Editor's note 2018/6


かんばん方式

 自動車工場での生産管理を研究テーマにしていた時代がある。丁度、時期を同じくして、下請け業者に部品の納品数量と日時(細かい時間まで)を指定して納めさせる事を始めたのはトヨタ自動車だった。

工場内での部品在庫もゼロにするため、生産ラインに対する部品の供給も徹底的に管理した。この生産管理方式を「トヨタ方式」と呼んだ。
 

ある工程から前工程への部品注文指示は「かんばん」と呼ばれるカードが使用されたので、「かんばん方式」とも呼ばれた。1963年にトヨタの全工場がかんばん方式で管理されるようになった。

同じことを日産自動車でも始めた。「Just In Time方式、略してJIT」という。これで、部品の備蓄は必要なくなった。納入された部品を一時的に棚にしまっておくと、生産ラインに部品を運ぶフォークリフトが自動的にとりに来るという仕組みだ。

さらに生産ラインでは多種少量生産管理が進み、オプション注文が多い乗用車では同じ車種でも取り付ける装置や部品がみな違う。そういった部品をフォークリフトで供給するのだが、その順序やタイミングを合わせる細かな管理がコンピュータ制御のもとで可能となった。

この方式が始まって以来、工場の外の道路には下請けの部品納入のトラックが並んでいるのです。このトラックが部品倉庫というわけです。大自動車メーカーは部品在庫が無くなったといい万々歳だが、なんてことはない、部品在庫をただ工場の外に追い出しただけだ。まるで漫画じゃないか!われわれはその姿を揶揄したものだった。

70年代前半、視察団旅行で渡米した時に、自動車産業ではないが生産工場の見学に行った。”JIT”というスローガンの横断幕が工場内に張ってある。「かんばん」という言葉は、そのまま”Kanban"だった。当時のお兄さんは驚きましたよ。「アメリカもかよ?」って。

いつの世も弱いものにシワ寄せが行き泣かされるのです。ザマミロって?そうでしょうねぇ。

 
 Finance Engineeringという科目を東京工業大学で開講したい。1990年になる頃だった。OR学会の仲間、今野教授が科目の名前をどうしようか考えていた。

「若山さん、『理財工学』にしたいのだがどうだろう?」と言ってきた。今野さんはさすがに賢人だ。


大岡山東工大

一般の人には「理財学」とは耳慣れない学問かもしれないが、福沢先生が”Economics”に「理財学」という訳語を使い、理財学科が設立され、後の経済学部となったのである。

根っから慶應で育った私なら、彼の考えを理解し賛成してくれるだろうと、わざわざ相談しにきたのであった。ハーバードやMITでは「ファイナンス理論」の講義は、その20年前からあった。

下々には「理財工学」という名称は難しいらしい。そこで、「金融工学」という訳語が使われるのが普通になった。折角、大教授が崇高な科目名を生み出してくれたのに・・・賛成した私もうなだれた。

世の中に「金融工学」という語が広く流通する中、今野さんは東工大に「理財工学研究センター」を立ち上げ、頑固に「理財工学」という語を守り通している。いい男だ!

法政大学の工学部経営工学科でも、92年頃に「金融工学」がカリキュラムに加わった。私は担当者に今野さんの「理財工学」の話をしたが、彼にはそんな高尚な話は通じなかった。教養がないのです。

一方、そんな頃から「金融工学を学びたくて経営工学科に希望」という高校生がいた。そうか、子供には「金融」の方が分かりやすかったのだ。卒業したら銀行に行こう!なのだ。

しかし、私は金融工学という科目名が好きでなかった。第一、「金融」なんて言葉を聞くと、先ず銀行が浮かんでくる。バブル崩壊以前の日本では、表通りの一番いい場所に軒並み各銀行が支店を構え、3時になると一斉にシャッターを下ろし街を暗くする、それが気に入らなかった。高利貸しや質屋の方が裏通りにひっそりあって控え目に見えた。

ところで、「ファイナンス理論」には高度な微積分学に確率論、数値計算や情報処理の素養が必要だったので、文系の学部には敬遠され、理工学系の学部に開設されるようになったものだ。

そもそも、人間を理系と文系なんて分けるというやり方が気に入らない。ArtとScience、音楽と数学って元来相性がいいのです。私が変人なのか?

  (2018/6/7・わかやま)


後記 また福沢先生のはなしが出て来た。今週の日曜日、昨年死んだ私のカルテットのメンバーの一周忌の集まりを我が家で開いた。三田の学部の出身の後輩が「Kさんのお母さんの葬式は金蔵寺でしたよね」と思い出して言う。なぜ金蔵寺で葬式をしなかったのか不思議だったのだろう。

Kは自分の死期を知っていた。病身のカミサンに自分の葬式なんかやらせたら死んでしまう。と、何から何まで死後の準備をすべて済ませて死んでいったのだ。「葬式はするな」が遺言だった。死後の遺体は病院から葬儀場に運び荼毘に付し、遺骨はKが用意しておいた金蔵寺の納骨廟に納めたのだった。

「金蔵寺は麻布山善福寺の末寺」と説明してやった。善福寺は平安時代、弘法大師によって開かれた真言宗の寺だったが、鎌倉時代に親鸞上人がこの寺を訪れ、迎えた了海上人は親鸞の高徳に傾倒し浄土真宗に改宗したと伝えられている。回りにはたくさんの末寺がある。

「善福寺には行っていないのか?」

行っていないらしい。

三田に通っている皆さん。三田の裏門から綱坂を登り、二の橋の信号を渡って、次の信号を右に曲がると左手が善福寺の入口だ。みんなでお参りしに行ってください。(2018/6/7・かっぱ)


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