Editor's note 2016/5


白雲木(「季節の花 300」より)
  日、久しぶりに杉原泰雄君(11期)と会えた。病状に変化があるようなので、前もって洋子夫人(12期)にお見舞い可能な日時の連絡をお願いしていたところ「4月24日(日)にCoro Espressivoが、泰雄さんの入居施設(老人ホーム)に慰問演奏に来所してくださるので、その時ご一緒にどう?」というご案内があった。Coroなら、気心知れた仲間たちにも会える。ということで、久しぶりの面会が実現したのだ。 泰雄君のプロフィールは当HPのLinks表掲載の「杉作のうた」をご参照ください。
 

 雄君と私(4期)の出会いについては、昨年7月にこのHPの「編集ノート」に書いたから繰り返さないが、要するに二人は「楽友三田会報」創刊の縁で知りあったのだ。1976年の事。それ以前は挨拶を交わしたこともない7期違いの私たちだったが、新設の会報係を担当することになり、早速拙宅で飲み会兼編集会議を行ったところ、最初から旧知の仲のように馬が合い、何回か会を重ねるうちにすっかり意気投合。当時は楽友三田会合唱団も存在しなかったことから<新たに、宗教音楽専門の合唱団を作ろう!>という話に発展。東京スコラ・カントールムという混声合唱団を創設した。

 れが1979年2月。団員資格は「讃美歌又は同様の聖歌を初見で歌えること」だけとし、楽友会以外にも広く同好の士を募ったところ、他大学の聖歌隊や合唱団経験者も加わり、めでたく優秀な合唱団が誕生した。そして幸いにも東横線・祐天寺駅近くの聖パウロ教会を拠点とすることができ、定期演奏会を年2回行う等の活発な活動を展開した。また、定期演奏会等の収益を福祉団体等に寄付することで、社会貢献活動にも参与した。今回その実績をみたら、昨年末現在で寄付総額が4千万円超の金額になっていた!
        
(詳細はスコラのHPに:http://www2.gol.com/users/schola/top.htm
 


五月晴れ

 がそれたが、お見舞い当日、彼は私の顔を厳しく見据えたままその表情を崩さなかった。挨拶をし、長の無沙汰を詫びたが何の変化もない。彼は2000年8月に「くも膜下出血」で倒れ、危うく一命はとりとめたものの、それ以来、運動機能や言語機能障害の後遺症に悩むようになった。その悪化が進み、もう普通の会話が通じなくなったのかと心配したが、前述した寄付の経過を話すと、いつの間にかその顔がほころび、微笑んでくれていたので嬉しかった。そしてつくづく<良い土産話ができて好かったな〜>と思ったものだ。その後の彼がCoroの演奏に聞き入る表情は、実に心和む温和さに満ちていた。

 CoroについてはHP「楽友」(Others-20-ryusuke.htm)に簡単に書いておいたが、メンバーの大半が楽友会やスコラの現役や出身者で、現リーダーの池田龍亮君は泰雄君と学生時代から同期で親友である。愛妻・洋子さんも目の前で歌っているし、お子さんやお孫さんたちも泰雄君の周囲で一緒に聞いていたのだから、彼が微笑み、大勢の聴衆(入居者)の中でひときわ輝いて見えたのも、けだし当然の事だったろう。


コーロ・エスプレッシーヴォ                         
 

 日のCoroに向けた感謝スピーチで、ホームの園長さんは「・・・杉原さんはこの施設のオープンとほぼ同時に入居手続きをなさいました。でも実際に入居されたのはつい最近の事で、私たちは実に15年も待ち続けていたのです・・・」と語られた。『15年』を強調したおどけた話ぶりが皆の笑いを誘ったが、実は、そこに洋子⇔泰雄の美しい夫婦愛が秘められていた、と私には思えた。

 雄君は前述の病で暫く入院治療を受けたが、退院後はそれ以前の生活に戻るべく懸命の努力をされた。スコラの合唱活動にも復帰されたが、それには当人の意欲と努力に加え、洋子さんの強力なサポートが必須であった。その華奢な体で、高校時代ラグビーで鍛えた頑丈な体格の泰雄君を支えるのは大変な事だったろう。でもそのお陰で彼は毎週の練習や合宿に参加し、演奏会にも出演することができたのである。とはいえ彼は、できるだけ洋子さんに負担をかけないよう、気を使っていたふしがある。
 

