記念資料集(特集「学童疎開」)

幸せだった疎開


国民学校5年生 宮代進五(2期)

その家は尾道の旧家で、駅から北に向かって1時間程歩いたところにありました。その家の爺さんと父が若い頃からの親友と言うこともあり、当時身体が弱く、何かというと熱を出し、お腹をこわし、寝小便を垂れ、その上泣き虫だった私を、集団疎開は無理だとの親の判断で、ここに預かって貰う事にしたようです。国民学校4年の8月、夏休みももう終わる頃でした。

そこの一家は、以前に何度か我が家に遊びに来たこともあって、顔見知りでしたから、そんなに不安があったわけではありませんでした。が、送ってきた母が、一晩だけ泊まって帰ってしまった後の寂しさは今でも覚えています。

それを察知した爺さんが、孫娘に、私をお堂に連れて行くように言いました。何れ仲間に入らざるを得ない近所の子供たちと遊ぶよう仕掛けたのです。

家から歩いてすぐの所に小さな広場があって、そこに小さな高床式のお堂があり、昔は何かが祀ってあったのでしょうが、その頃は広場もお堂も子供の遊び場になっていて、そこへ行けば必ず子供たちの誰かに会える場所でした。

「進五お兄ちゃん、はよ(早く)行こ」と上の孫娘。「このじょりゅう(草履)をひゃあて(履いて)行け」と言いながら、爺さんが藁草履を出しきました。この辺りの人はみんな藁草履を履くのが普通で、靴を履くのは医者とお巡りさんと学校の先生位と知りました。

お堂に行くと、果たして数人の子供たちが遊んでいました。子供たちは就学前の子から高等科の子まで一緒に遊ぶのです。孫娘がそこに居る子供たちに私を紹介し、「どっから来たんなら?年は?なみゃあ(名前)は?」と一通りの人定尋問を終えた頃には、「疎開人が来たど」と誰かが触れ回ったらしく、続々と子供たちが、(いや、親も居ましたね)集まってきました。そして、ごく小さい男の子が「ミヤチロ!仲良うしょうぜ」と言ったので、それ以降私の綽名は「ミヤチロ」になってしまいました。それからこの辺りの独特の色々な遊びを教えてもらい、楽しいのなんのって時間の経つのを忘れて遊びました。

学校が始まれば、お堂は集団登校の集合場所でもありました。学校までは川沿いの道を歩いて40〜50分程の距離です。初めての登校日のことでした。藁草履など履いた経験のない私にとって藁の鼻緒は過酷でした。

遊んでいるときは痛ければ裸足になれば良かったのですが、登校途中ではそうはいきません。いくらも歩かないうちに、鼻緒に擦れた指の又から血が滲みました。それを見た同級の男の子が、川に入って自分の手拭を濡らし、血を拭いて、その上、それを裂いて包帯代わりに指に巻いてくれました。

生徒はみんな手拭を腰に下げていましたが、その当時は貴重品です。家に帰ってその話をすると、早速、婆さんが新しい手拭と、一寸した物を持って御礼に行ったらしいのです。翌日の登校の時に、その子は特徴のくりくりした目を曇らせて「余計な事せられな(しないで下さい)言うといてくれ」とぶっきら棒に言いました。

学校では私の成績は抜群でした。理由は簡単で、大人は兵隊にとられ、農家は小学生でも大きな労働力だったのです。だから、学校に行けない生徒が少なくなかった。そのため、授業の進行速度は極端に遅く、場合によっては飛ばして先に進んでしまうことさえありました。農繁期ともなれば、学校から農家へ農作業の手伝いに行きます。秋は稲刈り・脱穀・田起し、冬は麦踏、初夏は麦刈り・田造り・田植え、夏は田の草取り、等々です。戦時中とはいえ、横浜ではそんなことはありません。ですから学力の差は凄まじいものがあったのです。

農家への勤労奉仕には私も参加しました。しかし、初めての農作業は辛う御座いました。鎌や鍬は手に豆を作り血を滲ませました。田圃の蛭(ひる)は足に吸い付きました。その度に救護班の6年生のお姉さんが手当てをしてくれました。包帯といっても浴衣の古布かオムツの古いのか判りませんが、それを巻いてくれるのです。蛭は地元の子は自分で始末しますが、私には出来ないのでやってもらいました。「ミヤチロの手やわいケーノー(柔らかいからねー)、後で包帯替えてやるケー(から)又おいで」と、とても優しくしてもらいました。

一つだけクラスの笑いものになったのは弁当です。爺さんは子供たちに贅沢はさせない主義でした。弁当の半分はご飯でしたが、残りの半分は薩摩芋でした。おかずは普通に入っていました。農家の子供の弁当は白米がびっしりで、おかずは梅干1個か沢庵2・3枚です。それで「イモベン」と言ってからかわれたのです。そしておかずは取られました。しかし、いつの頃でしたか、ある日、ガキ大将が「イモベン」を持って来たのです。「イモベンうめえどー」と叫び、それを平らげました。それからというものは「イモベン」が一人増え二人増え、そして誰も笑わなくなりました。

爺さんは日頃節約を旨としておりましたが、正月は贅の限りを尽くしました。暮れの餅つきは一日がかりです。朝早くから、近所の人や知り合いの人が大勢集まり、いくつもの臼で餅つきをします。どのくらいついたか見当がつきません。ついた餅は丸餅にします。普通の餅・粳餅・粟餅・餡餅などを作ります。つきあがると、手伝に来た大勢の人たちに正月用に持って帰ってもらいます。中には見たことも無い人も居ます。「ありゃーダーニャ(あれは誰ですか)?」「知らんで。まあええがな」とおおらかなものです。それでも自家用に残った餅はおかもちに入れられ何段にも積まれました。

正月の料理が凄いのですが、とりわけお雑煮は豪華でした。大きなお椀に、お餅は普通のお餅と粳餅・粟餅の三段重ね。鰤・海老・蒲鉾(今もある某有名店の物)が絶対欠かせない物として盛られているのです。料理は三段重ねの重箱が二つも三つもあったように思います。中身は戦時中とは思えない、いえ、今出されても超豪華と言えるような物でした。

終戦の年の五月、母から手紙で横浜の家が空襲で丸焼けになったとの知らせがありました。家族はみんな無事であるとも書かれていました。でも凄いショックで落ち込みました。それを見た婆さんが「一寸こっちへケー(来い)」と、自分の部屋に連れて行き「内緒やぞ」と言ってお菓子をくれて、やさしく慰めてくれました。

そんな長閑な尾道でも空襲はありました。でも、向島の造船所を標的にした艦載機による機銃掃射が主だったので、田圃の多い田舎の方は警報のサイレンは鳴るものの、あまり影響はありませんでした。

疎開と言うと、多くの方が、大変惨めな思いをされたとお聞きしていますが、そういう経験をされた方々には誠に申し訳ないのですが、私は、尾道の色々な方の人情に支えられ、優しさに救われ、蚤・虱も知らず、虐めにも遭わず、1年4ヶ月の幸せな疎開生活を終えて横浜に帰ってきました。

帰って見ると、家は焼かれ、焼け残ったお蔵に家族が住んでいました。食料はなく、何時もお腹を空かしていました。しかし、尾道での疎開生活がどんなに幸せであっても、腹が減っても、家がなくても、親兄弟と一緒に生活するということが、もっと幸せなのだということをつくづく思ったものです。(2010年7月23日)


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