追悼文集

亡き人の思い出と楽友会  

草野 千代子(18期)

今年は義父・草野剛が他界して15年目、夫・奏が他界して10年目を迎えます。この節目の時に原稿の依頼を頂き、よい機会をくださったことに感謝しつつ筆をとりました。

夫との出会いは、私が慶應義塾女子高校に入学し、楽友会に入部した40年余り前のことです。1学年上の夫と共に高校・大学の6年間、楽友会中心の学生生活を送りました。卒業して結婚、私は草野家の一員となりました。高校時代から草野の実家にはよく遊びに行ったので、義父との出会いもその頃でした。草野の家庭の暖かい雰囲気は、私にとって魅力溢れるものでした。家族のそれぞれが、心のこもった贈り物を携えて集まるクリスマスの楽しいひと時を忘れることができません。義兄の伴奏で歌うクリスマス・ソングは、各パート揃って音楽一家の一人に加わった喜びを感じたものです。結婚後初めてのクリスマス、義父からのプレゼントは、紺に赤―慶應カラーのスカーフでした。今も大切にしています。

その後、私たち夫婦は二人の子供に恵まれました。義父にとっては初孫でしたので、大変な可愛がりようでした。「お孫さんができてから、草野先生はやさしくなった」、と幼稚舎の先生方や父兄の方々から私たちの耳にも洩れ聞こえてきたことでした。学校では厳しい先生だった義父も、孫たちにとってはやさしい「渋谷のおじいちゃん」でした。

一方、夫は結婚後も歌を棄てがたくレッスンを続けていました。音楽を生業とした両親は、音楽の道に進むことに反対でしたが、夫の歌への情熱は冷めることがありませんでした。そんな夫をじっと見守り続けてくれた義父でもありました。退職後の義父は持病のリウマチに苦しみましたが、大勢の教え子の皆さんの暖かい励ましが何よりの薬だったように思います。賑やかな会食が好きだった義父が、そうした集まりに出かけて行く楽しそうな様子が思い出されます。人工関節を入れるための入院が義父の最後となってしまいましたが、自由な時間をもてた夫は献身的に看護にあたりました。義父は亡くなり、その年の暮れに義母もこの世を去りました。

その頃夫は歌の恩師から、勉強してきたドイツ・リートの発表を許され、コンサートの準備をしていました。そして翌年、念願の初リサイタルの運びとなったのでした。私たちは亡くなった両親にこの日を見てもらえなかったことを、どんなに悔やんだことでしょう。それからの5年を夫は歌いながら走りぬけ、5回目のリサイタルを前に病に倒れました。そして僅か1ヶ月後、両親の後を追うように帰らぬ人となってしまいました。

翌年、楽友三田会の新年会に出席した私は、合唱団へのお誘いをうけました。「君も歌えよ!」、というあの世からの夫の声に後押しされて「あなたの分も!」、と練習に参加するようになりました。私が悲しみに暮れたあの頃をやり過せたのも、楽友三田会の皆さんのおかげでした。

あれから10年がたちました。思えば、私の人生は音楽の糸に操られて、草野家の人々、楽友会の人々・・・・・さまざまな素晴らしい出会いの連続でした。これからも、楽友会の輪の中で歌いながら、幸せな時を重ねていければ、と願って止みません。

(08年11月19日掲載)


編者注
● 先週、岡田先生宅に伺い、いつものように「楽友」についての懐旧談に興じていたところ、たまたま当ホームページに掲載した「音楽活動に寄せて(Anthology中Archiveのページ)」の著者・草野剛先生について話がはずみました。すると奥様が「先生ご自身とご長男、それに楽友会員であったご三男・奏すすむ17期は早世されたものの、奏君と楽友会結婚された千代子夫人は三田会合唱団で活躍されており、また、ご二男の厚氏がテレビ10チャンネルの「サンデー・プロジェクト」のコメンテーターとして有名でいらっしゃる」こと等を教えてくださいました。そこで、早速ご寄稿をお願いした次第です。
☆ ちなみに草野厚氏は政治学者で、塾の総合政策学部教授であり、「癒しのパイプオルガンと政治(文春文庫)」他、多数の興味深い本をも上梓しておられます。テレビで拝見した風貌は、ご尊父・剛先生にそっくりです。
☆ なお、本文に挿入した草野ファミリーの写真は「草野先生ご夫妻のご結婚42周年」を記念し、86年8月に撮影されたものです。 (オザサ)

● 草野剛先生は、幼稚舎では確かに厳しい先生のお一人でしたが、じつは面白い音楽授業をなさっていたのです。私が4年生か5年生の頃です。「フェルマータはサルマータと覚えると忘れないぞ!」と。ある日、草野先生が黒板に「フェルマータの記号」を大きく描かれて、

「これは何の記号だ?」

私は得意げに手を高く上げて、

「サルマータ!」

草野先生は黒板に大きな「猿股」の絵を描いてしまいました。音楽室はひっくり返るような大爆笑!おそらくこの話はわれわれが最後だったと思います。私たちは男子だけの最後のクラスだったのです。(わかやま)