追悼文集

発チャン

川上 眞澄(9期

発チャン(海外発子さん、2006年7月31日逝去)の想い出はたくさんある。女子高1年から3年まで、私たちは同じクラスでした。大学は学部が違ったので別々だったけど、楽友会では女子高から大学まであがったのは二人だけでした。9期は男女とも大学から入部してきた人が多かった。その中でいつも陰になり日向になり、二人助けあって続けることができたのは、多分に発チャンの人柄のお陰だったと思う。


発チャンと筆者。左:大学2年(61年)の夏合宿の時、河原でハモリました。
右:大学3年(62年)時の合宿は清里。ホッと一息・休憩時間に。

大学の時、私達女子高楽友会時代の仲良しグループ4人で北海道を旅した時も、もちろん発チャンも一緒でした。彼女は会計係で私は外交係、楽しい旅行でした。いつも笑顔で皆を励ましてくれました。発チャンの笑顔はハッキリ覚えているけれど、怒った顔はあまり覚えていない。


上の2人と女子高楽友会同期の甘利(旧姓:鷹野)匡子さん、千葉(旧姓:増田)由美さんと一緒に。
上:大学1年(60年)の時の北海道旅行(札幌で)。
下:大学4年(63年)の時に目黒・聖アンセルモ教会で聖歌奉唱。

大学を卒業してからも4人はよく一緒に食事したり、お茶したりすることが多かった。それだけに、発チャンが亡くなった時、突然の訃報を聞かされたことはショックでした。しかも誰も彼女が癌の病におかされていたことを知らなかったのです。見事といえば見事だけど、親友の一人としては淋しいことこの上ない。

でもそれが発チャンの最後の生き様だったのでしょう。私がこんなことを書いているのを多分発チャンは知っていて笑っているのでしょ!怒らないでね。これも生きている者の浮世の義理なのですから・・・・・。

発チャンが卒業後の就職先に私の父と同じ会社を選んでくれたことで、私達のご縁は社会人になってからも更に深まりました。そして発チャンは、父の退職後もずっとその会社に残り、最後まで勤めあげた。

発チャン! 私は今でも自分の手帳を見ながら貴女の電話番号にかけたい衝動にかられることがあります。お互い親友として大事な存在であることには違いないのですね。貴女の素敵なアルトの歌声が聞こえてきそう・・・・・もう直接逢うことはできないけど、貴女のことは生涯忘れることはないと思うのです。

発チャン!私はもともと病気がちですが、何とか頑張って命のある限り生き抜きたいのです。それがせめてもの自分に課せられた使命だと思います。使命を果たして私も発チャンの世界に行く時まで待っていてください。発チャン、みんな貴女のことを懐かしく思い出しています。

駄文でごめんなさい。今日はこれで筆をおきます。

  


編者追伸:

皆を愛し、皆に愛された発チャン!

パーコ(私たちの年代の者は皆こう呼んでいた)は学校卒業後もずっと合唱を続けていました。最初は日本に初めてできた「バッハ合唱団」、次いでそこから分離独立し、楽友会仲間が中心となって創設した「東京スコラ・カントールム」という宗教音楽専門の合唱団で歌い続け、その歌の生涯を全うされたのです。


スコラ時代(1): Dresden近郊のSchirgiswaldeという町の教会での親睦会。
ヘンデルの「ハレルヤ」を当地の聖歌隊の人達と合唱しました(86年5月)。ことばは通じなくても、
歌と食事があればご機嫌!斎藤(5期)、杉原(11期)、浅海(13期)、小笹(4期)も写っています。

パーコの闘病と死は、川上さん(愛称モーリ)の追悼文にあるように、親友にさえ明かされない秘密でした。

合唱団の練習は毎週あり、それまであらゆる練習や行事に熱心に参加されていたパーコが、ある日を境にパタッと来られなくなったので仲間たちは皆不思議がり、その理由を知ろうとあがきました。が、何もハッキリしたことは分かりませんでした。

病気?そんなことは考えられません。いつも元気なパーコでした。誰かと喧嘩?もっと考えられないことです。ズバっと物事の本質をとらえ、直言されることはよくありましたが、決して人を傷つけないおおらかな性格で、皆の信望を一身に集める人柄だったからです。

