Editor's note 2015/12


信時 潔(1887-1965)

 年は「戦後70年」。各地・各メディアでさまざまな記念行事が展開された。私はその内の一つ<信時潔・没後50年>に着目した。

その人の名を見れば、塾生・塾員ならすぐ「塾歌」を想起するだろう。それは1941(昭和16)年に発表されて以来、74年の永きにわたり全塾のあらゆる公式行事や慶早戦等で歌い継がれてきた校歌である。だから当然といえよう。次いで私は「海行かば」を歌った。若い人はこの曲をご存じないだろうが、その昔は「第二の国歌」とも言われるくらい頻繁に歌われた曲である。それで、終戦時に小学3年生であった私ですら、未だに全部そらんじているほどになじんだ曲だったのである。
 

 詞は次の通り(「万葉集」巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」中にある、大伴家持の長歌の一部)。

かば 水漬みづかばね  山かば 草生くさむかばね
大君おおきみの にこそ死なめ かへりみはせじ

現代語で意訳すれば「海で溺死できしし、山で草にもれて死のうとも、大君(天皇)のもとに死ぬのだから、後悔はしない」といった意味である。これは1937(昭和12)年、日中戦争(支那事変)の拡大に伴い、NHKが時の政府の意向を受けて国民の戦意高揚を目的として選んだ歌詞である。だが、その作曲を委嘱された信時潔は、これを戦意高揚というよりも、戦死者を追悼するための荘厳な葬送曲に仕上げていた。それ故この曲は「信時のレクィエム」とも言われ、歌いやすい曲調と相まって広く人口に膾炙かいしゃしたのである。

 が戦後、この歌は急に鳴りをひそめた。GHQ(占領軍総司令部)がこれを軍歌の一として、演奏に難色を示しらしい。信時の無念は想像を絶する。彼が時流におもねり、好戦的な軍歌を作曲したり、自ら帝国主義的な音楽活動に参画した痕跡は全くない。むしろ1887(明治20)年に牧師の息子として生まれ、讃美歌や教会音楽と共に育った彼は、骨の髄から平和主義者であった。しかし、進駐軍の意向に異を唱える者もないままこの曲は、世間から忘れ去られてしまったのだ。

 940年に作曲された、信時音楽の集大成とも言うべき「海道かいどう東征とうせい」も、「海ゆかば」と共にその音楽的生命を抹殺されてしまった曲の一つである。「海道東征」は「海行かば」の延長線上にある大曲だが、「皇紀2600年」の国家的祝典行事で盛大に用いる目的があったから、予算は無制限だったようだ。作詞を北原白秋、作曲を信時潔という当代一流の大家に委嘱したのもその現われの一つだったろう。白秋はその原典を日本最古の書物「古事記」にとり、高千穂の峰の天地開闢かいびゃくから天孫降臨、神武東征、大和政権の樹立に至る壮大なくに造り神話を、文学的歌詞に昇華して信時に渡した。それを受けて信時は、戦時中の緊縮財政下では信じられないほど大規模な編成の大曲を作った。それは常々校歌とか社歌といったワンパターンの小曲しか注文がこなかった時代の作曲家としては、音楽家としての力量を十分に発揮できる、願ってもないチャンス!と思われたに違いない。

 して8楽章で構成された、ソリスト6人、混声4部の大合唱団と児童合唱、それにピアノと2管編成の大オーケストラを要する大カンタータが完成したのである。全曲の演奏時間は約1時間であった。ちなみに「皇紀」という紀年法は、神話に基づき神武天皇が初代天皇として即位した年を紀元とし、西暦のB.C.660年を日本の紀元々年と定めたもので、それを基準として計算すれば1940(昭和15)年(日独伊3国の軍事同盟成立や大政翼賛会が発会した年)が「皇紀2600年」となる。その皇紀を利用して歴史の長さを誇ると同時に、国威を発揚しようとしたのである。神話と現実を結びつけること自体が不合理なのだが、皇国史観の定着に躍起となっていた軍事政府は、そんなことにお構いなく、この年に全国的な祝賀行事を大々的に展開した。そしてそれが信時とこの曲の不幸となった。戦後は「海道東征」も「海ゆかば」と同様、帝国主義者の音楽として退けられ、封印されてしまったのである。

 まれ今年は<信時潔・没後50年>ということで、この2曲もようやく真価が見直され、演されるようになった。11月には信時の故郷大阪で大阪フィルが全曲演奏会を2回開催し、同26日には「海道東征」を初演した信時の母校・東京芸大が、上野の奏楽堂で75年ぶりに全曲を再演し、何れも大入り満員の大盛況・大好評となったと報告された。日本の洋楽界にとって今年は画期的な年になったのである。


大阪フィル


東京芸大

   
 
ころで、信時先生が我々の演奏会に来て下さったことがある、という事実をご存じだろうか?「リレー随筆」コーナーの目次、上から10段目にある伴博資(10期)君の記事信時潔先生との出会い」をご覧あれ。そこに女子高「楽友会」初代部長の渡辺恵美子先生(愛称:ポッポちゃん)が、信時大先生をお連れ下さったことが書いてある。「縁は異なもの味なもの」と言うが本当だ。私はこれを読んで大先生に非常な親近感を覚えた。ぜひ皆さんにもお読みいただき、大先生とその畢生ひっせいの大作「海道東征」その他の作品を知っていただきたい。信時作品はバッハのコラールにも似て歌いやすく、心にしみ入る名曲ぞろいなのだ。だから、楽友会のレパートリーとして最適である。もし我々がこれらを歌うようになれば、09年に帰天されたポッポちゃんは、天国で大先生とご一緒に大喜びしてくださるだろう!

