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歴代幹事長語録

巻 頭 言

楠田 久泰(2期・第2代)
この「楽友」を読まれる方々の内には、おそらく新しい会員諸君もいられるでせう。その人たちのために、というよりもその人たちと一緒に僕らの会について考えてみることも、僕らみんなにとって決して無意味なことではありますまい。

一体僕がどうしてこの会に入ったのか、ということはこの会を「僕の会」と呼ぶようになったのか。それはどういうことなのか。そしてそのことが、僕に何かの義務なり責任なりを求めるのだろうか。これらが問題となると思われます。

最初の問題については今更どうのこうのということもないでしょう。コーラスというものは―その最も広い意味において―楽しいものです。ところでその楽しさは一人では得られない。仲間がなくてはなりません。楽友会の内容は要するにその仲間の総和なのです。その仲間には僕も入っている。それでこの仲間は僕のもの、僕の仲間であり、僕の会なのです。

楽友会は決して僕と離れた別の所にあるものではない。というよりは僕のいない楽友会などというものは全く意味のないものです。会に入るということは僕に一つの場所が与えられたことになる。しかし、それと全く同時に、僕もその場所の一部になっているのです。

それでこの場所での僕の自由と義務は決して二律背反ではなくて、この場所で僕がよりよく、より自由に生きるためには、この場所を可能性として認め、それに沿って行動しなければならない。会を辞めない限りその会が自分を包含している以上、この場所の中にありながら、それから離れようとすること、それを否定しようとすることは、全く同時に自分から離れること、自分を否定することになるのです。

ここで音楽愛好会と楽友会との関係について触れておきたいと思います。

一体楽友会はどういう必要からできたのかというと、これは僕にいわせれば、おそらく高校卒業後もコーラスをしたい、あるいは高校生以上の自分としてもっとコーラスをしたい、またその3年間の仲間と一所の場所を続けていきたいという気持ち、それと愛好会のもつ種々の制約―例へば量的、技術的な及び文連の一団体としてのそれ―から自由になることの有効性、これらによっているのです。

楽友会の対外面での、愛好会との性格的な相違及びそれからもたらされる社会的義務、目的については楽友(新)2号に伴さんが書いていられます。それはもちろん正しくないことはないでせう。しかしその前に一度、僕ら自身をその社会的関連から振返って見ることも無益なことではありますまい。

僕ら一人ひとりは、僕らがそれを好もうと好むまいと選ばれた人間なのです。僕らは既に義務教育を終えて、しかも大部分は最高学府に進もうとしている。そういうことが許されているのは、日本人の中ではほんの僅かなのだということ、そしてその自覚が、僕らにただ集まって楽しむことだけをふさわしいものとするだろうかということ、それをもう一度よく考えてみたいと思います。

それに僕らは若いのです。それが僕らに要求しているのが、選ばれた人としてのより高い知性―青白い観念としてだけでなく、ある場合には熱情となり得るようなそれ―であるとしたら、社会は楽友会を通じて僕らにそれを求めているはずです。

そしてそこからも楽友会の性格が規定されてきます。この立場から、僕らは与えられたと同時に僕らがつくったこの場所から出来得る限り吸収しなければならない。そしてまた、そうしなければこの場所で十分に楽しんだともいえないのです。

そのためには、僕らが楽友会員であることが、僕ら一人ひとりの真の自発性に基づいていなければならないのであって、そこにあるのが愛好会や更にはコーラスに対する単なる執着だけであっては絶対にならないのです。これは同じことのようにも思われますが、僕は根本的に異質なものだと思う。分かっていただける方も多いと思います。楽友会は僕らにとって、それよりももっと生産的なものであるべきなのです。

僕は楽友会員として、これこそ僕らが現在むろん未来への可能性を含めた意味であるべきものでなければならないと思っています。それに、僕らにはこれ以外すべきことも、また、できることもないのです。

「楽友」第4号54年5月)


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