ペン画ギャラリー
年頭の一枚
若山 邦紘(9期)
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「楽友ギャラリー」を開設したとき、編集部小笹主幹が「かっぱの絵も出せ」と何度も言いました。その度に無視していました。かっぱも若い時から文武双方に興味を持ちいろんなことに手を出しましたが、一人前になれたのは日本の誰といわれる先生・師匠に恵まれたお蔭です。かっぱは幸運な子供だったのです。
「文」では私の専門であったオペレーションズ・リサーチという学問、これには学部・大学院を通して厳しく指導をしてくださった管理工学科の創設者・山内二郎お爺ちゃんとゼミの親分・関根智明恩師がいました。関根のオジサンには11時頃になると電話で「おい、居るぞ」と自宅に呼びつけられ、夜の白むまで個人教授で絞られたものです。
それに子供のころから有名な書道家について勉強をした書道です。田上帯雨先生が持っていらした「ネズミの髭の小筆」はよだれが出るほど欲しい逸品でした。この筆は九段下の玉泉堂で求めたものでした。玉泉堂には帯雨先生の名入りの筆が売られていました。後にこの名店の跡取り息子の斉藤 彰(10期)と楽友会で出会うことになります。帯雨師匠は普通部の2年の私に「邦雨」という雅号を下さいました。80年代になって北京で鼠髭筆を見つけて、日本では見られない珍しい太い筆をお土産に買って持って行きました。
もう一つはジャズ・ヴォーカルです。私の師匠はDolly
Bakerと沢田靖司です。Jazzではクラシック系の発声法とは異なるCrooning唱法と呼ばれる発声法が基本で、楽友会の皆さんには馴染みのない歌い方です。昔の発声法をはがすのに沢田靖司師匠のところで3年かかりました。
「武」の方はスキーが第1の種目です。蔵王の主、岸 英三というデモンストレーター第1号、基礎スキーでは日本一のスキーヤーに出会い、何が気に入ったのかかっぱのことを息子同様に可愛がってくれました。蔵王ハイム・スキースクールの前身、蔵王スキースクールを創設する4年前に弟子にしてくれたのです。
第2種目、ゴルフは一流のプロ・川波義一爺さんの門を叩きました。初対面の日、かっぱのスイングを見て「お前はオフィシャル・ハンデ5にまでなることを保証する」と言ってくれました。結果はホームコースIGCで8まで行きました。通い始めてひと月後に(35、36)で1アンダーというスコアが出ました。川波さんにスコアカード見せると満面笑みでした。ところが50歳になる頃、もともと遠視気味だったせいで、人より早く老眼それに乱視が進み眼鏡をかけるようになり、パッテイングで集中できなくなり、スポーツとしてのゴルフを早々と止めました。当時のかっぱのゴルフは遊びではなかったのです。
ペン画に使ったペン
ところが「ペン画」を描くのはずぶの素人、しかも、年に一枚描くかどうかで、本格的な勉強も修行をしていないのです。それで、へ理屈をこねながら「楽友」にご披露するのを躊躇していたのですが、もう後期高齢者ともなれば「自己流」でもいいじゃないか、末続がいつも言う「かっぱの川流れ」にならないうちにです。
それから各絵に書き添えられたコメントは、その絵を描いたときに付けたコメントです。
新しい順に並んでいます。(2016/5/10)
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コルコバードの丘に立つキリスト像
(リオデジャネイロ)
Corcovado
昨年に続いてブラジルの題材です。37年前(1987年)にリオデジャネイロのコルコバードの丘に昇りました。710mの高さがあります。ケーブルカーが走っています。誰でも簡単に行けます。
山頂の岩壁の石をほじくって持って帰りました。
という訳で、2024年の「年頭の一枚」は、「コルコバードの丘の立つキリスト像」であります。
(2023/12画)
サンパウロカセドラル
(ブラジル)
サンパウロ・カセドラル
1987年8月に南米で初のInternational
Federation of Operational Research Societies(IFORS・国際OR学会連合)の国際会議がアルゼンチンのブエノス・アイレスで開催されました。
われわれは成田からロサンゼルス→マイアミ経由でサンパウロに向かいました。30時間かかりました。
サンパウロには、私の普通部時代の友人が2人滞在していました。柔道部だった関根隆範は大学卒業後、ブラジルの日系人たちを相手に無農薬の野菜を提供することを仕事としていました。もう一人は同級生だった津本浤義は丸紅の社員で転勤中でした。
2人は我々視察団の見学先にサンパウロ大学とフォルクスワーゲンの自動車工場を選び交渉をして契約し、当日は案内役も務めてくれました。
サンパウロからブエノス・アイレスへ飛びました。ブエノス・アイレスでは1週間滞在し、国際会議に参加しました。会議の終了後、日曜日はイグアスの滝でした。イグアスからブラジルのリオデジャネイロに寄って、メキシコ・シティを訪問し、ロス経由で日本に帰りました。2週間の視察旅行でした。
というわけで、2023年の「年頭の一枚」は、サンパウロ・カセドラルであります。
(2022/12画)
エメラルド寺院
(バンコック)
エメラルド寺院
タイ国の王宮の隣にエメラルド寺院(Wat
Phra Kaew)があります。
ここには、エメラルド(実際は翡翠)で作られた佛陀像があります。
翡翠佛陀
今はない六本木の生バンドクラブDOMINANTのお客さま代表、佐藤 宏さんがタイ国三菱いすず自動車販売会社の社長として90年代前半にバンコックに赴任しました。
そこで、佐藤さんのドミナント仲間で、2度バンコック訪問をしました。2度目は佐藤さんの退任帰国に当たり「タイ国有難う」のコンサートをバンコックのホールで行いました。昼間はタイ人のお客様、夜は日本人のお客様で昼夜2部の公演をやってきました。
