Editor's note 2017/2


福沢先生御夫妻之墓

福沢先生のご命日2月3日はその昔、60数年前のこと。毎年、上大崎の常光寺までお墓参りに連れられて行くのがお定まりだった。学生服の大学生が大勢いた。今考えると、体育会関連の学生や福沢研究会の学生たちだったのだろうか?沢山の花とお線香の煙の中にお墓があった。2009年2月の編集ノートでも少しだけ書いたが、書きそびれたことを書き足しておこう。

福沢先生の遺言では「麻布の善福寺に埋葬せよ」ということだったと聞かされた。福沢家は墓所を常光寺から善福寺に移すことにした。常光寺は今の目黒通り白金台から上大崎の方に少々下った浄土宗本願寺境内にある。高いところからの地下水がこの寺の下を豊富に流れている。

土葬された福沢先生のご遺体は、何とその冷たい地下水によって埋葬時そのままの姿で守られていた。これは各新聞社の大ニュースとなった。1977年、掘り出したご遺体を火葬に付して、麻布山善福寺に墓を移設したのである。
 

我が家の娘たちが子供の頃、麻布善福寺に近い三田に住んでいた。その頃は麻布十番の永坂更科や登龍に行くときに善福寺にお参りによく連れて行ったものだ。善福寺の住職、麻布弘海大僧正は、普通部の漢文の先生だった。よく、廊下に立たされたものだ。

そう、越路吹雪もこの寺に眠っている。ところが、山門のあたりから写真を撮ると、元麻布ヒルズ(森ビル)が何とも邪魔くさい。嘆かわしや!!


善福寺山門

もともと善福寺の土地だったところを森ビルが買って建てたのがこのビル。森ビルは「和蝋燭に似せて建てた」と自慢しているそうだ。まずい人に売ってしまった弘海住職は後悔しているのではないでしょうか。江戸時代から、善福寺はこんな光景だったのです。現在の建物は全て建て替えられた新しいものです。


江戸時代からの建物


麻布山善福寺本堂

 福沢先生の奥様のお名前は「きん」であります。墓石には「妻 阿錦」と彫られています。「阿錦」と書いて「おきん」と読みます。「よね」という名の女性を「およね」とか「およねちゃん」なんて呼んだのです。先日の新年会で木村八重子さん(10期)に会いました。私は「おやえちゃん」って呼んでいました。懐かしい人、松村沙世子さん(7期)は「おさよ」と呼ばれていました。台湾では「阿」という接頭文字が現在も使われているそうです。今の総統は女性ですから、「阿」をつけて親しげに呼ぶのだそうです。

幼稚舎生が卒業するとき、福沢先生の奥様から「ご褒美」を頂いたのだそうです。その後もこのご褒美を卒業生に与えるという行事が引き継がれて、「にしき賞」と呼ばれました。卒業式では「卒業証書」をクラス代表でもらう総代と「錦賞」をもらう総代と、2人の総代がいました。今でも続けられているのかどうか・・・??

三田のキャンパスからは歩いて10分少々の距離です。現役の諸君、福沢先生に会いに、お参りに行ってください。(2017/2/7・わかやま)


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