Editor's note 2015/3


沈丁花(季節の花 300より)


白木蓮(季節の花 300より)


クロッカス(季節の花 300より)

「桃の節句」を祝う明るい時期というのに、メディアは悲惨な「川崎『中1』リンチ」事件でもちきりである。できるだけ避けていたかったのだが新聞・テレビが連日トップ扱いで報じたので、いやでも目に留まる。すると自分自身の中学時代の厭な思い出と重なり、たちまち暗い気分に陥るのであった・・・・・。

れは十代前半の話だから、もう70年近い歳月が流れている。それにもかかわらず、すぐその頃の情景が想起されるのは、その年代−大人になりかけの子どもの感受性がとりわけ敏感であったことも一因であろう。ともかく私は父の転勤に伴い家族一緒に仙台市に転居。近所の中学に入学して新しい環境にワクワクしながら通学を始めた。初めは皆が新1年生になったばかりだから、誰彼の違いなく新しい環境になじむ努力に精を出していた。しかし時日がたつにつれ種々のグループに別れた。出身小学校、住居地、親の職業といったことで自然に分派が生じたのである。

私はその何れにも属さなかった。というより、属せなかった。何しろ直ぐには東北弁が使えない、住んでいる家が高級な洋館だった、それに何よりも髪の毛が「坊ちゃん刈り」だった事が災いしたようだ。東京の小学校ではそれが普通だったが、当地では皆「坊主刈り」だったので、ある日、豆腐屋の倅Iとその子分数人に取り囲まれ「すかしてやがる!」とコテンパンにのされてしまった。もちろん顔や手は傷だらけで、ヨレヨレの姿で帰宅して母を驚かせたが、母は絶句したまま何も言わなかった。ただ、私の傷口を消毒してくれたり、泥だらけの衣服を洗濯してくれたりしている時に、大粒の涙を滴らせているのが分かり辛かった。そこで自分も悔し涙にくれながら対策を考え、先ずは床屋に行って「坊主」になり、次いで喧嘩に勝てるよう柔道教室に入門したのである。

かしそれも長くは続かなかった。たった1年で家族はまた東京に帰ることになり、私は目黒区立の新設中学校に転校したのである。すぐまた髪を伸ばした。それは簡単なことだったが、新しい級友たちにとけこむのは容易でなかった。既にグループが固まっており「よそ者」は冷たくあしらわれた。戦争直後でクラブ活動なんか無い。だから一人で勉強に専念する他はなかった。勉強ができるようになると先生が好意を抱いてくれる。だが、それがまた新たな問題となった。

例えば先生が「小笹君を見習いなさい」とか「そんな答えが分らないのか。後で小笹に教えてもらえ」とか言う。するとすぐに周囲でヒソヒソ話が始まる。「エコヒイキだ!」「きっとアイツンチは先生たちに何か付け届けしてんだ」といった会話が聞こえてくる・・・。

そんなある時、ヤクザの一員と噂されている、学年一の大親分Aから「放課後xxxに来い」と声をかけられた。また袋叩きにされるのかと恐ろしかったが、覚悟を決めて行ってみると案に相違し、Aはむしろ懇願調でこう言った。

「オメーはMたちに狙われているぞ。オメーのカメラを横取りする相談をしている。用心しろ。それから日にでオメーを待ち伏せして『ヤキを入れる』と言っていたから、その日はその傍を通るな。今後もオレは内緒でこういう情報を伝え、オメーを守ってやる。MやHが何かしたら、すぐに言ってこい。助けてやる。その代り試験の時、オレに答えを教えてくれ・・・」。

その1週間後。Mは私の留守中に家に来て、応対した母に「小笹君に頼まれてカメラを取りに来た」と嘘を言い、まんまとカメラ1台を持ち去ったのである(だがそのカメラは、事前に情報を知っていた母の機転で、古い年代物のボロ・カメラであった)。ということで、以後私はAの要求通りカンニング・ペーパーを渡す常習犯となったのである。Aの席は私のすぐ前だったから、紙を渡すのは容易だったが良心は痛んだ。しかし背に腹は代えられぬ。Aはいつも剣鍔とか自転車のチエーンをちらつかせたり、懐中のドス(短刀)を見せびらかしたりしていたから、とても柔道なんかじゃ敵わぬと思い、唯々諾々とカンニングに応じていたのだ。おかげで暴行を受けることはなかったが、今でも不快感にさいなまれてうなされることがある。

回の川崎の上村遼太君(13歳)のケースも私の実体験と似たところがあり、とても他人事とは思えなかった。もっといえば、こうした事件は私だけではなく、広く一般性があるところから、マス・メディアの多くが大々的にこの事件を報じ、社会の木鐸として警鐘を鳴らしたのではなかろうか。