わかG 佐藤 宏 嶋田トオル
バック: ドミナント・バンド
バンコック旅行は忙しい旅で観光もろくに出来ませんでした。塀の外からの写真を元に一枚だけ、26年経ってやっと描きました。
2022年、「年頭の一枚」はバンコックのエメラルド寺院です。
(2021/12画)
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故宮博物院
(台湾 台北)
故宮博物院
2007年10月、お友達の大場知之さんが台北駐在のうちにみんなで台湾に行こうという話になり、10人が台北へ飛びました。
空港から先ず案内されたのが、故宮博物院でした。かつて、北京の故宮にあった宝物を蒋介石総統が台湾に持って逃げたものが展示され、かの有名な「ヒスイの白菜」は博物院の目玉です。
3階から2階、1階と見学しました。日本人の多いことにはビックリです。女性軍は圓山大飯店に寄ってチャイナドレスの注文です。
夜は貿易センタービルにあるTAIPEI WORLD TRADE CENTER CLUBという会員制クラブで高級中華料理でした。
大場ちゃんのお陰で、3日間の台北旅行を楽しみました。
というわけで、2021年の「年頭の一枚」は、故宮博物院です。
(2020/12画)
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闘牛場
(マドリッド・スペイン)
1993年7月、ポルトガルからスペインに入り、マドリードは41度という暑さ、ところが空気が乾燥しているので汗がすぐ乾いてしまいます。われわれは闘牛を見にPlaza
de Toros Las Ventasへ行ってきました。一番立派な闘牛場らしいです。観光客で賑わっていました。
ポルトガルでも闘牛を見てきましたが、牛を殺すことはありません。スペインとポルトガルは隣同士の国ですが、どうも国民性はまったく違います。スペインは血の気が多いようです。
27年前の闘牛場の写真をひっぱり出しました。動物愛護の団体からは、牛を殺す闘牛には反対運動が激しかったのです。スペインの中でも闘牛に対する興味が落ち込んで久しく、闘牛は斜陽だといわれます。
(2019/12画)
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大雁塔
(西安)
中国が文革4人組の時代からケ小平の時代へと変革しました。70年代後半です。
その変革の目玉は、20年以上遅れを取った教育の改革と情報技術の取り込みでした。80年代に入ってから中国から浜松町にあった(財)情報処理研修センター(理事長 山内二郎先生)に「講師団の派遣要請」がありました。これに応えるため大学人と企業の実務家からなる講師団を編成し、2,3年の間に2回の「研修会」を北京で開催したのです。研修に参加したのは、各省の役人たち100人程でしたか・・・もっと居たのか。
中国にはそれ以前から中国科学院という研究所があり、進歩的な学者たちがいました。1975年に日本で開催された「世界OR会議」に中国から初の参加があり、4人の学者が来日しました。そのような人材がいないわけではないのですが、日本からの講師陣を要請してきたのです。
10何人かの講師と団長の小笠原暁先生とが北京に飛びました。私も講師団の1人でした。
1週間の研修会の後、東北地方の承徳(西大后別荘地)までのバス旅行では、ホテルの庭にモンゴルのパオがあり、われわれはパオに泊まったのです。ところが水道の圧力がなくバスルームのシャワーは、しゃがむか寝ないことには水が出ないというお粗末なものでした。
北京に戻り、飛行機で西安の都へ飛びましだ。平安時代の長安の都です。西安では秦の始皇帝陵をはじめ歴史遺産を見学したり、経典を保存するための大雁塔にも行きました。空海が印度からきた経典を写経したといわれるお堂もありました。西安はシルクロードの出発点で、街の城壁の西門からは、すぐに砂漠になります。
この絵は30数年前の姿です。(2018/12画)
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旧ブルボン宮
(パリ)
1990年6月にコンコルド橋のたもとからセーヌの河岸をチュイルリー公園の方に歩き、旧ブルボン宮とコンコルド橋とエッフェル塔がファインダーに収まるような場所を探しました。この場所のこの角度が「絵になる」とシャッターを切りました。今だったらデジカメですからフイルムの心配なくパチパチ撮ってくるところですが、当時は、オリンパスペンをポケットに入れながら歩き回ったのです。2枚か3枚しか撮っていません。
この写真だけが水上バスも運よくファインダーに入りました。
この建物は1720年代の建立です。でも、ピカピカです。ルイ14世の庶子であったLouise-Francoise
de Bourbon (1673-1743)のために建てられた宮殿です。
後には下院(衆議院)の議事堂に使われていました。
エッフェル塔も初めて絵になりました。でも、わたしが描きたかったのは、実は「木の葉の影」だったのかも知れません。お誂えのこの枝振り、普通は景色を遮る邪魔ものとファインダーの枠から除かれます。(2017/12画)
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Hotel
Du Louvre
(パリ)
1993年の夏、ポルトガルのリスボンでOR国際会議が開催された。リスボンから列車でポルト経由でマドリッド、バロセロナを巡り、いつものようにパリで打ち上げをやって帰国するという日程で2週間の旅を計画した。パリに立ち寄るのは私の行きたいシャンソニエがあるから。その上、美味しいものを食べに連れて行くので、OR学会の旅行団は70年代から大勢の参加者が集まった。
