● 終戦と墨塗教科書
太平洋戦争の終戦を迎えたのは岩手県の山奥御返地村で、夏休みの最中であった。8月15日の朝、玉音放送があるというので昼ごろだったと思うが、ラジオの前に正座して座っていた。玉音放送が始まると、戦争は終わったという天皇陛下の声が、途切れ途切れに聞こえた。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・」という声だけは今でも覚えている。皆は「ワ〜」と泣いた。とにかく悲しかった。そしてその後皆で、墨汁で半紙に「忍耐」という字を書いたことも覚えている。断片的だが以上が終戦の思い出である。そして次の日から今までのように川に泳ぎに行ったり、魚を獲ったりして遊んだ。子供の心は現金なものだ。
9月に入り台風があり、町と村の境にある橋が流されてしまった。おかげでバスが来なくなり、離れ小島のような生活を余儀なくされた。村民はやむなく川底まで降り、また登るなどして町まで出かけた。ところがそこへ進駐軍が来るという話が伝わってきた。橋が無いのにどうして。やはり米軍はジープでやってきた。「こりゃすげいや」ということになり、皆興奮した。子供たちは窓を細く開け、それまで「鬼畜米英」と吹き込まれていた米兵たちを恐る恐る見た。米軍の若い兵士が口笛を吹き、「ヘーイ」と言って過ぎ去った。橋げたの落ちた川の傍に居た村民の話では、車の前に付いているロープを木に巻きつけ、ウインチで引っ張るようにして登ったという。この一件で日本が負けたことを実感した。
秋の新学期が始まっても、新しい教科書がなかった。つまり戦時下の教科書しかないので、文部省からの指示で「戦時下の教科書のなかで不適切な文字を消して使用せよ」という通達があり、やむを得ず不適切な文章を墨で消す作業を行った。もちろん墨を塗るのは我々生徒である。これがいわゆる「墨塗教科書」だ。この時は「もう負けたのだから仕方が無いんだ」という気持ちになっていた。
しかしこの「墨塗教科書」の一件は、後になって凄いことだなと思うようになった。なぜって、それまで教科書として、指導書として使用してきた本に、これは間違いだと否定の墨塗りをさせるのだから。「じゃ、何を信ずればよいの」と言う説明は無いままに。そしてその否定行為を、子供たち自らの手でその作業を行うのだから。墨塗りの指示を出す先生も腑抜けの状態で、ぼや〜っとしている。先生だって消された字の代わりに入れるべき字が思いつかない。先生も辛かったと思う。

墨塗教科書
この墨塗りは、米軍が指示したのか知らない。だが予想以上の効果を挙げたのではないだろうか。子供たち自らの手で、過去の教育を否定させたのだから。
子供たちが、物事の善悪、価値判断を大人たちに聞いても、自分たちの生活に追われている大人達にとって返事も出来なかったのではないか。
それから以降物事の判断は、私が経験したことを最優先するようになったとしても不思議ではない。自分の行為が、経験が価値判断の基準のようなものになった。さらに親、兄弟と身の回りに居る人たちの話が価値判断の基準になっていった。私の好奇心の強さは、この時醸成されたのかもしれない。
しかし一個人の経験による判断や周囲の人の経験や判断なんて貴重であるかわり微々たるものである。そこで他人の経験を知るために旅行記や体験記などを貪るように読むようになった。今でも数冊の本が残っている。火野葦平著「アメリカ探訪記」、伊藤整著「ヨーロッパの旅とアメリカの生活」、有吉佐和子「中国レポート」、大宅壮一著「世界の裏街道を行く」、木村尚三郎著「西欧の顔・日本の心」などの作家や報道特派員が書いたものなど、昭和30年代は海外旅行記のブームであった。
中でも私の心を捉えたのが、小田実著「何でも見てやろう」で、同年輩ということもあり共感を得た。現在でも新本として売られているロングセラー本である。50年ぶりに読んでみて、やはり小田実も私と同じ「墨塗教科書」の体験者、被害者ではないか思う。彼はフルブライト留学生としてハーバード大学に入学している。「何でも見てやろう」を書いた根拠は好奇心の強い著者が、アメリカに叩きのめされた日本人として、そのアメリカの実態を抉ってやれと、もう一つは価値判断の基準を捜し求める旅ではなかったと思う。
墨塗教科書問題は価値判断の基準を崩壊させてしまったが、プラス面としては過去との断絶、そして新しい価値観の創造を容易にさせたという利点があるといえるのではないかと思う。(2010年6月16日)