Editor's note 2017/5

 こんな文書をネットで偶然見つけました。この文書は2009年12月に石川県能登町で出版されたものらしいです。わたしは驚くのみです。楽友三田会会友の小森さんが笹舟会の代表幹事だったとは、ちっとも知りませんでした。先ずは小森昭宏先輩が農口尚彦杜氏に書かれたメッセージをお読みください。
 


 

ここに出てくる初代笹舟会代表幹事、早稲田大学の佐藤總夫教授は数学の先生でしたが、日本オペレーションズ・リサーチ学会の会員でもあり、わたしたちが20代のころからよく存じておりました。立教大学の学生時代から池袋西口にあった「笹周」という居酒屋の常連だったといいます。

「笹周」はその昔は餡子を造る和菓子屋さんだったお店です。それが、昭和20年代に日本酒を飲ませる居酒屋になったのです。看板は「御菓子司 笹周本舗」と書いた古い看板のままでした。

笹舟会のお歴々は、ここ笹周で「菊姫」を飲んでいたのです。特別なお酒ですから一般の客には振る舞いません。特別な人達が特別な居酒屋で特別なお酒を飲んでいたのです。

 大吟醸「菊姫」の酒米は兵庫の山田錦であります。山田錦は粒も大きく吟醸酒を作るには最適な酒米と言われます。そこで、各地の酒造会社が一斉に山田錦を使うようになり品薄になった時期があるそうです。その影響で菊姫酒造は大吟醸「菊姫」の醸造を諦めるという時期がありました。

これを救った人物がいます。小笠原暁先生です。元々は神戸商科大学に「管理科学科」という新しい学科を1963年に開設した同学科主任教授です。新学科立ち上げにあたり、一足先、1959年に「管理工学科」を開設した慶應工学部にやって来て、山内二郎大先生や新進気鋭の管理工学科の先生方から資料をもらったり、参考になる話を聞いて「管理科学科」のカリキュラムを作成し文部省に学科申請を出したのです。よく、武蔵小金井にあった管理工学科にいらっしゃいました。私の所属していた研究室の親分とも仲が良く、うろうろしていた私のことを可愛がってくれました。「夏休みには泊まりに来い」と。それ以来、小笠原先生は私の大事な先生となり、OR学会の活動でもお世話になりました。話は切りなくあります。

小笠原先生は自分の立ち上げた学科に12年在籍しましたが、当時の兵庫県知事に乞われ、兵庫県企画部長に転身しました。後には教育長、最後は副知事でした。「菊姫」の危機が訪れたのはそんな頃でした。小笠原先生は「菊姫が無くなることは、日本文化が滅びることに等しい」と仰り、山田錦を菊姫酒造に提供する道を開いてくれました。そして「菊姫」は蘇りました。

 小笠原先生が副知事の頃は、種々の会議のため頻繁に上京されました。夜は私が先生を今は無いDOMINANTという店によく連れて行きました。生バンドで歌える店です。しかし、ある時は「今夜は笹周に行こう」となります。先生は「菊姫の恩人」です。笹周のオヤジさんは大吟醸「菊姫」を振る舞います。笹舟会以上の待遇です。

私は先生の腰巾着です。いい思いをしたものです。オヤジさんは、炉辺で鮭のはらすを炙りながら日本酒談義をしてくれます。「菊姫」は東の横綱だと言いました。西の横綱は「菊の城」という熊本の酒だと、ボトルを開けてくれました。さっぱりとした結構な酒でした。東西の横綱を味わうという、実に贅沢な経験をさせてもらいました。1990年頃の話です。

先生は12年間、兵庫県庁にいましたが、またアカデミックに戻りました。芦屋の六麓荘を登り切った山の上にある芦屋大学です。お坊ちゃん大学で、広い駐車場にはベンツやBMWなど高級外車がごろごろ駐まっていました。みな学生の乗ってくる車です。たしか、校舎の廊下は赤絨毯です。

法政の経営工学科にも「社会工学」という講義を持ってもらいました。毎週、関西から出てくるのは大変なので、授業は隔週で2時間ずつという時間割を作りました。芦屋大学には12年居て、学長で引退しました。

 小森さんが「初めて飲んだ時は、カルチャーショックだった」とありますが、言葉では表せません。実際、菊姫を飲んでカッパがどうなったか、ここには書けません。直接、訊いてください。教えてあげます。酒を飲んで、それまで味わったことのない体験をしたのです。

しかし、笹周は2009年中頃に大旦那が亡くなり、ひと月も経たない間に若旦那も亡くなり、閉店、廃業となりました。(2017/5/7・わかやま)


参照ページ  ⇒ 菊姫が飲める

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