私が最初にOR学会派遣の視察団について行ったのは1971年が最初で、団長の松田武彦先生の鞄持ちと団員のお世話係を仰せつかった。この視察団の準備作業を手伝いながら見倣って80年代、90年代のIFORS(OR学会国際連合)、APORS(アジア太平洋OR学会連合)が主催する国際学会の旅行団企画を担当してきた。私が企画したすべての旅行の添乗員をしてくれた近畿ツーリストの沢田建次さんはどうしているのだろう。
この時は、ルーブルの裏側に位置するHotel du Louvreで泊まることにした。これも私が一度は泊まりたいホテルだったからである。およそ150年前、欧州使節団に通訳として同行した福沢先生がここで泊まったのが理由だ。
このホテルは1855年に建てられたもので、外観は全く変わらず残されている。(2016/12画)
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万福宮
(シンガポール)
丁度30年前の1986年夏にオーストラリア・ゴールドコーストでTIMS(アメリカの経営科学学会)の国際会議が開催された。その帰りにシンガポールに立ち寄った。当時のシンガポール国立大学教授のChew
Kim Lin(周金麟)はアジア太平洋地域OR学会連合のシンガポール代表で、同学会連合が発足当時からの仲間であった。私はこの学会連合の事務局長を務めていた。
Chewさんは私を大歓迎してくれた。シンガポールに到着した晩は歓迎晩餐会がシンガポールOR学会の主催で開かれた。Chewさんはシンガポールの学会員たちをたくさん集めてくれていたのだった。それが連れて行ってくれた中華レストランは、東京でいえば一世代前の古い都営アパートのようなアパート群の1軒の2階にあった。一般の旅行者には全く無縁の場所だと思う。
そう、台湾台北でにも地元の人間しか行かないような中華料理屋に連れられて行ったことがある。
シンガポールOR学会はニュージーランドOR学会と共同編集で、Asia-Pacific
Journal of Operations Reserchという論文誌を発行してくれ、これがわれわれアジア・太平洋OR学会連合のOfficial
Journalとなった。Chewさんはこの論文誌の創設者だった。
翌日はシンガポール市内の観光案内をしてくれた。その当時からシンガポール港の「マーライオン」は既に水を吹いていた。古い中華寺院に連れて行ってくれた。漢字では「万福宮」、英語ではThian
Hock Keng Templeといった。
日本の寺院の雰囲気とは違った中国風の印象的な寺だった。(2015/12画)
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パルテノン神殿
(アテネ・ギリシャ)
Parthenon=Hall
of Virgin God
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ギリシャのアテネでオペレーションズ・リサーチの国際学会(IFORS)が1990年6月に開かれた。この年の日本からの参加は松田武彦(東工大学長)団長を含めて25名だった。
中日の遠足はエーゲ海クルーズに出かけたが甲板の上でA.チャーンズ大先生(テキサス大)と一緒になり話をしたのがいい思い出だ。ORの大御所チャーンズ先生にはこの時初めてお会いした。珍しく学会に出てきていたのだった。チャーンズ爺ちゃんは2年後の92年に75歳で亡くなってしまった。
Prof. A. Charnes(1917-1992)
IFORS大会ではチャーンズ先生だけではなく、われわれが学生時代に読まされた専門書を書いた大先生たちと顔見知りになり、その後の手紙のやり取りなどし、3年後にまたIFORSで出会うのが楽しみだった。そういう大先生達がいつまでも生きているわけではない。また、年をとり出てこられなくなる。だんだん寂しい思いをするようになってきた。
そんなわけで、北京のIFORS99はお休みしたが、2002年のIFORSエジンバラ大会では団長に奉られて参加した。もう、レジェンドはSaul
Gass先生(2013年没)だけになってしまった。次の2005年ハワイ大会以降は行く気がしなくなっていた。(2014/12画)
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慶應義塾大学
(三田・東京)
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われわれは2014年3月卒業50周年を迎えた。クラス会の幹事が慶應にまつわる絵は描いていないかと言ってきた。リクエストに応じてあらためて葉書大の絵を描くことにした。
慶應義塾の叡智の丘に建つ図書館しか題材は無い。明治45年(1912年)4月に竣工した。ここが慶應義塾の智徳の泉源、しかし、この景色は現在は見られなくなってしまった。
東門とか東館とかよばれる、新しい建物が建ってしまったからだ。2000年だという。春日神社の社殿も外からは見えない。幻の門は塾監局に上がる坂に移設されて残っている。
そこで、古い写真を見つけて懐かしい景色を描いてみた。20世紀の想い出だ。
幻の門は三田キャンパスの正門だった。大正2年(1913)4月に、元々あった島原藩邸の黒門をこの石の門に建て替えた。
当初、門柱に「慶應義塾」の門札が掛けられたのだが、すぐに盗まれてしまい、その後、掛けなおすことはなかったのだそうだ。そんなことから「幻の門」と呼ばれるようになったのかもしれない。この門も100年の歴史が過ぎたのです。(2014/7画)
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法政大学
(市ヶ谷・東京)
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法政大学はフランスの法学者ボアソナードを迎え1880年に創立された東京法学社が前身である。法学部は日本最古の法学部である。
