リレー随筆コーナー

合唱にまつわる備忘録

 

真田 修平(62期)


私が人生の半分を合唱と共に過ごしてきた事実は本当に驚きである。しかしなんでそこまでして合唱と付き合い続けているのだろうか、とこれまでも自分に問いを投げ続けてきた。27歳まであと少し、改めて自分に対しそれを問いたい気分になったところに、このバトンが回ってきた。これをいい機会として、合唱にまつわる自分を備忘録として記しておきたいと思う。

小学生の頃から音楽の授業が大好きで、修学旅行のバスの車内、裏声で『翼をください』を熱唱した記憶がある。それくらい歌うことにも興味があった。慶應中等部に入ったその年の秋、学校行事でクラスメイトがコーラス部として発表しているのを見て、サッカー部と社会研究会にしかおらず暇を持て余していた自分は、迷わずコーラス部に入部した。思えばそれが合唱との出会いで、入部直後の音楽会で『West Side Story』メドレーを歌ったメルパルクホールでの高揚感は今でも記憶に新しい。

中学3年生になり、人前で指揮を振ったり部活同期と付き合って1か月で振られたりと、合唱との生活はすごく充実していたような気がしている。

高校はサッカーだけに打ち込み、合唱とはかなり縁遠くなっていたが、音楽の先生が声楽科出身だったため、歌からはあまり離れていなかったように思う。その影響もあってか、大学ではもう一度合唱をと考えるようになり、大学入学直後の新歓は合唱団を中心に訪ねていた。

結論から言うと、私が入りたかったのは楽友会ではなくワグネルだった。その考えは今でも変わらない。楽友会にいた4年間ずっと、ワグネルに憧れを抱き続けていたのは間違いない。ワグネルに行かなかった理由はただ一つ、既に決まっていたバイトと練習日が丸被りだったから。それだけ。

楽友会ではなぜか指揮者として前に立つことが多く、3年生になった時には副学生指揮者になっていた。「楽友会をぶっ壊す」と団員の前で高らかに言ったのもこの年の総会である。

時の常任指揮者は栗山先生。私が入団したときから栗山先生率いる栗友会と三田会は戦争状態で、その争いに学生が巻き込まれていた形である。学生ながら、どちらも子どもだなぁと思っていた。そんな中栗山先生の怒りをさらに増幅させたのは紛れもなくこの真田である。やれ「ピアノ伴奏つきの曲を振りたい」だの「シアターピースはやりたくない」だの騒ぎ立て、散々栗山先生と言い合ったものである。

強調しておきたいのは、私は栗山先生を嫌いだったわけではないということだ。しかし栗山先生は私が4年生になったその月に辞表を出した。辞表には健康上の理由とあったが、もちろんそんなわけはない。三田会との軋轢に加え、学生指揮者との関係もあまり良くなく、これ以上団にいるメリットを見出せなかったのだろう。直後に行われた理事会、三田会の理事そして大西会長のそれはそれは嬉しそうな表情。健康上の理由と言われてしまったら当然現役は食い下がれない。その場で辞任を承認した。

さぁここからは3年生を中心とする団内からの集中砲火。栗山文昭という重鎮を楽友会から追い出した真田はとんでもない悪者というわけである。そこに乗っかってきたのは当時アンサンブルトレーナーだった横山琢哉先生。今では立派に楽友会の指揮者を務められている。

「俺以外の指揮者を立てたら二度と楽友会には戻らない」

こんなお言葉をありがたく頂戴してしまった以上、4年生はさっさと追い出される他なく、めでたく定期演奏会を迎えたのである。その翌日に開かれたという新4年生の運営会議、邪魔者がいなくなってさぞ清々しかっただろう。

そんなことをして何のメリットがあるか分からないが、以上の悪事はきっちりと今の現役にまで引き継がれているようである。「S氏」という名前で。楽友会は未来永劫この悪事を語り継いでいくつもりなのだろうか。もはや歴史の教科書に出てくる国外勢力かなにかのように思えてくる。

さて、社会人になった真田は新卒で入った会社を1年で辞め、全日本合唱連盟という組織に入った。相変わらずめちゃくちゃである。合唱という仕事に携われることは私にとって非常に名誉だった。しかし趣味は趣味のままの方がいい、と気づいてしまったのが昨年の夏ごろ。また思い付きで転職をし、この4月からまた別の会社で働きだした。本当にめちゃくちゃである。

趣味の方はと言われると、現在4つの合唱団に携わっている。懲りずに指揮活動もしている。部活同期に振られた例の中等部コーラス部のコーチもやっていて、つい先日今年度最初の練習を行なった。3年生の努力が実り、4人しかいない部活が16人になり、混じり気のない純白な中学生の声がこれだけの数重なることが本当に久しく、言葉には表せない嬉しさだった。この声をもっと聴いていたいと思う一方、地元で練習責任者を務めている合唱団を辞めたいと思い始めた。理由は色々あるが、ついにこの自分が合唱団を辞める方法を模索し始めているのである。こんな駄文にここまでお付き合いいただいた方にお願いするのも変な話だが、是非合唱団の辞め方をご教示いただきたいくらいである。

人と人とのつながり、声と声とのつながり、自分の人生において当たり前だったものがどれだけ心を耕していたのか、そのことを痛感したのは決して私だけではないだろう。人々をどんなものが覆っていようと、この声は必ず誰かの身体に届いている。これは不変である。

備忘録はここまで。

ご縁あって楽友会の同期・千葉くんから頂戴したこのバトン、次は中等部コーラス部の同期であり、現在もコーチとして共に活動している柿沼(旧姓:中村)円香さんにお渡ししたいと思う。女子高に進学後、楽友会に入部、大学ではコール・メロディオンに所属していた、慶應の合唱とは縁の深い人である。教養が深く知的な彼女なら、きっと素敵な文章を残してくれるに違いないだろう。

2021年6月4日

    


編集部 真田修平君から原稿が送られてきました。「岡田先生を偲ぶ会」では、我々爺さん達も真田君の指揮で献唱幕開けの「塾歌」を歌ったのを憶えています。

(2021/6/5・わか)


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