事を知ったので、早速幼稚園に通う孫に電話したら、喜んでその歌を大声で歌ってくれました。嬉しくなって涙がこぼれました。サァ皆さんも、ご一緒に歌いましょう!

 

https://www.youtube.com/watch?v=xAGDFBWYEqE

「たなばたさま」
作詞:権藤 はなよ・林 柳波
作曲:下総 皖一

1) 笹の葉さらさら
軒端に揺れる
お星様きらきら
金銀砂子
2) 五色の短冊
私が書いた
お星様きらきら
空から見てる

注:砂子すなごは金銀箔の粉末で、短冊などに吹き付ける装飾材

(14年7月7日・オザサ)


銀杏並木から日吉駅

3年ぶりの現役との交歓会:恒例の現役OBOG交歓会が7月5日(日)に日吉の食堂グリーンマルシェで開催され90名を越す18歳から80歳までの老若男女で和やかなひと時でした。カッパはAGFCの日の交歓会以来です。

楽友会の演奏会をはじめ主要な催しには岡田先生ご夫妻がご出席くださり、会を盛り上げてくださったのですが、米寿のお祝いも昨年から今年にかけて、「岡田先生米寿を祝う会」「楽友三田会新年会」「高校楽友会定演50回記念祝賀会」などで執り行われ、先生も大変なご高齢でもあり、今後の会合には失礼させてほしいとのアナウンスがありました。実際、お二人とも足元が危なくて見ていられません。どうしてもの時は私が送り迎いします。
 

カッパの役目柄、現役の役員・幹事の諸君から諸事の報告や原稿などを送ってくれますので、彼らの名前は頭の中とメールリストにいっぱい詰まっています。「楽友」に交歓会の記事や写真を上げながら沢山のOBOGが参加している姿を見ているうちに、毎年、決まって参加する常連さんがいることに気がつきます。わが編集部のオザサ爺さんもその常連の一人でしたが、ここのところ外出することが難しく簡単に出て来られません。というわけで、カッパがオザサの代わりに顔を出す機会がめっきり増えました。その結果、現役の皆さん、あるいは卒業したばかりの若い三田会員たちに顔見知りができてきました。それで、じいさんは若返っています。ほら!

副幹事長 渡邉眞梨奈(4年)
女声庶務 蓑谷彩香(3年)
会計 栗田 礼(3年)

この交歓会には毎年出ないと現役は卒業していってしまうということです。爺さんばあさんは、50年一日のごとく何も変わらないのですが、現役メンバーはどんどん代わっていくのです。3年空けてしまうと皆卒業してしまうのです。皆さん、毎年来てください。

カッパと同様に、復帰してくれたのが須藤写真館です。昨年、楽友会の古写真を送ってくれて「須藤フォトヒストリー」が開設されたことがきっかけです。また、これから楽友会行事の写真を沢山提供してくれます。

⇒ 須藤フォトヒストリー    ⇒ 現役・OBOG交歓会2014



Jimmy Scott (1925-2014)

 Jimmy Scott 88歳の生涯:ジミー・スコットの数奇な人生はNHKテレビでも90年代初めに放送されたことがあった。当時、すでに60代半ばになっていたJimmy Scottが取り上げられたのにはわけがある。

50年代からリズム&ブルースの歌手、Little Jimmy Scottとして名を上げた。カッパが高校生のころだった。もともと子供のような身体と声をしていたのでそんな名前がつけられた。しかし、自分自身はJazz Balladが歌いたかったのだがレコード会社はそれを許さなかった。
 

かのレイ・チャールスが1963年にプロデュースし、ジャズボーカル・アルバムが完成した。それが売り出される前にラジオで放送され大反響となったのだが、Savoyというレコード会社がJimmyとの生涯契約を盾に発売を妨害した(40年後にリリース)。こんなことが2度もあり、Jimmy Scottの名前は世の中から忘れ去られてしまった。それから20年間は生まれ故郷のクリーブランドに戻り、ホテルのエレベーターボーイや病院の配達夫をやったり食うや食わずの不遇のどん底生活を続けてきた。

そんなジミーを何とか表舞台にカムバックさせようと親身になって動いてくれたのが、日本では越路吹雪でヒットした「ラストダンスは私に」を作曲したDoc Pomus(1925-1991)という男だった。しかし、その労が実らぬ前にDoc Pomusは肺がんでこの世を去った。

「俺が死んだらガーシュインの”Someone To Watch Over Me”を歌ってくれ」とJimmyに言い残した。

Jimmyは一世一代の”Someone To Watch Over Me”をDocに捧げて歌った。教会中の人が涙を流したのだが、Warner Brothersのレコード会社、Sire Recordの社長、Seymour Steinがその場に居合わせ感銘を受けた。そして、Jimmy Scottは60代半ばの歳でカムバックを果たすことになった。

Doc Pomusという善意の人間がいて、われわれはJimmy Scottの歌を生で聴くことが出来たのだった。

2014年6月12日、米ラスベガスの自宅で死去。詳しい死因は明らかにされていないが、スコットは長年、遺伝的なホルモンの不足による健康問題を抱えていた。88歳だった。(AP通信・2014/6/14)

 

6月14日の晩、この歌を聴きながらJimmyを偲んだ。あの身体でここまでよくぞ長生きしてくれた。ゆっくり休んで欲しいです。この写真は、2003年に東京に来たときにカッパが撮った写真です。この2年後にも来日したが車椅子だった。


2003/7/24(photo by Wakayama


(2014/7/7・かっぱ)


編集部注 今日からHP「楽友」は7年目に入ります。小笹主幹が「楽友会のホームページを作ろう!」と立ち上がってくれたお陰です。みなさん、この先輩がいたから「楽友」があります。7年目の浮気はしないで書き続けます。

一昨日は現役の人たちにも「楽友」の宣伝をしてきたばっかりです。

楽友会には「楽友」という会誌が、現在の楽友三田会会友である世代の先輩により、塾高を卒業する1951年3月に創刊されました。それが代々引き継がれ、カッパがまだ現役でいたころには、楽曲の解説があったり、ラテン語の歌詞の和訳があったりして、アカデミックな薫りのする会誌でした。それが、安易に卒業生の作文集に化していきました。それでも、1980年代当初にはまだ発行されていた記録があるのですが、いつの間にか消えてしまいました。存在意義が認められなくなったのでしょう。何時の時点で消えてしまったのか。こういう伝統が消えてしまうのは残念な話です。

合唱曲を歌って楽しむだけのクラブではなかったのです。年齢は若くとも考えることは大人が沢山いたのです。これは福沢イズムのひとつの表れです。

幹事長の高山君、副幹事長の眞梨奈さん、現役の諸君、君たちで会誌「楽友」を年間1号でもいい、再開してみませんか?

もし、そんなことになったら昔々「楽友」を手作りした人たちが拍手喝さいすることでしょう。楽友会にはよき伝統というものがあります。若い人たちに知ってほしいです。HP「楽友」には66年の歴史が一杯詰まっています。


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