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校歌の使命

 

信時 潔

大阪に育ち、郷土にご縁の深い福沢先生を敬慕し来った私は、往年塾歌作曲の委嘱を受け、冨田先生の歌詞を読んだ時、人知れぬ感動を覚えた。

曲はほとんど一気にでき上がり、初めて三田の講堂に立って学生諸君の練習を聞いて一安心し、その後野球試合等で塾歌が漸次板についてくるのを喜んでいたが、百年祭の堂々たる合唱を聞いて、作曲者として我子の盛宴に連なる如き思いがした。

譜面で見る塾歌は歌詞とお玉杓子の行列だが、それを生かすのは歌者の心意気である。学窓の諸行事を初めとし、あるいは山路の独り歩きに、あるいは花々しい競技のクライマックスに、さまざまの感激と追憶をこめて歌われるうちに、歌曲は年輪を重ね、蘚苔を加えて同窓の心に生きるのである。

そうなれば歌も曲もただちに歌う者自身のものとなる。それこそ詩歌と音楽の使命理想であり、作者の念願この上ないよろこびである。 


塾歌について

 

富田 正文

「天にあふるる文明の」という旧塾歌は明治37年3月5日に発表されたもので、作詞者角田勤一郎は浩々歌客と号した塾員で、詩人として有名な人であった。作曲家金須嘉之進はヴァイオリンの名手として知られていたという。

日露戦争直前にできたもので、歳月を経るに従って時代に適さなくなり、昭和の初め頃から塾歌を改めようという声が強くなった。塾生の間から歌詞を募集したり、著名な詩人に作詞を頼んだりしたが、容易に決定しなかった。

たまたま昭和9年に福沢先生誕生百年記念の祝典歌「日本の誇り」を作詞した関係から、わたしに塾歌を作ってみるようにという話があり、辞退したが聴かれないので恐るおそる作って差し出したところ、これに信時さんがすばらしい作曲をしてくれた。

歌詞は塾の歴史の誇りと、学問の道の深遠と、塾の徽章の光輝とを、各節に歌い籠めたもので、幸いに採用されて昭和1641年1月に新塾歌として発表されたのである。


編集部注:

▼この2文は、現在は絶版の「慶応歌集/応援指導部編集兼発行/音楽之友社刊/82年」からの転載です。同書には塾歌の制定が昭和14年と記されています。が、これは誤りです。  

▼実際には作詞者の富田正文氏が本文中に明記されているとおり、昭和16(1941)年の110福沢先生誕生日に制定・発表されたものです。なお、信時潔(1887-1965)氏の文中にある「百年祭」とは「慶應義塾創立100周年記念式典(1958年11月)」のことです。富田氏の文中にある「福沢先生誕生100年記念」の「祝賀会1934」と混同されやすいので、念のため付記します。

原曲はイ長調のピアノ伴奏付き単声ユニゾン曲で、私たち愛用の混声4部合唱曲ハ長調は、信時氏の高弟・高田三郎氏による編曲です。


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