上村君は島根県の離島から2013年9月に川崎区の小学校に転じ、翌年中学校に進学した。そしてバスケットボール部に入るなどして非常にうまく順応しているかにみえた。が、実情はその逆で、むしろ疎外感に悩んでいたようである。そのため徐々に部活を離れ、ついには学校も無断欠席し、不登校になった。代りに彼が帰属したのは近隣の不良グループだった。仲間になるのは簡単だったが、先ずはリーダー格の無職少年(18歳)の言いなりに万引きや使い走りをしなければならなかった。しかし、そんなことを離島育ちの純朴な少年が、いきなり小器用にやりこなせるはずがない。当然リーダーの機嫌を損ねたに違いない。そして今年1月中旬、怒ったリーダーの暴行を受けたうえ、2月20日には全裸で多摩川に入ることを強要され、泳がされ、遂にはカッターナイフによる刃傷沙汰で刺殺され、遺体は全裸のまま放置されるという異常なまでの制裁を受けたのである。

まりにも酷い弱い者いじめで書く手も震える。上村君の恐怖はいかばかりであったろう!いったいこの加害者の両親はどのようにその息子を育てたのか、また被害者・上村君の親族や学校関係者は、なぜこうした事態の推移を知りながら放置していたのか。そうした大人たちの無関心と無責任な対応こそ、この事件の最も恐ろしいところである。よしんば家族や教職員に特殊な事情があって対応できなかったとしても、川崎にはスクール・ソーシャル・ワーカー制度(SSW)があり、学校が区に要請すれば専門家が派遣される仕組みになっていた。だが今回、最後までその要請はなかったという。何たる怠慢、何たる無責任か。もしこの制度を活用していたら、少年たちの非行や不登校の対処策を専門とするワーカーが介入し、この事件は未然に防止できたはずなのだ!

上の内容は「樂友」にふさわしくないかと思えたが、同年代の子や孫をもつ世代の樂友にとっては、看過しえない重大問題をはらんでいると確信し、あえて採りあげた。意のあるところをおくみとり頂ければ幸いである。

 (オザサ/15年3月7日)


蔵王地蔵山 15/3/7

蔵王スキー毎月編集ノートは7日にアップしていますが、今月は少々遅延配達です。2011年に定年退職したものの蔵王でのスキー合宿は今も続き、ゼミ卒業生の家族が集まってきます。今年は我が家の孫までを含めて16人が集まりました。写真は7日の蔵王山頂です。私と一緒に写っているのは98年卒のゼミ生で一家4人での参加です。「先生、山頂まで行きましょう」「よし!」で、ガスが掛かって何も見えなかった山頂まで行くと不思議なことに雲が飛び、陽が出てきました。
 

何とも穏やかに見えるでしょ?ちっとも寒くありません。2日前に雪が降っていたため樹氷は盛りのようにきれいでした。樹氷の盛りとは1月後半から2月前半で、最もきれいな時期なのです。


地蔵山の樹氷


お地蔵さんの前で

昔は私の教授会など学事日程に合わせて合宿の日取りが決められたのですが、今ではOBGの子供たちの学校の都合に合わせて決められます。今年はそれで3月6〜8日になったというわけです。

この写真の裕大君というおちびさんは1年生ですが、毎年蔵王に来てスキーを習っています。上手になりました。地蔵まで行ってざんげ坂を私について滑って降りてきます。転ぶこともありません。お父さんとお母さんは若ゼミ婚です。

昔の楽友会のスキー旅行は志賀高原にもよく行きましたが、やはり蔵王が本命でした。その頃を思い出すと、松本栄ちゃん(6期)や佐野さん(7期)の顔が浮かんできます。佐野さんが中央ゲレンデで捻挫し、リフト乗り場までおんぶして降りたことがありました。スキーは歩くより得意で、おまけに若くて足腰が強靭だったのです。


長部正太(1946- )

 長部正太4月に帰国サンフランシスコ在住の仲良しピアニスト、長部正太が4月に帰って来るとメールが来ました。1968年に渡米してそのままベイエレアに住み着いてしまった男で、米国作詞・作曲家協会正会員(A.S.C.A.P.)、米国音楽家ユニオン会員(Local No. 6)というアメリカに登録されたミュージシャンです。

彼の義兄は寺島さんという音楽プロデューサーで、3大テノールの国立競技場でのコンサートは寺島さんのプロデュースでした。寺島さんもロサンゼルスに住んでいますから10年近く会っていません。

2006年の沢田靖司と長部正太のスペシャル・コンサートで初めて長部正太のピアノを聴きました。それ以来、洒落たフレーズのとりこになりました。

近年は毎年、1,2度帰国してライブやコンサートを開いています。

来月は4日(土)と6日(月)に赤坂エクセルホテル東急14階のスーパーダイニング・ジパングでディナーショーがあります。 ⇒ チラシ(pdf)

 長部正太のCDベースはレイ・ブラウン、ドラムスはハロルド・ジョーンズです。粋で大人好みのCDとなりました。ピアノが歌っています。それに収録されている曲がユニークです。レイ・ブラウンはこの年(2002)の7月にうたた寝している最中に亡くなってしまいました。このCDがレイ・ブラウンの最後のレコーディングです。Amazonで購入できます。

http://www.amazon.co.jp/Happy-Coat-Shota-Osabe/dp/B000WGX7HK


長部正太のCD

1曲目には”This Is All I Ask”という曲が入っています。これは私が敬愛してやまないGordon Jenkinsの作詞・作曲になる歌で、20年来、時々思い出したように歌っています。

This Is All I Ask を聴いてください。

(2015/3/9・かっぱ)


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