リレー随筆コーナー

引き継いでゆくということ


亀井 泰子
(高17期)


 私が合唱をはじめたのは、幼稚舎の5年生くらいの時でした。当時クラスの中で、授業の始まるときに着席が一番遅かった子が全員の前で立って一曲歌を歌わなければいけない、という罰ゲームのようなものが流行り、たまたま音楽室への移動が遅れて歌わされた私の声を先生が気に入ってくださり、福沢先生のお誕生日のセレモニーで歌う学校代表の合唱団に入れてくださったのがきっかけでした。中等部のコーラス部、高校楽友会、大学ではワグネル女声、卒業後もワグネル女声の指揮者の先生が指導されていた合唱団に入り、また、数年前から楽友三田会合唱団にも入れていただきました。

 私の母は子供のころ放送児童合唱団に入っていたとかで、家事をしながら歌っていることが多く、私にとって「歌う」ことは、ごく自然な日常の中にあることでした。大学以来ずっとご指導いただいている先生から、「耳は感覚器官の中でも早く発達するもので、その人の声の出し方は、おなかの中にいるほんの小さな時からの音環境に影響される」と教えていただいたことがあります。母親と娘がとても似た声をしている例が多いのは、この音環境のためである、と。例えばすごくハスキーな声の方は、幼少期に身近にハスキーな声の持ち主がいてそのような癖がついたりするのだとか。そう考えると、いま私が楽しく歌えるのは、母から受け継ぎ育ててもらった耳のおかげ、ということになり、とても感謝すべきこと、ということになります。

私の父は昨年の一月に他界してしまいましたが、長く塾野球部の監督をしておりました。弔問に来てくださった卒業生の方々から、たくさんの逸話をお聞きし、娘には見せなかった激しい闘将の一面もあったのだと知って驚いたりもいたしました。兄や弟と比べると、一人娘の私には甘い父でしたが、人としての礼儀、困ったときにこそ落ち着くべき、ということ等々、教えてもらったことの数々が、自分が子供を育てていく上での指針になってまいりました。

 大学で楽友会でなくワグネルにおりましたので、数年前に楽友三田会合唱団に参加させていただいたとき、いわゆるアウェー的な立場になることを想像していたのですが、先輩方お一人おひとりがとても優しく、フレンドリーにお声かけくださり、自然に仲間に入れてくださった時、その雰囲気をとても懐かしく感じました。高校楽友会での、音楽を無条件に楽しみ、後輩に対してもいっさい垣根を作らない明るい雰囲気とそっくり!と思いました。

息子も高校楽友会楽友会で歌っておりました。私がたくさんの大切なことを、両親や先輩方から教えいただいたように、息子にも教え、引き継いでいってほしいと思っております。

バトンの渡し先探します。

(2017/1/9)

    


編集部 亀井家は夫婦・息子と高校楽友会です。楽友三田会では久しく高校楽友会との連携が薄れた時代があります。60年代初めは大学・高校は一緒に練習をし定演も一緒でした。しかし、その頃、大学紛争が始まりました。高校生が大学生と同じサークル活動をすることはよくないと考えたのが高校としてのスタンスだったのでしょう。1964年には大学楽友会と高校楽友会とは分離が決まりました。

60年代半ばから高校楽友会の出身者が大学楽友会に入る人が激減しました。慶應義塾楽友会の一貫性が薄まってしまい、断絶ともいえる時代を過ごしてきました。

しかし、高校で岡田先生の指揮で歌った「青春讃歌」を忘れられない人たちが、「忠友会」という合唱グループを作り、ワグネルのOBOGの主催するコンサートで「青春讃歌」を岡田先生の指揮で歌って来ました。それを本「楽友」編集部の小笹主幹が聴きに行き、「忠友会」のリーダーの阿波田尚君や亀井淳一君らと出会いました。2人は楽友三田会に入ってくれました。そして、阿波田夫妻、亀井夫妻はMMCでも歌ってくれています。

というわけで、彼らが楽友三田会と高校・女子高楽友会OBOGとの繋がりを再び強固なものにしてくれたのです。みなさん、何処から慶應義塾に入ろうと、何処から楽友会に入ろうと出ようと皆大事な楽友です。人の繋がりを大事にして泰子さんは「楽友」に寄稿してくれました。

亡くなったお父様とは、誰もがご存知の前田祐吉監督です。監督就任の年の秋季リーグ戦で、あの早慶6連戦を指揮した監督です。6日間、神宮球場に通いました。(2017/1/9・かっぱ)


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