この建物はボアソナード・タワーと呼ばれれ、2000年4月に竣工した。大学における高層ビルとしては最初のものである。市ヶ谷の外堀から見るこの景色は法政大学のシンボリックなアングルである。
土手の下を走る中央線快速電車は法政大学のオレンジカラーであり、この電車を絵の中に取り込まないと法政大学の絵にはならない。
1969年4月から2011年3月まで、丸42年間法政大学の一教員として教鞭をとってきたが、われわれ理系の学部は都心から西に外れた小金井市のキャンパスにあった。田舎者たちはここを本校と呼んだ。
全学の委員会や特別の行事があるときには、本校に呼び出されたものだ。
この夏、出身校である慶應の三田の旧図書館の絵を描くことになった。そこで、法政大学の絵も描かない訳にはいかない。描かなかったら教え子たちに叱られてしまう。彼らも、実はここに通った学生ではない。複雑な思いで見ることになるだろう。
皮肉なことに、私自身が学生のときに通った校舎は武蔵小金井であり、三田ではない。不思議な因縁だ。学生時代も教員時代も本校には行かず、分校通いだったのだ。というわけで、学生時代からこの電車に乗り小金井に通算50年、半世紀通ったのだ。(2014/7画)
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ピッツバーグ大学
(ピッツバーグ・アメリカ)
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1960年代後半頃、会計学とオペレーションズ・リサーチの接点が「科学的なマネージメント」の研究対象となりました。
日本OR学会では、1971年にこの動きを捕らえてアメリカに「会計情報システム米国視察団」を派遣する計画が立てられました。この企画の立案と運営は、若々しかった神戸商科大学・小笠原 曉先生と慶應義塾大学・川瀬武志先生のコンビで実施されました。
視察の中心は、カーネギー・メロン大学のGraduate
School of Industrial Administrationにおける1週間の講習会でした。当大学院は視察団団長である東京工業大学・松田武彦教授の出身母校です。
その外に先進的な企業訪問などがスケジュールに組まれていました。
我々は1週間ピッツバーグのWebster
Hall Motor Hotelに泊まり、毎朝、大学まで歩いて通いました。30歳になるかならないかの私は松田団長の鞄持ち兼団員のお世話係としてついてゆきました。
ホテルの真前に聳えているのはPittsburgh
Universityのタワーでした。大学のシンボルとなっていました。(2013/12画)
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ベイ ブリッジ
(San Francisco−Oakland)
これまでアメリカの絵を描いていません。それはヨーロッパのような絵の題材となる中世の建物がアメリカではなかなか出会えないからです。
それでも今年はなんとかアメリカと思いながら古い写真アルバムをひっくり返して、サンフランシスコの橋にしようと思いました。誰もが思い浮かべるのはGolden
Gate Bridgeです。しかし、1973年の映画「追憶」でのベイ・ブリッジのシーンが頭の片隅に残っていました。
ここに描かれたのは丁度SFOとOaklandの間に浮かぶYerba
Buena Islandからサンフランシスコ側を見た景色です。Transamericaのビル影が見えているでしょ。
ご承知のようにこの橋は2階建てになっていて、それぞれが一方通行の自動車道路になっています。「追憶」の映画では、上り下りの一方通行を逆にして映画を撮影しました。アメリカらしいです。
サンフランシスコからベイブリッジを渡るとオークランドです。その先の町がバークレーです。われわれが用があるのはCalifornia大学Berkeley校です。1984年のことです。OR学会の視察団の皆さんを引率して、バークレーでセミナーを開いてもらいました。昼間のセミナーが終わると、毎夜、皆さんは地下鉄(BART)に乗ってサンフランシスコまで遊びに出掛けたものです。随分昔になりました。
この映画の主題歌、バーバラ・ストライザンドの”The Way We
Were”は後々まで歌われるヒット曲となりました。
瀬戸大橋が出来るまでは、これが世界一長い吊り橋だったのです。(2012/12画)
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パリ市庁舎
(フランス)
ヨーロッパで国際学会が開かれるときには、決まってパリに寄って帰国する癖がついていました。フランス語は話せないのに居心地のいい街ですし、見るべきものも多いところです。
ノートルダム寺院から北へ橋を渡ると「パリ市庁舎」があります。
初めてパリの市庁舎を見たときはたまげました。ここにも「すごい美術館が」と思ったら、パリ市役所だというので呆れかえったものです。1357年建造(1892再建)です。
ルーブルだけとっても何回行っても全部を見尽くすことは出来ませんから、行く度に足を運ぶようにしてきました。年表を眺めたら、最後にパリに立ち寄ったのは1993年です。随分長いことご無沙汰してしまいました。昔は旅行者である日本人がパリの地下鉄に乗っても安全でした。たまにスリがいるくらいでした。90年代終わりの頃から、旧オペラハウスの辺りは危険なジプシーで一杯、地下鉄は乗るものじゃないと聞かされました。私は地下鉄よりも路面を走る市バスのほうが何処にいるか分かりやすいので好きです。
ところで、フランスにジャズがもたらされたのは古く1920年代です。フランス製の歌が英語の詞をつけられてスタンダードになった歌が沢山あります。しかし、パリに行けば、本場のシャンソンを聴きに行くのがお勧めです。それも鄙びたシャンソニエの日本ではあまり知られていないクラブ歌手のシャンソンは風土、飲み物に相まっていいものです。
