その他の趣味・同好会



フォトアルバム

蘇る映像
どのように撮影したのか覚えていないスタン・ゲッツの映像、
そしてストックホルム


田中 博(20期)


日本人は「写真」という文字から写”真”は、なにか”真実”を“写し”取り記録する、まるで求道精神が必要な”芸術”と認識する時代が長く続きました。“お正月を写そう”(塾、経済学部卒の桜井順さん、本年9月ご逝去、作詞作曲)のコマーシャルは写真の大衆化を象徴するものでもありました。”カメラ女子”の時代を経て、1億総スマホカメラマンの時代です。

「Image a la Sauvette」(仏、直訳すると「人目をかすめての映像」)は英語で「The Decisive Moment」、日本語で「決定的瞬間」という訳語が使われている著名な写真家の写真集があります。撮影時点での社会における日常の普通の生活の一コマや、世界の多様性をモノクロ写真で構成した写真集であり、衝撃的な映像は含まれていませんから、英語と日本語の訳語、表題「決定的瞬間」は内容を正しく表しているとは思えません。現代では「決定的瞬間」などはゴシップ週刊誌の不倫記事のタイトル用語かと思える熟語ですが、別の著名な写真家のスペイン内戦での崩れ落ちる兵士(Falling Soldier)という映像(後年の考証で、敵弾にあたって倒れる瞬間を捉えた映像ではなく演出だったことが確認されている)から感じ取れる「決定的瞬間」とオーバーラップし、写真でとらえられた映像がすべてを物語り、時代背景や社会をも象徴しているかの如き刷り込みがなされてきました。撮影者が何を映像として捉えたかったのかが本来の撮影の主題のはずです。用語の誤用が、撮影行為が哲学にまで発展してしまうならば“写真”愛好家の私としては困ってしまいます。

二年ほど前に出てきた貴重な画像があります。サキソフォン奏者スタン・ゲッツ(1927年2月2日 - 1991年6月6日)のコンサートの静止画像です。ピアニストは後年、スター的存在となるチック・コリアが写っていました。年代はスタン・ゲッツの来日記録、およびピアニストがチック・コリアということから1968年、会場は、当時住んでいた京都、岡崎の京都会館(オリジナルの設計は前川國男、現在は売名権?とかいう愚かな金銭によって公共建築物に私企業の名前が付いている。売名行為とメセナを混同する経営者がおり、それを称賛するジャーナリズムまであるのだから世も末だ。文化都市京都が泣く。)でした。フィルムは富士写真フィルムのネオパンSS、レンズはニッコール50mm、F1.4です。


Stan Getz, 1968

当時、アストラッド・ジルベルトとゲッツの少し気だるい”イパネマの娘”(レコードのレーベルはVerve、赤色絵の具のアブストラクトの絵画を写真撮影したものを使用した印象に残るレコードジャケット)が西洋と北米以外の南米にも素晴らしい音楽があるということで、大ヒットした時代でした。

 Tall and tan and young and lovely
 The girl from Ipanema goes walking
 And when she passes he smiles, but she doesn't see

画像を注意深く見てみると、135フィルム用の焦点距離50mmの普通の画角のレンズですから、被写体との距離はそう離れていません。舞台の大きさを推定すると、最前列から5-8列目あたり、そして、着席してシャッターを押したとしてステージ床面よりも若干高い位置からの撮影だったはずです。当時、ある事情で、良い席を確保できていたかもしれないのですが、そこは報道関係者が当てられる席ではなかったはずです。不思議なのは、なぜカメラを持参していたのか?当時でも同ホールでのクラシックのコンサートは撮影禁止、撮影は会館が手配したカメラマンが防音頭巾をかぶせての撮影でした。当時のジャズコンサートは撮影禁止ではなかったのか?もし撮影禁止なら、禁を犯してまで、ミラーのクッション音が大きい一眼レフでの撮影は絶対にしなかったはずです。

ということなどから考えると、当日のジャズコンサートは写真撮影に関してうるさい規制は(主催者や演奏内容、会場運営者にもよるのだろうが)なかった可能性が高いと思われます。撮影可の状況で撮影した写真と仮定して画像を公開させていただきます。


Stan Getz, 1968

  

数年前にストックホルムに数時間滞在しました。水の都です。きれいな国際都市です。移民を幅広く受け入れている街です。1960年代にはすでに、スエーデンの自然を賛美する「Ack Varmeland du skona」という民謡を基にした「Dear Old Stockholm」という名に編曲された曲がジャズのスタンダードナンバーとなっていました。この曲はマイルス・デイヴィスポール・チェンバースエディ・ヒギンスなどの名演でも残っており民謡としての親しみやすさ、人々の生活の喜びを素直に表現しているジャズの名曲となっています。「イパネマの娘」は南米でのポルトガル語と英語で歌われています。音楽の国や人種を超える素晴らしさを、秋の夜、youtube "Dear Old Stockholm - Stan Getz & Chet Baker"で味わってみてください。

 

(2021年10月13日)


編集部付記: いつもの田中 博が珍しい写真を見つけたようです。昨夜、珍しく早寝した所に送られてきました。かっぱの一回り下の田中 博がStan Getzを1968年に聴きに行ったとはおったまげました。何とも、おませな坊やだったのですね。確か2度目の来日です。初来日は、かっぱが修士2年の頃でした。東京サンケイホールでした。

ゲッツは日本に来るのを厭がりました。麻薬を持って入国できないからです。その結果、気の入らない(薬の入らない)いい加減な演奏でした。評論家も酷評していたのを思い出します。

ジョアン・ジルベルトとのボサノバでも有名になりましたが、ジョアンに言わせると「あいつはボサノバがわかっていねぇ!」でした。喧嘩状態になったそうです。もともと、ボサノバ=台所の鼻歌、を歌わされるのは大嫌いなかっぱには、どうでもいい話でした。それでも、ジルベルトのコンサートに行きましたが、つまらなくて途中で抜け出しました。

途中で抜け出したのは、もう一人います。ダイアナ・クラールです。

Stan Getzが1940年代後半にWoody Herman楽団にいた頃、4人のサックス奏者をフィーチャーした”Four Brothers”という曲が演奏され、4人、Stan Getz, Zoot Sims, Herbie Steward, Serge ChaloffはFour Brothersと呼ばれました。

 

https://youtu.be/6OmjvNY9-5k

そのFour Brothersに倣って、自分たちのクインテットにFive Brothersとグループ名を付けたのが、寺田 厚バンドです。1950年代に結成のバンドです。


山崎陽一(pf) 岡部正二(tp) 寺田 厚(dr) 高津俊次(ts) 栗原和夫(bs)
Five Brothers(20年以上前)

寺田さんは楽友会の5期、栗原さんは7期です。かっぱの高校時代からの仲良し先輩です。

(2021/10/14・かっぱ)