リレー随筆コーナー



二人の指揮者の思い出

 

谷川 洋也(1期)


楽友会の思い出を何か書いてほしいと電話がありました。そんな昔のことムリだ、と思いましたが楽友会ネー、と考えているうちに懐かしい伴有雄のことを思い出しました。楽友会の生んだ指揮者であり、楽友会の基礎を作った仲間である、あの男です。そして指揮者の事ならもう一人、若杉弘がいます。という事で二人の思い出を書くことにしました。改めて伴と若杉と並べてみると対照的だったなあ、と思います。

1952年10月「NHK全国唱歌コンクール」で慶應高校・音楽愛好会が神奈川県大会で優勝杯を手にした時の記念写真。ここから3人の音楽家−2列目左端・舘野泉(4期)、3列目中央/背広のもじゃもじゃ頭・伴有雄(1期)、2列目右から3人目・若杉弘(3期)−が出た。なお最前列は、岡田先生を中心に全員高校3年生(2期)。筆者は、2列目左から4人目(大学生だが、高校生に紛れて出場した模様)。(画像クリックで拡大)
 

伴はリーダーシップがあり、若杉は引っ込み思案、伴は男性的、若杉は女性的(若杉ゴメン)、伴は早熟、若杉は晩熟。伴は四谷にある大きな産婦人科病院の次男坊、若杉は柿の木坂の古い洋館に母上と暮らし、外交官だった父上(確か駐米公使)は既に亡く、母上に育てられた。伴は高校で音楽に目覚めたのに対し、若杉は幼少からピアノを学びクラシックの雰囲気に包まれていた・・・等々。

伴の早熟に驚いたことを思い出します。女子校と一緒に混声合唱をすることになり、男子校音楽室で交歓会をやりました。その時に伴の歌ったのが「妻を娶らば才長けて、見目うるわしく情けあり」です。ネ、ませてるでしょ。ちなみに私の歌ったのは「すみれの花咲く頃」です。歌い終わり、宝塚調のオジギをした私を見て、岡田先生が腹をかかえて笑っていたのを、まだ覚えています。

学生指揮者だった伴はみんなに好かれ皆もまた伴の家に集まり、よく麻雀をやった。そんな或る日「オイ長谷川、見てくれ」というので窓から下を見るとスラッとした看護婦さんが歩いていた。伴の曰く「美人だろ、おれ、あいつに惚れてるんだ」。それが後に、ドイツ留学中、二人の子供をかかえて留守を守った伴夫人です。

どういうわけか伴は私の声を気に入ってくれて、ソロがあると私を指名した。そして「東京コラリアーズ」というプロの男声合唱団に私を紹介し、入団させてくれた。伴のいとこがそこの主要メンバーで、よいテノールがいたら紹介してくれと頼まれていたらしい。私にとってそれは大変幸せなことでした。歌う事によって収入があるという驚きよりも、指揮者・福永陽一郎先生の指導の素晴らしさです。未知の世界であったアメリカの音楽に対する、プロの指揮者としての感性と適切な指示、また合唱団員一人ひとりをプロとして認め、対等に接してくださった人間性。それにきちんとした技術をもって報いる団員に囲まれ、私は井の中の蛙が外の世界を知った思いで、ただひたすらついていきました。

ドイツから帰った伴は、ズービン・メータというインド人と、留学中同室だった時の話をしてくれました。ある時、伴がぼんやりと残した家族のことを考えていると、彼が「お前は今、禅の瞑想をやっているんだろう」って言ったんだって。「あれには参った」と言っていました。

伴のリーダーシップと音楽に対する情熱が、楽友会と楽友三田会発足を促したことに間違いはありません。楽友三田会で最初の男声合唱団「コール・クローネ」は伴を中心に結成され、同じく最初の混声合唱団も伴を指揮者とし、阿部誠(21期)が中心になって結成したものです。その後、伴は各地のオーケストラの指揮をし、最後に習志野市民オーケストラの常任指揮者として活躍中、演奏会当日、脳内出血で亡くなりました。私は友人の一人として、生前の感謝をこめて彼の柩を運びました。伴ありがとう。

若杉弘は今や世界の若杉です。しかし私にとっては今でも合唱仲間の若杉です。彼は麻雀をせず、従って一緒に旅行もせず、あまり私と接点はなかったのですが、唯一声楽を習っていたことが共通していました。高校時代の彼は一言でいうなら「あいつは変わっている」です。オペラの話になると大変で、序曲を口ずさみ始めるともう止まらない。アリアから合唱に続き、ついには踊りだすのです。しかし我々も本人も気がついていない風だったけど、彼には群を抜いた才能があったネ。

大学に入って女声合唱を指揮した時のバルトークの「三つの村の情景」の名演、そしてもっと素晴らしかったのは、メノッティーの「アマールと三人の博士」というミニ・オペラを彼が自分で訳詞し、演出、指揮、ピアノ伴奏、歌唱指導等一人でこなし、我々素人を集めて、楽友会のクリスマス・パーティーで演奏したこと。双葉より芳しいネ。

実は個人的にも若杉に感謝していることがあるのです。或る日彼が私の所にやってきて「来年、芸大声楽科を受ける」というのです。試験ではシューベルトの「冬の旅」の第21曲”Das Wirtshaus(旅籠)”を歌うといいました。あんな単調な曲を歌って芸大に、それも3年の編入試験に受かるのかなと思いました。でもそれは思っただけ。若杉の歌うその曲を何回も聞きました。そして見事合格しましたが、それが私の歌にも良い影響を与えてくれたのです。

実は私は、歌のレッスンを毎週5年間続けていたのですが、ほめられたのは2回だけ。その1回がこの曲でした。私には若杉の歌声が耳についていたので、同じように歌ったら先生に「味な声を出すネー」といわれたのです。真似をした私がほめられるんだから、本物が芸大に受かるのは当然だネ。もう1回は「白鳥の歌」の第4曲”Standchen(セレナーデ)”でした。他は怒られっぱなし。一番ひどかったのはシューマンの「詩人の恋」をやった時、7曲目だったかで先生は突然ピアノの蓋をバタンと閉めて「今日は帰りなさい、来週からイタリアンソングをやります」といわれトスティの曲をもらいました。要するに基本からやり直し、ということでした。

その後、若杉は声楽家から指揮者へと道を転じましたが、そのきっかけを作ったのが、当時のソプラノの第一人者・三宅春恵先生だという事を聞いた覚えがあります。すごい先生ですネ。巨匠・若杉を見出すとは!(2008年12月12日)