日時: 1961年9月3日(日)13:00〜17:00
場所: 長谷光男君宅(田町)
出席者:
伴 有雄(1期/85年7月20日逝去)、松延貞雄(2期/96年8月23日逝去)、川島 修(2期)、佐々木高(3期)、中浜信生(5期)、福井 幾(5期/08年6月13日逝去)、土屋ときよ(5期)、下村延久(6期)、野本陽一(7期・当時大4)、長谷光男(7期・同前)、
三戸義昭(7期・同前)、佐野康夫(7期・同前/97年11月19日逝去)
司会: 大野 洋(10期・当時大1/93年8月31日逝去)
編集: 大森 拓(9期・当時大2)、金井 宏(9期・当時大2/11年10月3日逝去)
§1 はじめに:「楽友会」になって10年
司会:今日はお忙しいところお集まり頂きありがとうございました。早速ですが今年は10周年ということですが、「楽友会」になってから10年ということですか?
伴:そうです。楽友会という名称になったのは僕たちが大学1年になった時で、岡田先生から「今まで高校でせっかく一緒にやってきたのだから、続けてやったらどうだ」というお話があって「じゃやりましょう」ということになったんです。
§2 「音楽愛好会」から「楽友会」へ
司会:すると、その前が音楽愛好会だったんですね。佐々木さんがお入りになった時は?
佐々木:愛好会ですよ。
司会:すると音楽愛好会はいつ頃からですか?
伴:ちゃんとした形になったのは僕らが塾高1年の時です。その前、三ノ橋の中央労働学園に間借りしていた時もチョットやっていたらしい。僕らが入学して新制高校3学年が揃ったんです。だから当時の3年生が慶應高校第1回の卒業生というわけですよ。
司会:岡田先生から伺ったところでは、楽友会になった時、松延さんなんかがすごく色々な仕事をおやりになったということですが。
松延:岡忠さんはすごくそういうふうに思っているからね。実際は違うんだよ。楽友会になった時に東京駅の下で発足の会をやったんだが、その時川修(川島修さんのこと)のオヤジさんが幹事みたいなことを色々やって下さってね、とにかく川修なんかの方がむしろやっていたよ、それから楠田が積極的にやっていましたよ、リードしてね。
司会:僕らが入った時、初め規約みたいなものを拝見したのですが、あれは川島さんなんかがお作りになったのですか?
川島:規約の前文みたいなものは確か伴さんなんかが草案を練ったような覚えがありますね。
伴:僕らと君らの学年かな。途中でワグネルに入った川口君なんて男がいて、あの人たちがやったのじゃないかな。彼なんか相当考えてやったんだと思うよ。
司会:楽友会になる前の演奏会はどんな風にやっていましたか?楽友会になってから定期演奏会になったわけですね。
伴:学校での催し物で、例えば入学式に塾歌や若き血を歌ったり、ザビエルの伝道400年記念祭だったかな、カトリック栄頌会の主催で宗教歌を歌ったりしていましたよ。
川島:クロイツァーの指揮で「第九」もやったではないですか?
伴:そういうのもあったね。確か国立が、あの頃日響といっていたけど、今のN響と協演する時に、僕らは岡田先生の関係で出してもらったんですよ。
司会:女子高の渡邉先生が伴奏をおやりになって、「天地創造」を全曲、読売ホールでやったというのはいつ頃ですか?
佐々木:中等部主催でね。僕が中3の時だから伴さんが高2の時だよ。
司会:ううん歌っていないよ。女子高生会員と愛好会の人たちだ。
伴:それからマッチャン(松延さんのこと)ね、日比谷でもモーツァルトのグローリアを歌ったじゃない。
松延:僕らはその後で入ったんですよ。それで「天地創造」はやったんだ。グローリアは春でしょう?
伴:そう。女子高ができたというのでね。そのお祝いに日比谷公会堂で音楽会をやりましたよ。慶應の音楽団体がたくさん出たんだ。
川島:入ってすぐ「第九」の練習をした覚えがある。
伴:それクロイツァーの・・・
松延:いや、山田和男のね。NHKで放送したやつだよ。
伴:何しろ山田さんのはね、何回も出ているもの、3回位出ているんじゃないかな。とにかく「第九」全部で11回位、いろいろな指揮者を合わせてね、でもカラヤンやローゼンストックの棒では歌っていないよ、その前までだけどね。
川島:何だかだ言っても愛好会としては「天地創造」が一番記憶にあるね。あれが一つの山だったよね。
松延:要するに俺たちはあまりに長いんで、記憶がごちゃごちゃでダメなんだよ(さかんにプロをめくりながら)。
伴:尾高さんのは載っていない?
