☆朝礼:「児童戦時訓」
先生による4項の訓示朗読の後に、児童一同が次の「かくご」を復唱した。

東一師の「児童手帳の一部」
@ 私たちは大日本の少国民です。大東亜戦争にかならず勝ちます。
A 私たちは軍国の子どもです。心からの感謝をもって、兵隊さんのご恩にむくいます。
B 私たちは戦ってゐる国の子どもです。お国の力を私たちの力でつよくします。
C 私たちは○○(学校名)の子どもです。何をするにも、捨て身の軆當りでいきます。 |
☆食前・食後:「食禮の詞(ことば)」
@ ワガオオキミ(大君=天皇)ノミメグミヲ コノオショクジ(食事)ニイタダイテ ツヨイチカラ(力)ヲヤシナヒマス
A アヤニカシコ(畏)キ スメラ(天皇)ミコト(命)ノミメグミ(御恵)ヲ コノショクモツ(食物)ニイタダ(戴)キテ ミタミ(御民)ワレ(吾)トミ(身)ニタマ(魂)ニ ツヨ(強)キチカラ(力)ヲヤシナ(養)ハン |
☆就寝前:「児童五省」
@ ミクニ(皇国)ノコ(子)トシテ ハ(恥)ヂルコトハナカッタカ
A ヘイタイ(兵隊)サンニ モウシワケ(申譯)ノナイコトハナカッタカ
B オヤ(親)ニ シンパイ(心配)ヲカケルコトハナカッタカ
C カラダ(軆)ノグアイ(具合)ヲ ソコナフコトハナカッタカ
D ケフ(今日)ノツトメニ オコタ(怠)ルコトハナカッタカ |
【東京第一師範学校男子部付属国民学校「児童手帳(44年9月交付)」より】
☆随時:「望楠学寮かぞへ歌」(上記校の一次疎開先「浅間温泉」で作られたもの。「望楠(ぼうなん)」とは戦時中「忠君愛国」の象徴的存在として崇めた楠木正成・正行(まさつら)親子の、有名な「桜井の別れ」の故事にちなんで名づけられた、同校疎開施設の総称である)。
一つとや 日の出といっしょに とび起きて 乾布摩擦だ 元気よく
二つとや ふたたび会わぬぞ 父母に このたたかいに 勝つまでは
三つとや みんなで頂く 朝ごはん 今日もいくさだ 頑張ろう
四つとや 四つの学寮 望楠寮 心を一つに 暮らしませう
五つとや いつでも温泉 わいてます からだを丈夫に きたへませう
六つとや むかふのお山に 雪がふる 子どもは風の子 とびまわる
七つとや ななたび生まれて 米英を ほろぼす覚悟で はげみませう
八つとや やさしい先生 寮母さん 何からなにまで ありがとう
九つとや 心は青空 ほがらかに 勝ちぬく子どもは 泣きませぬ
十とや 父さん母さんごきげんよう 浅間の子どもになりました |
☆番外:「屁の歌」(なぜか皆よく放屁した。その度にこれを唱えて笑いあった。それは緊張をほぐす、唯一の慰めだったかもしれぬ)。
第一歌: 屁にはブースーピーの3種あり。ブーは音高かけれど匂いなし。
スーは音無しけれど匂い濃し。ピーは少々水気あり! |
●授業や自由時間はほとんどなく、教員や寮母は食料調達に奔走し、最年少児童すら山から薪を運んだり、近隣の農作業を手伝ったりするなど、勤労奉仕に明け暮れた。遊ぼうにも遊具はなく、少しでも空いた時間があれば飢えをしのぐためタニシ、イナゴ、鼠、蛙、蛇等を捕まえて調理した。しかしその大半は上級生の口に入った。力の弱い下級生が食べることができたのは桑の実、野イチゴ、アケビ、山菜など、その場ですぐ口に入れられる植物だけだった。
●こうした生活は45年月8月の終戦と共に終わる、はずであった。が、誰もすぐには帰京できなかった。交通網は寸断され、多くの校舎や住居は甚大な被害をこうむっていた。家族の死亡や離散によって連絡がとれず、帰京しても行き場のない児童がたくさんいたのだ。
