
「青春讃歌」に寄せて
小林 亜星

恩師岡田忠彦先生から、楽友会のために、何か書いてみないか?とのご依頼をいただいた時、私は感激で、全身が震える思いをいたしました。私たちは慶應高校楽友会の第0期生*1(創設期でしたので)で、そもそも私が作曲家を志すようになった遠因は、高校三年の時に、この楽友会のために「ホーム・ソング」なるつたない合唱曲を書かせていただき、それが塾高の文化祭で歌われ、作曲者の喜びを、ちょっぴり味あわせていただいたことにあります。あれから三十年以上もたって、生涯忘れられない思い出をもつ楽友会のために、再び曲を作らせていただく機会が得られるとは・・・・・全く夢のようで、しばらくは口もきけないほどでした。
然しどんな曲を作ったらいいのだろう?自問する私の脳裏に、日吉の懐かしい校舎が浮かんでまいりました。楽友会の練習を終わって帰る途中、日吉のグランドの向こうに沈んでいった真紅な夕陽。その光に照らされて、歩きながら歌う友の顔・顔。岡田先生を囲んでのクリスマス・パーティーで歌ったジングルベル。皆で八ヶ岳に行き、キャンプをしたはいいが、豪雨のためにテントが流されて、大変な目にあったこともあった。
あの頃の私たちは正に、夢の他には何もありませんでした。だからこそ青春だったんです。大人になって、愛が自分に義務を科し、その結果、ほとんどの人が生活者になっていきます。ひそかな絶望のうちに一生を送る、あの生活者になっていきます。そして人は様々なものを得るでしょう。だが過ぎ去った夢は、もう戻ってきてはくれません。そしてあの青春の日の夢こそが、この世で一番大切な宝物であったことに、年老いてから気づくのです。
そうです。青春の日の夢こそは、人生の全てだったのです。後輩の皆さん、青春の日の夢を、一生大切に持ち続けてください。
そう思った時、青春讃歌のメロディーも、詞も、同時に私の胸の中に浮かんでまいりました。
あの頃は、今よりもっと豊かな自然が、日吉の丘に溢れておりました。私が今まで大切に大切に、心の奥にしまい続けてきた、それらの情景や、友達の歌声が、一度に甦ってきて、あっという間にあの曲が生まれたのです。
第一回初演*2以来、青春讃歌は楽友会のレパートリーとして、何回となく歌いつがれてまいりました。私にとってこのことは、人生最高の喜びです。そして皆様への、岡田先生への感謝で、胸が一杯です。
今の豊かな世の中で、何もなくとも、夢だけがあった青春・・・・・といっても、わかっていただけないかもしれません。然し年をとった時に、夢こそが人生だったんだということに、皆気づくのです。青春よ永遠なれ、日吉の丘に響く歌声よ、いつまでも絶えることなかれ!
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