リレー随筆コーナー

徒然なるままに:歌と先輩の皆様と我が人生

 

末続 靖(12期)


今年は僕にとって、「歌を始めて50年」の記念すべき年。Anthologyに随筆を投稿することになって、さて・・・と諸先輩の随筆を読み返してみると、皆さん結構色々なことを書いていらっしゃる。でも、僕はうまい話も思いつかないので、覚えていることを思い出すままに、我が歌人生と、僕に影響を与えてくださった何人かの先輩の皆様のことを勝手に整理してみることにしたら、「1000字位」というお話が3倍近くになってしまった。お許しを。

 中等部から無事日吉へ進んだ。15歳であった。中等部時代には僕はテニスをやっていたが、小さい時に小児結核をやった陰がレントゲンに残っていたものだから、高校ではテニスは止めておけと保健の先生にいわれ(後ですぐ、この陰は何でも無かったことが分かったが)、何か他のことにしようと思った。

早慶戦での、学生服に三色の腕章を巻いた応援団長を「かっこいいなあ」と思っていたので、さっそく応援指導部の部室に行った。つもりが、間違えて(隣の?)楽友会の部室に入ってしまった。そこに市川さんがいて、「おお、よく来たよく来た。応援指導部も合唱も声を出すのは同じだ。今日練習があるから音楽室に絶対来いよな」といわれた。

そういえば、小学校のときはなぜか音楽の先生にボーイソプラノをやらされていたが、中等部では、そんなことにはまったく関係なく、本宿先生の音楽の授業は大の苦手だった、と思いつつも、「もし音楽室に行かないと、大変なことになりそう」と、市川さんの顔を思い出すと恐ろしくて、とにかく音楽室には行ってみた。

 高校楽友会の練習初日は守谷さん指揮の男声合唱で「箱根の山」が練習曲だった。なお、守谷さんが中等部の先輩であることなんて分かったのはずいぶんと後のことであった。「楽譜なんて読めやしない」というと、「『箱根の山』なら旋律は知っているだろう」とトップを歌わされた。今考えれば、目茶苦茶な話だ。フラットが三つ付いていたのを覚えているから、あれはEs dur だったのだ。ともかくそれで僕の「歌人生」が始まった。

その年の新入生は、福井・榎本・佐藤・大竹・土田・元橋、それに僕と、全員テノールだった。結局2年から僕がバリトンに降りることになり、大学もずっとバリトンで通すことになる。

 高校に入って最初のステージは、夏の合宿前の、館林での地元の公民館かどこかでの演奏会だった。日比野さんの指揮でウィンナ・ワルツを歌った。ミケ(さん)のアルト・ソロが心に残っている。

演奏会が終わったら、Yシャツが汗でぐしゃぐしゃで、腕時計の中にまで汗が入って、時計が駄目になった。生まれて初めて人前で歌ったときの緊張はこんなものだった、と思い出すと、我ながら可愛いものだ。

三戸さんの男声合唱練習では、「誰かさんと誰かさんが麦畑で・・」と言うソプラノ・ソロがあり、あっちゃんが来てそれを歌った。15歳の少年には、あっちゃんのノンスリーブのブラウスと白い二の腕がそれはそれは眩しかったものだ。もう一つ眩しかったものに、オサヨのピンク色の口紅があったっけ。

その時の大学3年生は佐野さん、三戸さん、野本さん、遠藤さん、長谷さんの皆様だった。ずいぶんと「偉い人達」だと思っていたが、夏の合宿で模造紙を裸の身体に巻いて「ファッションショー」なるものをやったのを見て、その「バカさ加減?」に驚いたと同時に、グッと身近な人に感じたのを覚えている。

その年の最後、第9回定期演奏会のメイン・ステージはフランクのミサ曲だった。が、楽譜なんぞ読めもせず、仕方が無いので、塚越さん佐野さんの隣で歌って何とかしのいでいた。ずいぶんとご迷惑だっただろうと、今になって思う。

 高校2年になると、守谷さんの後を継いで男声合唱の指揮をやることになった。合宿で大学最上級生の三戸さんに指揮棒の振り方を絞られて、腕が痛くて箸を持てず、飯を食うのに往生した。 「ピエロ」と「柳川」と「黒人霊歌」を振ったっけ?