市庁舎とは反対に、ノートルダムから南へ橋を渡るとカルチェラタンに通じます。橋を渡ってすぐ左に教会に通ずる道を入ると、赤いドアのシャンソニエがありました。中世の地下牢をライブハウスにしたものです。昔々、ここで歌っていたお婆ちゃんたちはどうしているでしょうか。
いつぞや、Caveau des Oubliettesで検索したら、ジャズライブの店に変わっています。時代の流れなんですって。パリまでがねぇ・・・(2011/12画)
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議
事 堂
(ブエノスアイレス・アルゼンチン)
Congres
Nacional Buenos Aires |
1987年8月にアルゼンチンの首都ブエノス・アイレスで第11回IFORSのOR国際会議が開催されました。本来は1984年に予定されていたのですが、1982年に起こったフォークランド紛争のため見送られていたのです。
ブエノスアイレスは「よい風、よい空気」という意味で、船乗りにとって「順風」という意味らしいです。南米のパリと呼ばれる美しい港町です。この絵は23年半ぶりに撮って置いた写真を見て描きました。描いていると、この年のIFORS旅行のことが次々と浮かんできます。
アルゼンチンにはタンゴがあります。港町ボカはタンゴ発祥の地です。タンゴの名曲”カミニート:Caminito”があります。カミニートは小道とか小径と訳されますが、ボカの裏道はまさにカミニートです。それまで、レコードで聞くタンゴにはあまり興味を引かなかった私ですが、本場のタンゴを生で聴いて大興奮してしまいました。
カーサブランカ(Casablanca:ホワイトハウス)というライブレストランに行きました。日本でも有名なレオポルド・フェデリコ楽団が出ていました。凄い迫力で圧倒されました。
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当夜はフォルクローレのバンドも出ていました。アンデスの空気の響きです。これも素晴らしい経験でした。楽器は笛と弦楽器です。笛はケーナやサンポーニャなど、ギターの他にチャランゴという弦楽器を使っていました。
←これがチャランゴです。翌日、楽器屋を探して買ってきました。松の木をくりぬいて作ってあります。
ブラジルに向かう飛行機で機内持ち込みをしました。預けて壊されると怖いですからね。隣のおばあさんが「それは何だ?」といいます。「チャランゴといいます」と見せてあげました。「コンドルは行く」をちょっとだけ弾いて聴かせてやりました。おばあちゃん、喜びました。(2010/12画) |
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モンサン
ミッシェル
(ノルマンディ・フランス)
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1990年パリで会議がありました。アテネのIFORSが終わって翌週にパリへ飛びました。
日本OR学会チームの団長の東京工業大学学長の松田先生の奥様がモンサンミッシェルに行きたいとおっしゃいました。「それは幸い」と、会議をサボって観光バスで出かけることにしました。会議の嫌いなオジサンが一人ついてきました。
ノルマンディの海岸まで行かなくてはなりません。パリよりもイギリスのほうが近いのです。観光バスで朝7時にパリを出て、およそ東京から名古屋までの距離を一般道で走るのです。昼前にモンサンミッシェルが見えてきました。
Mont St. Michhel
モンサンミッシェルでは修道院が島のてっぺんに建っています。千年の間に何度も建替えられています。
暗ーい回廊から修道院の中庭と尖塔が見えました。印象に残る光景でした。
戻ったのは夜11時でした。(2009/12画)
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エジンバラ城
(スコットランド・エジンバラ)
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2002年の7月のことです。ロンドンで4日間遊び、サリナ・ジョーンズとトニー・パクスリーに会って一晩ゆっくりイギリス料理を食べに行きました。イギリス料理なんてあるのか?ですか。ロースト・ビーフの専門店でSimpson'sという200年とか300年続いた店でした。サリナはレアは苦手でいつもお肉は「よく焼き」のところを食べます。それとコカコーラ。昔、連れて行った渋谷の「焼肉や」は喜びました。好きなだけ自分で焼けばいいのですから。
そのあとOR学会のIFORSに参加する代表団にヒースローで合流し、エジンバラに飛びました。IFORSはエジンバラ大学で開催されます。
エジンバラ城は小高い岩山のてっぺんにあります。お城の崖の下には鉄道線路が走っていて、線路のこっち側が広い公園になっています。公園の噴水からエジンバラ城を見上げたところです。
公園の脇ではスコットランドらしく、バグパイプをくわえたスコッチのおじさんが、ブーブカブーブカ鳴らしていました。
さて、2008年度、つまりこの3月でわが研究室40期の卒業生を送り出したら、わたしも大学を卒業しようと思い、2年ほど前から学生たちにもそのように告げてきました。
しかし、幸いなことに体調もすこぶる良く、学科の要望と教授会の意を受け、あと2年間、頑張ることにしました。(2008/12画)
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メトロポリタン・カセドラル
(メキシコ シティ)
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メキシコの建物は初めて描きました。
