リレー随筆コーナー

高校・大学楽友会分離の頃―40年前の記憶をたどって
 

太田 武(11期)


 人がいいのは生まれつき。どうも何かを頼まれるとイヤとはいえません。数か月前、このホームページで「『楽友』の消長」という記事の「欠本」という2字が目にとまりました。私は現役時代に「楽友」の編集に携わっていた事もあり、大事に持ち続けていた当時の冊子を探したところ「欠本」中の3冊が見つかり、気をきかしてその3冊に、2年後輩の杉さん旧姓:竹原/13期所有の26号を足して編集人にお送りしました。すると折り返し「せっかくだから、当時の思い出と、その頃の写真も提供してほしい」といわれ、やむなくこの原稿を書く書かされることになってしまいました。

前置きが長くなりましたが、以下、小生が提供した「楽友」23号から25号まで、年代的には1964年から66年までの事について、思うところを記してみます。

 先輩諸氏、特に、高校から大学時代を長く一貫して楽友会活動に携わっておれられた方々は<なぜこの時代に、高校と大学が突然分かれて活動するようになったのか>ということに疑問をもっておられたようです。そこには「大学生側が一方的に高校との活動を停止するよう提案し、強行したのでは?」という疑念(!)があったようです。

そこで、当時の資料などをたどってみましたが、はっきりとした記述は見つからず、 他の皆さんにも聞いてみましたが、はっきりとは覚えておられず、特に小生など大学から慶應に入学し、楽友会に参加した者は、それ程大きな問題とは受け止めていなかったのが実情で、皆目その実情がつかめません。一方で、「楽友」に掲載された高校生の原稿は徐々に少なくなり、65年発行の24号からは大学生だけの原稿になった、という事実があります。それならもう少しはっきりさせてみよう!と色々な資料を総合し、小生なりにまとめたのが、以下の結論です。

 先ず、第一に大学生側の事情。当時大学楽友会は混声6連への加盟を進めていて、他の大学の状況を知るにつけ、大学独自の動きをもっとやりたいと思い始めていた。従って夏の合宿なども単独でやる方向を検討していたのではないか。(これは逆で、定演での合同演奏のステージがなくなったため、結果的に合同の合宿を取りやめるしかなかったのかもしれません)。そのため、団体の名称も「慶應義塾大学混声合唱団楽友会」に変えたのでした。

 次に、高校側の事情。このホームページへの日高さんの投稿高校楽友会のページ→高校楽友会「第1回」定期演奏会の頃にあるように、「高校単独での定期演奏会をもつべき時期にきた」という、岡田先生初め関係者のご判断があったのかと思われます。なぜ突然そんな話が出て来たのか定かではりませんが、高校側に強い意図があったものと思われます。これは小生の勘ぐりかもしれませんが、当時の高校当局に、大学との連携活動が好ましくないとする気風が出始めていたのではないかと思っております。大学では、学費値上げに反対する学生活動が盛んになりつつあった、と思われる時期なので、そんな中で当時それ程までに日常の部活を高校、大学が連携してやっていたクラブは、多分楽友会の他にはなかったように思われ、その辺への危惧が高校当局関係者の間にあったのでは、と思う次第です。

 以上からして、この離縁話は、大学楽友会から一方的にもち出した話ではなく、双方にそれなりの事由があったのではないかと思うのです。これは、あくまで小生の記憶をたどっての話でして、正しいかどうかは分かりません。もしどなたか、もっと明確な経緯・事情をご存じの方がおられましたら投稿をお待ちしております。

なお参考までにですが、「楽友会50周年記念演奏会」プログラムの「楽友会小史」には、66年に「学事日程相違のため分離」と記述されていますが、これが当時の公式的な表現だったのでしょうか。何か当たり障りのない表現でまとめたような感じがいたします。

 この頃の事どもを思い出すよすがとして、3枚の写真をお目にかけましょう。

上は64年7月、「蒸気機関車デゴイチ」をバックに記念撮影したものです。夏合宿で清里へ行く途中、小渕沢駅で撮ったものと思います。当時まだ小海線は電化されておらず、記憶では、甲府で蒸気機関車が引っ張る列車に乗り換え、小渕沢から清里に向かって急坂を上ったはずです。その機関車が発する「なんだ坂こんな坂」という呻き声が、宿舎となった清里の清泉寮にも聞こえていたことを懐かしく思い出します。今では信じられないD51の前での記念写真、まだのんびりした時代でしたね。ちなみに、この年が最後の高校、大学合同の合宿で、主な練習曲は合同演奏用の、フォーレの「レクィエム」でした。

次の写真は、65年8月の夏合宿に参加した同期生(11期)の記念写真で、清泉寮の前庭で撮ったものです。この時、我々最上級の4年生チームがソフトボール大会で優勝しました。前列中央の伊藤紀子現11期・永井潔夫人さんがその記念楯を持っています。男たちの髪の毛が、皆フサフサしていることにご注目ください。


(写真をクリックで拡大)

そして最後にもう1枚。これはすごい写真です。65年6月、渋谷公会堂で催された東京6大学混声合唱連盟の第7回定期演奏会におけるステージ写真で、指揮:若杉弘、ピアノ伴奏:小林道夫・徳丸聰子といった豪華キャストを迎えてのブラームスの「愛の歌」。合同ステージでは、森正氏の指揮でヴェルディの「テ・デウム」を歌いました。ちなみに、この年が6連加入の2年目で、前年の第6回定期演奏会が楽友会デビューの初舞台でした。指揮は同じく若杉弘先輩(3期)、曲は林光先輩(会友)の「ゴールド・ラッシュ」、それに三保敬太郎コンボの協演を加え、オール慶應の華々しい演奏で他大学の合唱団を圧したという、強烈な印象が残っています。(09年4月24日)