 自分の親・兄弟も親戚も、周りは皆文系だったので、僕も大学は当然文系に進むつもりだったのに、土居さんカッパさんという妙な先輩が二人居て、「工学部へ来い来い」というので、とうとうだまされて工学部へ進んでしまい、(ワイフにいわせれば)一生貧乏技術屋の道を歩むことになってしまった。ある人の「工学部志望でしょ?頑張ってね!」という一言も、僕の背中を押した力の一つだった。

工学部は当時2年から小金井だったので、楽友会は名前だけで、夏の合宿とステマネだけの出番だったが、12期の皆はいつまでも仲間としてくれた。ありがたいことだった。楽友会では本当によい友人に巡り合った。

 ただ、僕には卒業してから10年ほどの間、ある理由で、楽友会にはまったくといってよいほど、顔を出さない時期があった。楽友三田会合唱団などの活動があることは知ってはいたが、何せ横浜の西の外れに住んでいたので、練習に行くのもままならなかったし、30歳のときに大変な病気をしたこともあって、しばらくは「歌を唄う」なんて状態でもなかった。

しかしある時、「新年会の幹事年」が回ってきたのを機に、12期の皆が声をかけてくれて、それこそ10年ぶりに新年会に出た。それからちょくちょく楽友会にお付き合いするようになった。そしてまたある時、急に伴(博資)さんから電話がかかってきて「今度モーツアルトを(楽友三田会合唱団で)唄うから来い」と、声がかかった。「いつですか?」と訊くと「2週間後の土曜が本番で、その前にもう1回土曜日に練習がある」という。で、「すぐに楽譜を送ってください」と頼んで筑紫さんに楽譜を送っていただいた。

確かモーツアルトのモテットか何かだったが、とにかく1週間で音と言葉をつけて、次の土曜日の練習に出て、その次の週に合唱祭のステージに乗った。呼ばれた理由は、ただバリトンが足りなかったのだ。それからしばらく楽友三田会の活動に参加するようになったが、その後他の合唱団に浮気したりして、またぞろ練習をサボる状態になった。

そうしたら今度は池田(進)さんから、「何で練習に出てこない!」と電話があった。「あんまり好きな曲じゃないからなあ」というと、「バカ! 何いってんだ。今度龍亮がブラームスをやるから(今回のブラームスではなく、前回の話)それならいいだろう。出て来い!」。と言うので練習に行くと、今度は「お前今日からテノールやれ」。それからは、仕事で海外に駐在するなどで駄目になった時以外は、一応は楽友三田会合唱団を続けられている。

 「部室を間違えてしまった」と言う最初のボタンの掛け違えと、多くの先輩たちのおかげで、こういう人生となってしまったが、その結果わが人生に楽友会が占める事になった割合の大きさに、いまさらながら驚いてしまう(これは皆様とて同じでしょう?)。ここでお名前を拝借した先輩方以外にも、本当に多くの素晴らしい先輩たちに恵まれてお世話になった。先輩たちばかりではない。同輩や後輩の皆にもである。皆様には、まだまだお元気で居ていただきたいものである。

 さて、後どれくらい歌い続けられるのか?だけど、1期の先輩に追いつくには後12年かかる訳だ?65歳ともなれば、世の中ではもう年金が貰える老齢扱い。なれど、楽友三田会では、まだ駆け出しなり、か?そのうち誰か<楽友会メンバー専用の老人ホーム>でも作ってくれないかなあ。死ぬまで歌を唄って、というのもよいかも。(2010年9月19日)