ずっと独身の孝行娘で、母上といつもご一緒でしたから、家庭に不和が生じたとも考えられません。強いて考えれば、年をとられた母上が病に倒れ、その付添看護で練習に出られなくなったのだろう、と勘ぐるしかなかったのです。

時には親しい女声仲間にパーコの方から連絡があり、食事をしたり、小旅行の計画を楽しく語りあったりしたそうです。

そして05年後半、「東京スコラ・カントールム」がドイツから高名な指揮者を招き、初の古楽器とバロック唱法による本格的「メサイア」の全曲演奏会を企画した際には、ヒョコっと練習に現れたので皆ビックリしました。

それまでパーコの存在は優秀なアルトとしてばかりでなく、豊富な実務経験を生かした会計手腕で欠かせぬ、合唱団の中心的人物でしたから、皆が喜んだことはいうまでもありません。

少しもやつれた表情を見せなかったので、皆は<あー、パーコはやはりメサイアを歌いたいんだ。どんな事情があるにせよ、仲間の存在は忘れないんだ>と思ったものでした。しかし、それはほんの僅かな期間で、すぐに又「天(の)岩戸」にお隠くれになってしまったのです。

だから、いつまた「アーラお元気?」とか言いながら現れるかもしれない、と思っています。特に「メサイア」の季節になるとそう思います。ひょっとしたら、モーリが電話すると「マーごぶさたねー」なんて応えてくれるかもしれません。楽友会やスコラの仲間たちにとって、あのパーコのさわやかな笑顔と明るい笑い声は、いつまでも一緒なのです。


蛇足
@ 昔々のことですが:

私「君の名前、なんかおかしいね。それで、今までどこか海外したことはあるのかい?」

パーコ『もちろんよ、ハワイに行ったわよ』

私「なんで一人でハワイへ?」

パーコ『わたしねー、エルヴィスのファンだったの。だからね、そのコンサートを聞きにね、そうしたらウフフ・・・』

というわけで、まんざら男嫌いというわけでもなかったらしく:

A ある日、スコラの定期演奏会の後で:

私「今日の演奏会で、一番好かったことは?」

パーコ『そうねー、黒岩先生とのツーショット!』

私、ガクッとなりましたが、その時の超嬉しそうな写真を記念に掲げておきます。黒岩先生とは「楽友会50周年記念演奏会」でモツレクを指揮してくださった、「東京スコラ・カントールム」の常任指揮者・黒岩英臣氏のことです。


スコラ時代(2): 憧れの「黒岩先生とツーショット」第14回定期演奏会(86年10月)後の打ち上げ(目白)で。

B パーコの秘密をもう一つばらしちゃいます。実は「石持ち」でした。医学用語でいえば「結石症」。その痛みが晩年のパーコを苦しめました。「スコラ」は90年4月に「第1回ドイツ音楽研修旅行」を行いましたが、その症状が出たため残念ながら不参加となりました。それだけに4年後の「第2回ドイツ旅行(94年4月29日〜5月11日)」を随分楽しみにしていたようですが、またまたその痛みに悩み、おまけに腰痛まで出てガッカリしていました。しかし、結果的には無事2週間の旅を終えることができました。そして、ドイツの聖歌隊の人たちと一緒に「メサイア」の中の「ハレルヤ」を歌うこともできたのです(上の「追伸」記事中に挿入した写真がその時の光景です。最前列中央・指揮者の右手3人目です)。


東京スコラ・カントールム「第2回ドイツ旅行記念文集(95年2月発行)」より
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それがよほど嬉しかったのでしょう。あの筆不精で知られるパーコから旅行記が寄せられました。滅多になかったことなので、これも記念に掲げておきます。

C その記事中にパーコ自筆のスケッチも載っています。それはLufthansaの機内食です。パーコはそれが嬉しくてしょうがなかった、と言いました。変わった人ですね。ドイツではもっとおいしい料理をたくさん食べたのに・・・。

話は違うけれどもパーコお手製の「五目寿司」が忘れられません。「スコラ」の持ち寄りパーティーには、いつもその定番が山盛りで提供されていたのです。

私「パーコ、あの寿司、もう一度食わせてよ!」

(オザサ・4/26)