 れは「15年」も前に老人ホームを探し、直ぐにでも入居できる準備を整えていた事実に現れている。だが、洋子さんは自らを犠牲にして泰雄君を支え、自宅で療養させる道を選んだ。つまり「15年」とは、愛妻への思いやりと愛する夫に奉仕する愛の精神が交差した期間、結果としては泰雄君が洋子さんの自己犠牲的介護に身を委ねた期間のこと、と理解されるのだ。

 「15年」と書くのは簡単だが、病人介護者にとっては大変な長さと苦労であったろう。泰雄君は高齢化するとともに後遺症が悪化し、洋子さんの苦労は増すばかりであったはずだ。お子さんたちがおられるとはいえ、一人は海外勤務で他のお二人も夫々のお子さんが今一番手のかかる時期にある。そこで洋子さんは賢明にも、ご自身の力が尽きる限界寸前で、涙をのんで泰雄君が老人ホームに入居することを容認されたのだと思う。ご両人を知る者として、それは素晴らしい決断だった。心からの拍手と称賛を送りたい。お二人とご家族の上に、神様の御守りと豊かなご祝福がありますように!

(2016年5月7日・オザサ)


亀戸天神の藤棚

杉作のうた表紙

作のうた杉原泰雄が2005年の新年会に、リハビリのために書いた「お習字」をコピーし、1冊に綴って持って来た。その内容は2004年1月〜7月に書かれたものだ。泰雄は絵やものを書くとき、自分のことを「杉作」と名乗る。杉作は「読んだら感想を言え」と言う。悲しいやら辛いやら可笑しいやらで感想なんて一言では言えない。

「帰りに俺がもらって行くぞ」と家に持ち帰り、その晩のうちに私のJazzサイトの片隅にホームページを作成し「杉作のうた」とタイトルを付けた。
 

友たちに大反響泰雄を知る楽友にこのページが出来たことを知らせた。ものすごい感動の反響が返ってきた。かっぱへの私信ではあるが、パスワードのついたページにしてHP「杉作のうた」に載せた。みんな泣きながら読んでくれた。さあ、「杉作のうた」を見ていない多くの楽友にご覧いただこう。

⇒ 杉作のうた

泰雄を看護した看護師の方から「パスワードを教えてください」とメールがきた。掲示板への書き込みもあります。私のサイトの読者も大勢が「杉作のうた」にアクセスしました。そして感動しました。杉作はみんなに愛されているのです。

11年の杉作のうた杉作のホームページを立ち上げて11年が過ぎました。早いものです。忘れた頃に、よーちんから泰雄の書いた原稿や写真が送られてきます。その度に「杉作のうた」はアップデートされ新ページが増えて行きました。考えてみればHP「楽友」より2年も先に出来たHome Pageなのです。よーちんは、かっぱが夜中まで作業をしているのを見て心配します。大丈夫、かっぱという動物は長生きですから、100歳までネットワーク社会が存在している限りは、誰よりも早く美しく編集します。

0数年まえかっぱは大事な妻を34歳という若さで失った。上の娘が10歳、下の娘が1歳半のときだった。傷心のかっぱ親子を大事にしてくれたのが池田龍亮夫婦と泰雄夫婦だった。龍亮のところは確か宮前区神木の自宅を建てている時で二の橋に住んでいた頃だ。田園調布本町の泰雄の家の玄関の階段を大きなギターケースを担いで上ったのを思い出す。この2人の家族は何ともかっぱ思いの4人なのである。学生時代から後期高齢者になるまで楽友会の仲間は家族同様の付き合いが続いている。今後も、永遠に続くのだ。(2016/5/7・かっぱ) 


編集部追記  「4月24日に泰雄に会いに行こう」と小笹主幹から誘いがあった。我が家はあいにく孫娘のお宮参りの日と重なってしまったので参加できなかった。その2週間後、1年ぶりによーちんから「杉作のうた」の原稿や沢山の写真ファイルが送られてきた。「杉作フォトアルバム」を更新中に主幹から送られてきた5月の「編集ノート」の原稿が「コーロの杉原慰問」のレポート、さらに13期の浅海からも同じく杉原との再会を綴ったエッセーが送られてきた。

今月は図らずも「杉作の月」となった。(2016/5/7)


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