慶應義塾楽友会クロニクル
楽友会前史(1) : 時代背景

福沢先生の名著「学問のすすめ」が世に出たのは1872年のこと。それが呼び水となって世の中に深く広く教育熱が浸透していきました。何しろこの本は300万部売れたということですから、その影響ははかり知れません。総人口約3千万人の、10人に一人はこの書を読んだことになります。ペンをかざした丸帽姿の「慶應ボーイ」がもてたわけです。一方、角帽の「早稲田」も質実剛健の気風で人気を集め、昭和の初期には「日本国中どこでも、岩波文庫をかかえた早稲田の学生を見かける」とまで言われたそうです。

「ペンは剣よりも強し」の「ペン」に象徴される自由と個人尊重の気風、また「岩波文庫」に尊重される教養は、しかし、軍事的強権によって抑圧されてしまいました。日本は欧米列強の諸国に対抗し、アジアに覇権を唱える帝国主義・軍事国家へと豹変したのです。その結果、39年に第二次世界大戦に参入。西洋文化を敵の文化として徹底的に排斥、あるいは白眼視されるようになりました。例えば少年たちは、野球のストライクは「正球」、ボールを「悪球」、ドレミの音階は「ハニホヘトイロハ」に読み替えることを強制されたのです。

45年、日本の無条件降伏によってようやく戦火は終結。学童集団疎開で地方の寺などに分宿し、集団生活の厳しい毎日を送っていた小学生も、やっと親許に帰ることができました。楽友会10期位までの仲間は、この間の状況をよく覚えていることでしょう。せっかく東京に戻っても、そこは焦土と化しており、皆食料不足とノミ・シラミに悩まされて痩せてガリガリ、目ばかりギョロギョロさせていました。親は地方に食料の買い出しに出かけ、子は町中を走る進駐アメリカ軍のジープに寄ってたかり、「ギブーミー・チューインガム、チョコレート」と叫ぶのが常でした。

しかしそのような「嵐の中」でも「文化の護り」を「たからかに貫きたてし」人々がいたのです。中でも、日本交響楽団の活躍は特筆すべきものでした。楽友会の恩人でもある有馬大五郎氏(左をクリックして出るArchiveのページで「『楽友会』命名の由来と歴代会長」の項の注*1を参照)は、初代事務長としてナチスに追われたジョゼフ・ローゼンストックを庇護し、そのタクトで戦前・戦中にもベートーヴェン・チクルスと銘打った定期演奏会を続け、敗戦の翌月(9月)でさえもその楽の音を途絶えさせなかったのです。その日のメイン・ステージは、尾高尚忠氏が指揮する交響曲第3番「英雄」でした。もちろん大半の楽員はいまだ戦地から復員せず、資金もなく、聴衆もまばらで有馬先生のご苦労はいかばかりだったかと胸が痛みます。

敗戦後の日本はみじめでした。2年後の都心でさえ、不意の停電に悩まされました。日本交響楽団の年表によれば、47年1月の日比谷公会堂で、演奏会の途中で突然停電するというハプニングがあり、会場は闇に包まれました。しかしその時、シューマンのピアノ協奏曲を演奏していたレオニード・クロイツァー氏は少しもあわてず、そのまま演奏を続けたということです(詳しくは、林光氏の名文をお読みください。このページ下のLinksから同氏のホームページに飛ぶと、「光・通信」その24に「真っ暗がりでピアノ」が現れます)。

演奏者も立派ですが、こうした混乱期に、それを護り支えた人々の存在を忘れることはできません。良いものは良いとして、確固たる信念で新生日本の素地を築いていったのです。やがてその努力が奏功し、一時鳴りをひそめていた楽の音が、全国津々浦々に響きわたるようになりました。「音羽ゆりかご会」、「杉の子こども会」、安西愛子、松田トシ両氏による「歌のおばさん」、さらには「川田姉妹」による明るい歌声や合唱がヒットし、戦争で中断されていたNHK全国学校音楽コンクールも47年に再開されました。こうして戦後の学制改革で新たに誕生した全国各地の小・中・高校・大学で、合唱サークルや音楽愛好者のクラブを創設する機運が高まっていったのです。


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