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楽友会と私(師・友・麻雀)

 

長谷川洋也(1期)


慶應義塾は実学を教える、と云う。普通部の頃、国語教師コチン(佐々木先生)はネクタイの買い方を教えてくれた。曰く、選んではいけないパッと気に入ったものを買え、と。

高校に入ると岡田先生は何と教会での結婚式の歩き方を教えた、一人ずつ実演させて。

後年それが喜びを生徒と共に分かちあっていたのだと理解できた、そう云えば夫人も「友達の(主人の)中で私の主人が一番若いんですよ」とおっしゃっていたっけ。

音楽の師としての岡田先生は我々に良い音楽を次々と与えてくれた、どんなマジックを使ったのか我々はクルト・ヴェス指揮のN響でベートーベンの「ミサ・ソレムニス」、バッハの「マタイ受難曲」と連続出演させていただいた。

片や楽友会においても、ハイドン、モーツァルト等未熟な我々を導いてくださった、先生の指導法は主として与えるだけ、能書きを云って考えを押し付けないと云うもの、自然各自が自分で勉強する様になる、伴有雄、若杉弘が現れたのもこの指導法が大いに影響したものと思う。

私も大学生になる時声楽の勉強をしようと思い、先生にお願いして国立音大の井上悌一先生に弟子入りをした。

井上先生は永く声楽科の主任教授をされ、今は引退されているが、今考えてみると弟子入りを許可したものの驚かれたと思う、声楽科上級生のレッスンが終わると次に現れるのがコールユーブンゲンなのだから。

でも石の上にも三年とか、毎日曜日通い続け、教則本もコンコーネからアプトになる頃にはドイツリードを歌わせてもらった、結局ブラームス迄五年間お世話になった。

当時の楽友会はまさに創生期、岡田先生は伴有雄、筑紫武晴と才能豊かな二人にそれぞれ男声、女声を担当させ、運営面は楠田、松延等に任せると云う形で楽友会を前進させて行った。

当時高校生にはザザ(佐々木)、オキヨ(井上清)、小笹等優秀なメンバーがいたが、若杉があんな大指揮者になろうとは・・・・・・。

若杉の思い出は多い、高校の音楽教員室で打ち合わせをしていると、隅の方でモーツァルトのオペラを始めてしまう、序曲から始まって順々に、口三味線ならぬ口オケ、口ソプラノでもう止まらない、あげく踊りの場面だと云って踊りだす、よく伴に叱られていた。

フォーレのレクイエムを最初に演奏した時、若杉はバリトンソロをする事になった、ソプラノソロの村瀬和子が今も耳に残る名唱を聴かせたのに対して若杉の奴、最高音のDの音で時々ひっくり返るのだ、しようがないんで何回か井上先生の所につれて行って、みてもらった事があった。

楽友会に於いては女声合唱担当の筑紫が苦戦していた、何しろ女声の殆んどが高校生なので未だ声が出て来ない、岡田先生からトラを使う、と云われて私の所へやって来た、高校生の発声をみてくれと云う訳。

当時ヴォイストレーナーなんてものは存在しなかった時代、個々の声の訓練をしようと考えた筑紫の着想は非凡だと思う。

私はレッスンを受ける身から、おこがましくも与える身となり女子高に土・日以外毎日通う身となった、受ける側は一週に一度の出席を義務づけ、発声とコンコーネ、個人レッスンだから待っている間に、上級生中心にコールユーブンゲンと云う具合、勿論筑紫の考えたこと。

皆素質があって良く成長してくれたが、一番弟子は手島さん、何しろ音感が良くて先週ダメを押すと、今週にはもう一曲上がり、コンコーネ確か四十三番迄やったと思う、二番弟子はモグ、先週ダメを押して今週上がらないとその週にもう一回現れる、と云う努力家、これも四十番以上行った。

でも自慢の弟子は吉田節子さん、何しろひどいハスキーで声より息の方が多い(ゴメンネ)、途方にくれて井上先生に相談したら、「胸を押してるからです」、それからは胸を押して声を出すな、と云い続けたら或る日、何と息がとれて太い声の美声のアルトになってしまった。

上級生が下級生を教えに行く、と云うシステムが定まった或る合宿で、佐野康夫が手島さんにコンコーネでしぼられた話は有名だ、どうしても一ケ所音がとれなかったら、出来る迄昼ごはんは駄目、と云われどうしてもOKが出ない、腹はへるしその時は泣こうかと思ったって今でもこぼしている。

後年我々の夢だったモーツァルト「レクイエム」全曲演奏を実現させたのは、佐野が幹事長の時である、鉄は熱いうちに打て、だね。

当時は麻雀全盛、井上清の家にはオフクロさんが長谷川専用のハブラシを用意して下さったほど入りびたっていた、思えば悪夢のような日々だった、負けた時の罰が恐ろしい、プレッシャーに弱い私は、何度恥ずかしい姿で大森駅周辺を走り回った事だろう。

あゝこの話はとばそう、一度なんかオキヨと裸の二人三脚、歩調が合わないで何度転んだ事か、本当にもう止めよう、紙面が汚れる、早くスキーに行った上品な話に移そう。

蔵王にスキーに行った、勿論直ぐ麻雀が始まる、負けると罰ゲーム、罰と云っても軽いもの、ハミガキをパンにはさんで食べるハミサンド、その内段々種が無くなって遂に出て来る、負けたら大風呂から裸で三階の部屋迄帰って来る。

男達の熱い戦いは終り、傷つき倒れたのはザザと中浜(名誉の為に云っておくが弟の方ではない)。

全く馬鹿な男のそろった楽友会だったが、麻雀があったればこそ三田会は今の姿で存在している。

卒業後十年、皆転勤等でいなくなり細々とやっていた三田会活動は自然消滅、しかしその後も楠田、佐々木、佐野と私は定期的に麻雀を楽しんでいた、付き合いが続いていたので、やがて帰京して来た連中も麻雀に加わりだし、そして三田会を再興しようと云う事になり現在に至っているのである。

年月というのは無情なものでもある、何と、伴と楠田は故人になってしまった、悲しいことである。

しかし、筑紫と松延はOBコーラスの幹事として今も活躍している、心強い限りである。

最後に、素晴らしい音楽、素晴らしい友を与えてくれた楽友会、そしてそれを創り、導いて下さった岡田先生に深い感謝をささげたい。


編集部注:
1991年11月発行の「楽友三田会報21号」に寄稿された、長谷川洋也さん(1期)の学生時代の武勇伝です。これを読んでいると今では想像もできない学生の姿が浮かんできます。 この話に登場してくる楽友会創生期の人々(5期まで)が、松延家に集った写真がある。長谷川原稿に出て来る人物が若杉さん(3期)、佐野さん(7期)を除く9人が写っている。全員の名前がわかる人は相当古い方です。手島さん他、女声はこの種の宴会にはいません。(2011/7/5掲載)


1期生(前列)追い出しコンパ


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