それでも大半は11月末頃までに帰京した。が、引取人のない孤児や障害児等の「引き揚げ」が完了したのは、49年5月28日である。それも全てが円満に帰宅できたわけではない。上野の地下道をはじめ、巷には浮浪児があふれた。例によって公的資料はないが、新聞資料などを総合すると、そのほとんどは10歳前後の児童で、約4万人が集団疎開中に戦災孤児となり、その大半が浮浪児になったと推定されている【前掲「学童疎開の記録(1)」323ページ】。
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そして今
それから65年。戦争や疎開の記憶は日々に遠のく。だがそれ等は忘れたいけれども忘れ得ぬ苦いしこりとして、心の底に澱(オリ)のように溜まっている。そしてある時、例えば公園で無心に遊ぶ子どもたちの姿を見ている時、あるいは戦争文学や映画や音楽に接した時、ふと大粒の涙になって浮かんでくる。
●楽友会のシニアOBが集うOSFという男声合唱団で、井上陽水の「少年時代」を練習していた時も、そうだった(以下はその歌詞の一部)。
戦争や疎開といったことばの一文字もないこの歌詞、そしてごく自然な抑揚のメローディーに万感がこもる。そう感じた時、突然涙がこみあげてきた。これが歌われた同名映画の原作【前掲「長い道」】は、縁故疎開した親友の兄貴(故・柏原兵三氏)が、実体験をもとに書き著した芥川賞受賞作品であった。
●その晩帰宅したら、偶然にもOSF仲間の島田孝克君(6期)から、疎開の思い出を綴った一文が届いていた。それを一読した途端、ある考えが閃いた<そうだ、みんなの戦争・疎開体験を聞いておこう!>。
島田君は終戦時、幼稚舎の1年生だった。そうすると楽友会1期生は6年生だったはず。各期の人々の体験談を知れば、学年別・学校別のさまざまな疎開の実態、そしてそれを各人がどう受けとめ、どう生きてきたかが分かってくる。それによって、自分だけの幼く、被害者意識で埋もれた戦争や疎開の記憶やトラウマを修正し、克服できるかもしれないと思ったのである。
●その願いに応じて寄せられた体験記でこの特集「疎開」を編んだ。当ホームページには、既にAnthology⇒記念文集に池田弥三郎(「あるレコードの記録」)、毛利武彦(「苦しかった日の思い出」)両先生の兵隊体験、それに「楽友会初代会長・有馬大五郎先生の略年譜」に同先生の戦時体験、さらには演説館(FORUM)の「N先生」や「祖師・成田為三先生と『浜辺の歌』」に成田・岡田忠彦両先生の戦時体験も載っている。ぜひ皆様にこれらを味読していただきたい。
そして、その感想記でも独自の体験でも随筆でも何でも結構。幅広い年代の、さまざまな戦争への思いを、どんどん寄せて頂けることを、祈るような気持でお待ちする。(2010年8月10日・ポツダム宣言受諾記念日)
参考文献
重要な参考資料は本文中に記したが、本文中に掲載しきれなかった良書、特に多くの実録写真を掲載してある書籍は次の通りである。
1. <グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録(石川光陽著/森田写真事務所編/岩波書店/92年刊:戦前からカメラマンとして警視庁に奉職した著者が、職務上撮影し得た生々しい、時には酸鼻を極める写真の数々が収録されている)

炎上する銀座鳩居堂付近

地下鉄 銀座駅昇降口へ救助隊
2. 【図説】戦争の中の子どもたち(山中恒著/河出書房新社/89年刊)
3. 【写説】戦時下の子どもたち(太平洋戦争研究会編/ビジネス社/06年刊)
4. 子どもたちの8月15日(岩波新書編集部編/岩波書店/05年刊:写真はないが、33名のさまざまなジャンルで活躍する著名人が、子ども時代に迎えた終戦時の体験記集)