
「青春讃歌」あれこれ
小林 亜星(会友)
この度私の作品「青春讃歌」が、楽友会の同期生・藤本祐三君のお骨折りで、立派な楽譜として出版されました。
先日のOB会で、楽友会の皆様にこの楽譜を寄贈させていただきましたが、その折、恩師・岡田忠彦先生の指揮で、久しぶりに後輩の方々とこの曲を合唱し、実に感無量でした。
この曲は、1975年の9月に私たち会友同期生が、新宿の東京飯店に岡田忠彦先生や当時現役だった後輩を何人かお招きして会を催した際、先生から「後輩と交流を深めるのに役立つような曲を作ってみないか?」とのご提案があって生まれたものです。そこで光栄にも私に作詞作曲のご指名があり、私は即座に「やらしてください」とご返事いたしました。
当時は、激しい学園紛争の嵐が吹き荒れてからまだ間もない頃で、先輩とのあたたかい交流を通じて、若い人達に平和で心豊かな青春をエンジョイしてもらいたい、という切実な気持ちが私たちにはありました。
私たちが慶應高校に、国立音大作曲科を卒業されたばかりのフレッシュマン岡田先生をお迎えして、楽友会の前身である音楽愛好会を発足させたのは、戦後間もない1948年のことでした。わが国は敗戦の痛手からまだまだ立ち直っておらず、皆が貧しかった時代です。しかしそれだけに、美しいものや精神的なものへの憧れは強かったような気がします。
私はこの曲を作るにあたってその頃を思い出してみました。当時にくらべ物質的に豊かになった分だけ、何か心が貧しくなったような気がしていたのです。もう一度原点に戻って、輝かしかった心の草原、あの青春の素直さを取戻したいと思いました。そしてタイトルは「青春讃歌」にしようと決心しました。
私は普通部1年(終戦の年)の頃からバンドをやったり、そうかと思えば音楽愛好会に入れてもらって、第九やモツレクを歌ったり、はたまた大学時代は、同じ愛好会の葉山雅章君らとジャズコンボを作って、夜毎進駐軍のキャンプでビブラフォンを弾いたりと、今でこそクロスオーバ―など珍しくありませんが、当時は気の多いコウモリみたいな奴でした。
そんなこんなで、いわゆる作曲家といわれるようになってからアニメ、CM、演歌、ドラマ音楽と、いろいろ手を出してはおりましたが、淋しいことに43歳のその年迄、人様から依頼された曲を唯作り続ける毎日で、自分が作りたいと思う曲を作ったことがなかったのです。おまけに前年から始まったTBSテレビの連続ドラマ「寺内貫太郎一家(向田邦子作)」に、115キロの巨体を買われて主演するハメになってしまい、何とも収拾のつかない生活を送っておりました。
そんな私にとって岡田先生のご提案は大変な啓示でした。私は夢中になって、初めて自分の作りたい詞を作り、曲を作りあげました。ところで、丘の上に花は咲き、森陰に小鳥鳴く・・・なんて詞は、恥ずかしくて現代人には書けなくなってしまいましたが、私はわざとそれを書きました。恥ずかしさが青春なんだという思いをこめて・・・。
こうして私の「青春讃歌」は1975年11月に完成し、翌月11日(木)、芝の郵便貯金ホールで、楽友会21期生たちの合唱と新日本交響楽団の演奏、岡田先生の指揮で初演されました。当日のメイン・プログラムであるハイドンのパオケン・メッセの次に、私の作曲した曲を聴かせて頂いた時の嬉しさは、今でも忘れられません。その後21年間も次々と、世代を越えて歌い継がれていることに深く感謝し、この曲がいつ迄も、我々の青春の絆であり続けることを祈っております。
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