(2015年12月7日: オザサ)


Joe Williams(1918-1999)

 Joe Williamsのブレス:楽友の皆さんにはおそらく馴染みの薄いジャズ歌手だと思います。私のジャズ・ヴォーカルの師匠は2014年に92歳で亡くなったDolly Bakerと彼女の日本での相棒だった沢田靖司というVocalからPiano、Sax、Flute、Organのジャズ・マルチ・プレーヤーです。その沢田が語ってくれた話の一つは「ブレスの仕方」についてです。30年程前の話です。

「邦ちゃん、ジョーに凄げぇこと習っちゃった」と言いました。それは如何にしてブレスをするかという話でした。

「足の裏から大地のエネルギーを吸い上げるようにブレスしろ。すると空気が背中に溜まる」

この表現はじつに含蓄のある言葉です。テクニックではなく意識の問題を語っているのです。実際、足の裏からは空気は入りません。

ジョーはそれを裏付ける姿勢で歌っていました。足の裏でしっかり大地をつかみ、いつも背筋の伸びた高い姿勢で歌っていました。

 分の家で死にたかったジョー1999年3月、ジョーはラスベガスの病院に入院していました。29日の夜、日本はもう30日です。ジョーは病院を一人で抜け出し、自分の家に歩いて帰ろうとし、自宅の300m手前の道路上で倒れて死んでいるのが発見されました。

31日に訃報が入り、沢田家からも電話があり「縁が深かった」と不慮の死を悼みました。

人間は病院で死にたくない。自分の家で死にたいと思うものなのでしょうか。その1年前、親父が84歳の時、肺炎で入院しました。「ドアを開けてくれ」というので、空気でも入れ換えたいのかと思い病室のドアを開けてやると、「家に帰ろう」でした。点滴、酸素吸入だの心電図だの管やコードが身体に一杯つながっているのにです。その翌日、息を引き取り望み通り家に連れて帰りました。
 

 ョーとHere's To Lifeという歌:ジョーにはカウント・ベイーシー楽団の専属歌手だった時代から多くのヒット曲があるのですが、1984年にArtie Butler(1942- )という作曲家が仕事でラスベガスに行ったとき、ジョーに会い「出来たばかりの歌があるから聴いてもらいたい」とHere's To Life(人生に乾杯!)という歌を弾き語りで聞かせました。ジョーは直立したままボロボロと涙をこぼして「もう1回歌ってくれ」と言い、Butlerはもう1回歌って聞かせました。


Artie Butler & Joe

ジョーはこの歌を自分のシグネチャー・ソングとしてテレビやライブで歌い続けていました。しかし、当時のVerveの愚かなプロデューサーはレコードの吹き込みを許さないので、自己啓発のためにプライベート・レコーディングをしてテープを作成しました。ところが、ジョーのマネージャーで以前Shirley HornのマネージャーでもあったJohn Levyが彼女にそのテープのコピーを渡してしまい、結局彼女が正規のレコーディングをする事となり、しかもグラミー賞等を取るなど大成功を収める事となってしまいました。

ジョーは自分の歌を盗まれたと怒りました。


Shirley Horn(1934-1995)

シャーリー・ホーンのCDが出された翌1993年、ジョーが吹き込んだアルバムHere's To Lifeの冒頭とラストに2曲のHere's To Lifeが入っています。1曲目はRobert Farnonアレンジのオーケストラの伴奏、特に最後のHere's To Lifeはジョージ・シアリングの伴奏によるデュオです。

時すでに遅く、衆目にはその曲はJohnny MandelアレンジのShirley Hornの曲となってしまっていたようです。衆目とはね。かっぱは衆目とは違います。ちゃんとオリジナルを大切にします。シャーリーはJoe Williamsの歌を聴いて触発されたと言っています。何と図太い神経なんでしょう。しかし、シャーリーは何年も前から、乳がん、糖尿病、関節炎と闘い、両足も切断し、失意のどん底にいたときにこの歌に出会ったのです。

No complaints and no regrets,I still believe in chasing dreams and placing bets. …

というPhyllis Morinaryの書いた詞の出だしです。この歌に自分を重ねて歌ったものと思われます。彼女はこのCD録音を最後に95年、71歳の若さでこの世を去りました。

 ョーのTV番組2009年になってYou TubeにジョーのHere's To Life”がアップされているのを偶然見つけました。2008年にYou TubeにあげられたTV映像です。CDとは全く違うButler自身の編曲・指揮で歌っています。ジョーの若い顔から察するに80年代の半ばから後半の頃です。このビデオをDVDに焼いて沢田家に送ってやりました。「たまらない、泣ける」と言います。 

 

(ビデオを開いてから↑歌詞をクリックしてください)

 いクリスマスを:そして、よいお年をお迎えください。「海行かば」の歌詞…かへりみはせじの一句からこの歌の歌い出しNo complaints and no regrets …が浮かんできました。今年最後の編集ノートです。(2015/12/7・かっぱ)


FEST