メキシコ・シティの市内にあります。立派な教会でした。世界各地に聖母マリア出現の伝説がありますが、ここもその場所です。それでこの教会が建てられたのです。メキシコに行ったのは87年のことです。忘れかけていた題材です。
20年前のメキシコは国連の拠出金も払えないような借金だらけの貧乏国でした。それが、市内は美しく電信柱などもなく、インフラは東京など足下にも及びません。いやんなっちゃいました。80年代の日本はバブルも弾けていないいい時代だったのです。
日本は何でも薄っぺらだなぁと思いました。経済と政治のギャップをまざまざと見る思いでした。
メキシコの人は陽気です。金なんか無くてもマリアッチがあります。ボレロがあります。誰もがギターを抱えてトリオで唄うのが好きです。
とは言うものの、最近はメキシコにも昔のようなトリオは少なくなったのだそうです。赤坂に「ambe」というラテンのお店がありますが、マスターがトリオを探しに行っても昔とは変わってしまったと言っていました。(2007/12画)
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アルムデナ大聖堂
(スペイン・マドリッド)
Santa
Maria la Real de La Almudena |
ポルトガルの帰りに、ポルトから情熱の国スペインの首都マドリッドに飛びました。王宮の近くに100年もかかって完成したカセドラル教会があります。私の好みの中世の建物とは違って石がピカピカです。200年か300年経つと落ち着いてくるものなのでしょう。
1993年7月のはじめの暑い日でした。41度という気温ですが、湿度がないので汗は出ることは出るのですが、すぐに蒸発してしまいます。日陰にいれば日本の蒸し暑さより楽なのかもしれません。
そのカセドラルを14年経ってから描いたというわけです。何とか大晦日の午前3時半です。元旦の朝に間に合うのは嬉しいことです。毎年、ぎりぎりになってしまうのは題材がなかなか確定しないせいです。
マドリッドではフラメンコを見に行って来ました。彼らの掻き鳴らすギターの音も踊り子の踏み鳴らす足音も、拍手で刻むリズムも、すべてフラメンコなんですね。(2006/12画)
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セント・トリニテ教会
(パリ)
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Eglise
de la Sainte-Trinite de Paris
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パリが好きだといいながら、もう10年以上も行っていません。懐かしくて描いています。
お気に入りだったシャンソニエのおばあちゃん歌手たちやギターのジプシー爺さん、それに酔っ払いのピアニスト、クロードたちはどうしているのでしょうか。生きているのかどうかも分かりません。
パリは絵になる景色が多いことは誰もが認めるところですが、旧オペラ座の裏手にある聖トリニテ教会は美しい建物でした。
これも何時かは描こうと思って写真が撮ってありました。日曜日の雨上がりの朝の風景です。教会の時計は9:40を指しています。
昨年まで使っていた0.1mmの製図用のペンが書けなくなりました。そこで、細い筆ペンを使いました。筆圧の加減で太く書けたりしますので面白いです。
丁度よいのです。あまり細い線を書くペンは見難いのです。老眼と乱視ではね。
今年は描き易かったです。道具を変えてみることも必要な事なのです。(2005/12画)
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慶州の佛國寺
(韓国・慶州)
2004年は「韓流の年」と呼ばれました。
今までの日本にはなかった社会現象です。
かっぱは誕生後間もなく、当時の京城(今のソウル)に移り住み、その年の12月に日米開戦、そして昭和20年8月15日に終戦となりました。翌昭和21年になってから引き揚げて来ました。5歳になったばかりでした。
それから42年後の1988年にソウルでアジア太平洋地区の第1回APORS国際会議が開かれました。42年ぶりに韓国の地に降り立ちました。プサンから慶州を見学し、高速道路でソウルに入りました。慶州には歴史的な見どころがたくさんあります。
佛國寺という古いお寺がありますが、人っ子一人もいない静寂の中でその甍の重なり合う様は見事な美しさでした。大変印象的でしたが、なかなか絵に描くチャンスがありませんでした。あたためて置いた図柄と言えます。(2004/12画)
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タワー・ブリッジ
(ロンドン)
2002年夏のエジンバラで国際学会に出席の前に4日間ロンドンに滞在しました。
直接、エジンバラに行かなかったのはロンドンでサリナ・ジョーンズに会うためです。オックスフォード・サーカスの近くのヒルトン・ホテルに6:00に迎えに来てくれることになっていましたので、朝から観光バスでロンドン巡りをしました。
御のぼりさんが誰でも行くお決まりのコースです。テームズ川をボートで下りタワー・ブリッジの岸で陸に上がり、ロンドン塔見物というわけです。いいお天気に恵まれ、絵の材料となる写真をたくさん撮ってきました。
ロンドンの景色は、行ったことがない人でもどこかで写真やら絵やら見ているので、改めて描くのをはばかりますが、でも名所を描いておくのも悪いことではありません。
Rowney Watercolor
彩色には、原画を描いてから8年後に、友人の島崎爽助氏からもらった英国Rowney製の高級絵の具を使いました。
2004年の元旦に頑張って描きました。(2004/1画)
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リンデスファーン教会廃墟
