「ちょっと話があるんだが」と言いかけるSのことばを無視して、「まあ、メンデルスゾーンを聞けよ」と、私はティボーの演奏会のことなどを、べらべらとしゃべりながら、Sの話したい気持など全くかまわずに、ポータブルを持ち出して、それをかけた。
第一楽章が終わって、ふと気がつくと、Sはあお向きにねたまま聞いていたが、目に一杯涙を浮かべていた。「どうしたんだ」。うかつな私も、さすがにSの話と言うのが、何か容易ならぬ事なのだと気がついた。
Sは、前の年に父親を失って、それ以後、全く家の収入が絶えた為に、慶應の予科を途中で止めなくてはならなかったが、友人たちで相談して、遺族の生活を支えた残りの、僅かな不動産からのみ入りと、足りない分をみんなで合力したりして、その日までどうやら学校を続けて来たのだが、母親が人にだまされて、住んでゐる家まで人手に渡ってしまったので、もはや一家離散する外なく、学校も思い切る以外に道がなくなった。そういう話に来たのだった。Sと私とは、幼稚園から小学校、中学校、大学と一緒に来た、友人同士であった。
「どうしてもだめか」。
「うん、もうどうにもならない」。二人ともそのまま久しく無言で向き合っていた。
「もう一度かけてくれよ、それを」。私達は、もう一度メンデルスゾーンを聞いた。
Sはそれから苦しい生活を送った。そして三、四年の後、やうやく安定した職に就いたのだが、その時には、肺をおかされていた。私は招集を受けて、病床のSと、あわただしい別れをして出て来たが、翌年、私がまだ満洲にいる中に、Sは死んで了った。
少女の父親の出してくれた泡盛を飲みながら、私はやや感傷的になって、私がメンデルスゾーンを聞きたかった訳はこうだと、少女に、Sのことを語った。少女は涙をためて、私の話に耳を傾けていた。
私達は、四十余日にわたる輸送のために、殆ど全員が、半病人みたいになっていたが、その疲労しきった所を、次々にデング熱に犯された。私もやがてこれにかかって、ひどい熱を出した。だが私は責任上、命令受領に中隊本部まで行かなくてはならなかった。或日、一里半の道を、夢のような気持で乗馬で行ってみると、作業命令が急に変わって、本部は飛行場近くに移動していた。はじめての道を迷いまよいして本部に着き、命令を書き取った時には、私は意地にも動けない程に、疲れ切っていた。私は馬の背に、はい上る様にして乗って、宿舎の方に向かった。もうとっぷりと暮れていた。真暗な夜道であった。月がない上に、すっかり曇っているので、ほんとうに、真の暗であった。気を張り詰めてはいたものの、ともすれば睡魔に抗し得ずに、ガクリとしては、その都度びっくりして目をあけた。その度に私は自分の馬が、しっかりした足取りで歩いていることを知っては、くびを叩いてやるのだった。
その中に、私の耳に、じつにはっきりと、メンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルトが聞こえて来た。あの美しい第一楽章の旋律である。ああ、Sが又レコードをかけているな。こんなことを私は考えていた。ヴァイオリンの弦の、あの典雅な顫動を、私はまざまざと聞き続けていた。
馬のいななきに、私はハッとして我にかえった。馬は歩みをとめていた。私はいつの間にか、馬の背にうつ伏せになったまま、深い眠りに落ちていた。それでもさすがに手綱をはなさず、たてがみにしがみついていた。いったいどこに来たのか、訳らなかった。ただ、どうも民家の庭先のような感じであった。
馬のけはいを感じたと見えて、ガタリと戸をあける音がして、人が出て来た。やはり、人家の庭にはいっていたのだ。
「ここはどこですか」 私は声をかけた。
「ああ、分隊長さん」 聞き覚えのある少女の声であった。馬は高熱の私をのせたまま、間違いなく宿舎まで帰って来たのだ。
「あんまり帰りがおそいので、本部に泊まったんだと思って、戸を閉めて了って、今みんなでレコードをかけていたんです。分隊長の好きな、例のメンデルスゾーンを」
あとから出て来た兵の一人がこう言いながら、手綱をとって、厩の方に去った。私は少女の肩に支えられながら、はいずるように中にはいった。
私のデング熱も下火になった頃、命令が出て、私達は本体に合流した。それからまもなく連日の烈しい爆撃がはじまった。私達は毎日まいにち珊瑚礁の地磐を、一寸二寸と掘り進めて行ったが、時々は、兵達と、少女のことやレコードのことを語り合っていた。それから、少女が一日に一度は必ず奏でたギターの曲を、あれこれと口ずさんだりした。少女は秋になって沖縄本島の女学校へ帰って行った筈であった。だから秋になって那覇が空襲で全滅した時に、或いは死んで了ったかもしれなかった。
少女はしかし生きていた。秋になって、連日の強風で、那覇への船が一日のばしに出航しないでいる中に、那覇がひどくやられてしまって、もはや学校へは帰れなくなっていた。少女は学校をあきらめて、そのままこっちに残っているとの事だった。私達は港に使いに行った兵の一人から、少女の消息を聞いて祝福しあった。
少女が死んだ事は、沖縄失陥の後、私が少女の家を去ってから、殆ど一年に近くなった頃、所用で町に出た時に、挨拶に立寄って、其時はじめて父親から聞いた。流れ玉の様に飛んで来た敵弾が、ミシンを踏んでいた少女を即死させて、天井から屋根を抜いたと言う事だった。まだそのままになっている天井の破れから屋根の穴が見えて、真青な空がのぞいていた。少女のギターはそのまま壁にかかっていたが持ち主が撃たれた時に、破片を受けて、胴にまるい穴があいていた。
私をのせて、少女の家まで無事に運んでくれた馬は、終戦後の糧秣窮乏のどん底に、中隊命令によって殺され、私達はその肉を食べてしまった。そして私は、無事に、召集以来、足かけ六年目に、東京に帰って来た。
私の僅少なレコードのコレクションは、殆ど戦災で焼けていた。避難先へ辿り着いた其夜、残ったほんの僅かなレコードを、押入れからとり出した私は、その一やまの一番上に、メンデルスゾーンのアルバムを見出した。だが、いろいろな荷物の下に積みこまれていたこのレコードは、惜しい事に、その第一枚目がピンと半径だけ裂けていた。カタッカタッと言う不愉快な音のまじるのを我慢して、私は家に帰りついた其夜、真先にこのレコードをかけた。アパートで、Sと此のレコードをかけて以来、長いながい月日が過ぎていた。けれども、すべての事が、つい昨日の様に、まざまざと思い出されるのであった。私は、嘗てSがした様に、あお向きにねながら此曲を聞いていた。涙があふれ出て来るのを、私はとどめる事が出来なかった。
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