Editor's note 2019/4


ハプスブルグ家の紋章

 双頭の鷲の話が3月掲載の塚越原稿「双頭の鷲の旗の下に」出てきます。このおなじみの行進曲が書かれたのは、ハプスブルグ家の勢力の下に、オーストリア・ハンガリー帝国が力を誇っていた1880年代のことです。

ハプスブルグ家の紋章は「双頭の鷲」で、軍旗にもこの双頭の鷲がデザインされていたのです。紋章の変遷はいろいろあったようですが、第2次世界大戦が終り、1945年にオーストリーの国章は「単頭の鷲」に替えられました。
 

 スキーブーム到来帝政時代も終わり、スキーが国家産業の体をなしてきました。30年代中頃に冬季オリンピックでアルペン競技が始まり、フランスとオーストリーのメダル争いは激烈なものがありました。

1956年、トニー・ザイラーのオリンピック・アルペン競技3冠王は、まさにスター誕生、後に「黒い稲妻」「白銀は招くよ!」などで映画俳優です。回転競技では、猪谷千春が銀メダルをとり、日本にもスキーブームが到来します。


戦後の国章
鷲の脚についている「切れた鎖」は何を意味するのか?そう、ナチスからの開放を意味するものだそうです。
クルッケンハウザー教授

フランツ・デルブル   

1950年代後半から1960年代の初めオーストリー・スキーの普及のため、スキー教師が毎年のように来日しました。1958年、ルディ・マット職業スキー教師協会会長が来日し講習会を開きました。61年には、国立スキー学校のフランツ・デルブル、ロイス・ツォプ、マドルベルガー・パウリーが、1シーズン通して滞在し、八方・志賀・蔵王で講習会を開きました。その模様はNHKテレビ3チャンネルで日本中に放映されました。彼らの胸に国章ワッペンがあるのが見えるでしょう。

そもそも日本にスキー術を伝えたのは、オーストリー・ハンガリー帝国の軍人、レルヒ少佐です。1911年、新潟県高田での話です。

クルッケンハウザー教授は、オーストリー・スキーの指導者の総帥で初版の「オーストリー・スキー教程」の編集をし、スキーの正しい指導法を確立しました。オーストリー・スキー教師はこの教程にしたがって指導をするのです。

  英三1963年についにクルッケンハウザー教授が3人のデモンストレーターを連れて来日し、講習会を開きました。この時の日本人チーフ・アシスタントを務めたのが蔵王の岸 英三でした。ハウザーさんは、岸 英三を「わが友、我が息子」と呼び大事にしました。翌年、岸 英三はハウザーさんの許へスキー留学をしました。オーストリースキー学校の在り方を勉強に行ったのです。

岸 英三という人物は珍しいほどスケールの大きな人間で、1961〜1962年のシーズン、デルブルさんの蔵王での講習会が終わった時、私の前に滑って来て「お前は目の光りがいいから、俺の友達にしてやる」と言ったのです。毎日のように私たちが練習をしている姿を見に来ていたのです。歳は19も上のオジサンです。私は岸 英三氏をスキーの師匠、親父と決めました。後をついてよく滑り、そして、スキーの本質を盗ませてもらったのです。夜は麻雀でした。


岸 英三(2006年)       

そして、蔵王スキースクール(後に蔵王ハイム・スキースクール)を1965年にパラダイスロッジで開校しました。2年後に上の台のアルピナ・ロッジを買い取り、「ロッジ蔵王スキースクール」と命名しました。スクールの生徒と教師が一緒のロッジで寝泊まりすることが出来るのです。これは、オーストリーのスキー学校のスタイルに倣ったものであります。ロッジを所有するスキー学校は余所にはありません。
 

親父は、日本におけるオーストリー・スキーの普及の功績をオーストリー国家から認められ「勲章」をもらいました。

そして、オーストリー国章の使用を認められた日本で唯一人の人物で、蔵王スキースクールのバッジやワッペンには「オーストリーの単頭の鷲」が使われています。

昔々、私は親父からスクールのバッジを授かりました。親父のバッジはZAO SKI SCHOOL PRESIDENTと書いてあり、スキー教師のバッジにはINSTRUCTERとあります。

「お前には、これがいい」と言い、DIRECTORと書いてるバッジをくれました。

 親父は今年97歳になります。今年3月の8,9,10日は若ゼミOBGの蔵王合宿でした。定年退職後も昔の学生たちが子供を連れて合宿にやって来ます。我ながら「珍しいゼミだなぁ」と思うのみ。

親父は山形市内の老人ホームで暮らしています。今年も山を下り、親父の顔を見に行きました。ベッドに起き上がって喜んで迎えてくれました。ホントに嬉しそうな顔でね。

(2019/4/7・わかやま)


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