(イングランド)
2002年の夏、生まれて初めてイギリスの地を踏みました。スコットランドのエジンバラでIFORS国際学会に出席のためでした。
オペレーションズ・リサーチ学会の世界大会で3年ごとに開催されます。月曜日から金曜日まで会議が開かれますが、中日の水曜日は「遠足」に決まっています。今回は、4つの行き先に分かれていて先着順に希望を取ることになっていました。
私は申し込みが遅かったので、第4のコースに割り当てられましたが、すばらしいコースに連れて行ってもらいました。バスが最初に到着したのはLindesfarneという古い小さな村です。エジンバラからスコットランドの東海岸を下り、イングランドに入って間もなくのHoly
Islandという島にあります。
その村の南のはずれに中世の教会の跡が廃墟のまま残っていました。
英国紳士はいつもこうもり傘をステッキ代わりに持って歩きます。それはイギリスの天候は30分の間にくるくると変わりやすいからなのです。この日も青空と真っ黒な雨雲が同居していました。
Lindesfarne Castle
この廃墟は酔狂な観光客しか見に来ないようです。静まり返って物音ひとつしません。じつは、メインの見どころは島の突端にあるLindesfarne
Castleという小さな城なのです。結構距離が離れているせいでしょう。それに、緑の芝草の野原は美しく見えますが、じつは、羊がうろうろ草を食べていて糞だらけです。よけいに印象に残りました。(2003/12画)
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サクレクール寺院
(パリ)
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わたしは月並みですがパリが好きです。ですからヨーロッパで学会等があるときは必ずパリ経由で帰ることにしています。1日、2日ぶらついてくるのです。
さて、市内の北側にモンマルトルの丘がありますが、そこに聳える白亜のサクレクール寺院は、ユトリロをはじめ多くの画家の題材となる場所です。
また、この丘に立つとパリが一望に見渡せる数少ないところでもあります。この日は朝早く出かけたのですが、観光客は1人もいなくて静かなものでした。おまけに、ケーブルカーの運転手は只で乗せてくれたのです。早起きは3文の得でした。
この丘のふもとの角に有名なシャンソニエ「ムーランルージュ」があるのです。
色付けをはじめてパソコンのペイントを使ってみたものです。これまでは、絵の具で色を付けていたのです。
(2000/12画)
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豫園の龍墻
(中国・上海)
上海の町は北京とは違い大阪のような商業都市です。1995年に華東師範大学を訪れた折に豫園という昔の金持ちの庭園に連れて行ってもらいました。今は公園になっています。
その豫園の中にこのような龍を形どった白い土塀がありました。龍墻(ロンシャン)といいます。中国では龍はいたるところに使われる縁起ものですが、ここのは一風変わっていました。土塀の瓦が龍の形をしているのです。要するに鬼瓦の装飾芸術があると思ってください。
1842年、アヘン戦争に敗れた清朝は「南京条約」で上海を開港しました。1845年にイギリス租界が始まり、アメリカ租界、フランス租界、日本租界も出来て、上海は中国であって中国でない時代が続きました。租界とは治外法権地域を言います。上海はこの時代に発展した地域で、意外と歴史は浅いのです。
戦争中、日本ではジャズは「退廃的音楽」と禁止されましたが、上海ではジャズが生き続けました。そこで、戦時中上海に渡った日本のミュージシャンがたくさんいたのです。
私がはじめて上海に行ったときも、高級ホテルにはジャズ・バンドが入っていました。「爵士樂團」というのです。爵士樂とは中国語でジャズのことをいいます。(1998/12画)
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フリンダース通り駅
(オーストラリア・メルボルン)
メルボルンという街は2度来ましたが、中心部は大変にぎやかです。やはり川に面した街です。この駅はメルボルンのまさに中心の駅ですが、アデレードやパースに向かう長距離列車が一路西へ西へと旅立つのです。オーストラリアはクック船長がイギリスから囚人たちを運んで、まだ100年程しか経っていないのです。
この交差点を右にだらだら上っていくと間もなく東京の銀座通りのような繁華街があります。そこから、ちょっと東のはずれの方に歩くと高級なブティックが落ち着いた佇まいでならんでいます。
この駅の背後にヤラ川が流れています。ヤラ川を1kmほど下るとカジノがあり、博打好きの人々がスッカラカンになって、川に面した安いファーストフード屋で粗末な食事をとっている風景にも出会いますし、運良く大もうけをした人たちが高級なハンドバッグや装飾品などを買うという対照的な風景にも遭遇するのです。そういう店が軒をならべているのが傑作です。
人生すべからく泣き笑いですな。
ここでは音楽はないのかって?とんでもない、ジャズが流行っているのです。わたしの1985年以来の友人のJohnston教授がここに住んでいますが、ハーバーの見える屋外のレストランで、のんびり昼飯を食べながら話をしました。彼が東京大学に研究員として来ていたとき、われわれの学会のアジア・太平洋地域の連合組織を作ろうと第1回の理事会をやったときからの旧友です。彼には当時、中学生の息子Benがいました。「どうしている?」とたずねると、「ロイヤル・メルボルン大学の数学科を卒業してジャズ・ミュージシャンになっちゃった。毎日のようにライブをやっている」とあきらめ顔。
その晩、ライブのある宿屋(inn)のラウンジに行ってやると、おやじから聞いていたらしくステージでわたしに手を振っているのです。アルト・サックスを吹いていました。わたしは彼に呼ばれてステージの上、「それじゃあ折角だから」と"Satin
Doll"を歌ったらオージー(Aussie)たちに馬鹿うけ、自分のテーブルに戻るとみんなから握手攻めにあいました。何処に行っても馬鹿やっています。(1997/12画)
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議 事 堂
(カナダ・ビクトリア)
カナダの西岸にバンクーバー島というかなり大きな島があります。その島の南の端にビクトリアという美しい街があります。バンクーバーからセスナの水上機で快適にひとっ飛びで着きます。港に面してこの旧議事堂が建っています。
ビクトリアは何もかも中世のイギリスを明るく明るくしたように感じます。ここから観光バスで小一時間ほどの所にブッチャート・ガーデンという庭があります。大金持ちのブッチャートさんが作った自宅の庭が公園になっています。季節の花が何百万本と植えられ旅行者の目を楽しませます。本当に美しい庭です。その中には日本庭園も、イタリア庭園もいろいろとあります。
わたしがくたびれてベンチで座っていると、となりの観光客が「この日本庭園は"tipical"か?」と尋ねるのです。少々困りました。やっぱり外国人が作った日本庭園はなんとなく違うところがあるじゃあないですか。”Approximately”と答えてやると、分かったようでした。「ああ、そう、おおよそかぁ」と。そして、2人で顔を見合わせて笑ってしまいました。
バンクーバーに"Blue
Note"という店がありました。ニューヨークのとは無関係でした。若いカナダ人の娘がアメリカのスタンダード・ジャズをピアノとベースをバックに歌っていました。休憩中に「一杯どう?」というわけで、ジャズ談義で盛り上がり、「それじゃぁ、なにか歌ってよ」ということになり、"When
Sunny Gets Blue" と "On The Sunny Side Of The Street"を歌わせてもらいました。Sunny
がキーワードだったって分かります?
ただし、前者は女のコの名前、後者は文字どおり日向のことです。(1996/12画)
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故 宮
(中国・北京)
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北京は80年代から10年くらいの間に6回ほど訪れました。国際学会もありましたが、80年代には国務院の要請で各省の役人対象のセミナー「情報処理とその応用」を何回か行いました。自分の出番が終われば、後は通訳を連れて北京散策、さらに西安や承徳への観光旅行まであります。
受講する役人たちの行儀の悪い事、時間にルーズなこと、酷いものです。同時通訳の女性が「恥ずかしい」と言っていました。
これは、96年の正月用に95年に描きました。
故宮は明朝、清朝の皇帝の住まいです。天安門から入ってつぎつぎと雄大な建造物が連なりますが、一番奥が住居部分になっています。これは、その一角です。美しい瑠璃瓦と大木の木肌、そして緑が何ともいえないハーモニーを醸し出します。静かで落ち着いた雰囲気が伝わるでしょうか。
おどろくなかれ、故宮には999の部屋があります。「9」という数字は中国ではめでたい数字なのです。これ以上はいる隙間がないからです。
北京では何回か京劇を見に行きました。中国風オペラです。なかなか力強い歌と胡弓の絡み合いが素晴らしいです。主役が歌い出すと中国人たちは拍手喝采で大興奮です。でも、ちょっと臭いです。
余白は一筆書き入れるスペースです。(1995/12画)
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ノートルダム寺院
(フランス・パリ)
このときはパリに10日間滞在していました。のんびりしていました。アテネで国際学会があり、引き続く週に別の会議があったわけです。自分の発表がないので、ゆっくり時間があり、ひとりであちらこちら歩き回りました。夏でも朝夕は涼しく気持ちがよいのですが、昼間は結構暑く水のボトルをぶら下げていないと喉がかわいてしようがありません。
ノートルダムはやはり正面ではなく後ろから見た風景が素晴らしいと思いました。セーヌの向こう側の岸をあるいて一番良いアングルを探したのです。
すぐ近くがカルチェ・ラタンですが、そこに中世の地下牢をそのまま使ったお気に入りの狭ーいシャンソニエがあります。パリにいるときは毎晩10時過ぎになるとここに足が向いてしまいます。オバアチャンやオジサンが入れ替わり立ちかわりシャンソンを聴かせてくれます。ピアノ伴奏のクロードは酒好きでいつも赤い顔をしてピアノを弾いています。食後のカルバドスなど舐めながら地元のシャンソンを聴くのが楽しみです。(1994/12画)
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ベレムの塔
(ポルトガル・リスボン)
リスボンの街はテージョ川の河口に面しています。コロンブス、マゼラン、バスコ・ダ・ガマも大航海時代ここから航海に出たのです。川に突き出るように建てられたベレムの塔は後に牢獄に使われていたといいます。潮が満ちてくると牢獄の中に海水が入り込んできたものと思われます。
ポルトガルの民族音楽はファドです。Amaria
Rodrigues という世界的に有名なファドの歌手がいます。日本にも何回か来ていると思いますが、一度だけコンサートに出掛けて聴いたことがあります。ファドは大体が暗い怨みの歌が多いようですが、彼女の歌は心を打ちます。
この年からペン画を描きはじめました。全くの自己流です。(1993/12画)
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