松延:あれは前でしょ。ああ前の年の8月に、スポーツ・センター開きにベートーベンをやってる。
川島:「天地創造」以前のことは伴さん以外に聞き手はいないですよ(笑)。僕が入った時は、愛好会は会員募集みたいなことをしていたんですよ、もうね。
伴:僕が高校に入学して1回目の音楽の時間に岡田先生が「コーラスをやりたい者は入れ」と言うんでポンと入っちゃった。練習に出たら15、6人来ていた、2年生が主体でね。
司会:それが今から12〜13年前ですね(笑)。部室をひっくり返していたら、コンクールの写真が出てきたんですが・・・
伴:僕らが3年の時にね、朝日新聞で2等になったよ。
佐々木:神奈川で1位じゃないかしら。
松延:八潮高校に負けた時もあったよ。
伴:始めは神奈川で2位。男声コーラスの部で1位になったんだったかな。
野本:何で出たんですか。少し実力がついてきたと思ったんですか?(笑)
伴:いや、試してみただけだよ。
司会:当時はコンクールもある程度重要視していたんですね。
伴:そうでもないですよ。校内の催し物や「第九」をやったり、まぁ好きなもの同士が集まって気ままに時間をつぶしていましたよ。
§3 「定期演奏会」始まる
司会:なるほど。それで「定期演奏会」を始めたのは楽友会になってすぐですか?
松延:いや、初めは年毎の「発表会」だよ、「定期」と決めたのは後さ。
伴:「定期」と決める前は、聞いてもらう対象も父兄とか学校関係者だったんだよ。
司会:最初の「発表会」はお茶ノ水のYWCAですね。どんな形式だったんですか?
川島:今みたいな宗教音楽中心のネ、いわゆる演奏会形式ではなく学芸会形式だったんですよ(笑)。僕なんかもそれがよいと思ってネ、いましたよ。で、惨憺たる失敗の記録が第1回なんですよ。いわゆるグループ出演も認めていたし、いろいろな曲をやったんですよ。
司会:演奏会はずっと宗教曲が多いというか、決まったような感じですが、何か目的があったのですか?
伴:それは岡田先生の考えですよ。深い意味は先生にお聞きしてみないと分からない。
司会:歌う方はどう解釈されていたんですか?
伴:それは、ついていったんですよ。
川島:その頃は岡田先生はやっぱり、なんていうのかな、オールマイティだったもの。
松延:だってね、入っていきなりね、コーリューブンゲンもへったくれもなく、要するに音楽のイロハしか知らない高校生がね、「天地創造」とか「第九」とかやったら、気分が尊大になっちゃうわけで、とってもちゃちな「赤とんぼ」なんか歌う気にならんよ。だからフォーレとかモーツァルトなんてなるの、そりゃ当り前だよ。
司会:なるほど。それは僕らもやはりそうですね。小品では欲求不満でね。ところで土屋さんがお入りになった時には、女子高に楽友会はまだ無かったんですか?
土屋:いえ、もう出来ていました。でも音楽愛好会とも言っていました。今橋さんなんかが一番上の先輩なんです。
司会:名簿をみますと、1期には女の方がおられませんが、女子高が無かったわけなんですね。
伴:そう。だから僕ら恵まれなかったですよ(笑)。
土屋:私たちの頃は筑紫さんが主に女子高の面倒を見て下さっていました。
司会:2回目も「発表会」ですね。やはり女子高生は全員のったんですか?随分居ますけど。
土屋:女子高生がみんな歌ったというわけではないけれども、結局1回目の人がそのまま残ったわけですよね。
司会:「天地創造」で女性が足りないので、かり集めてのせたら、練習をしていなかったもので、飛び出してすごく失敗した、と渡邉先生に伺ったのですが・・・。
土屋:私たちの一つ上ですね。私たちの頃も足りなくてよく発表会に国立の方やなんか、女子の応援を頼んでましたけど。
伴:いや、1回だけですよ。後で吊し上げられてね。土屋さんが援護してくれたんだ、その時(笑)。
土屋:そうでしたか?
伴:そうですよ。まだよく覚えていますよ。あれは確か2回目の発表会。フォーレの時。本番間近になって女性が足りないんですよね。部員はいっぱい居るんだが出てこないんですよ。岡田先生の所へ長谷川と2人で行った時「実は女性が足りないから、国立からトラを入れようと思う」と言われた。その頃は先生がオールマイティでしょう。僕が幹事長だったんだが、音楽的なことは先生に任せるより仕方ないと思って幹事会にも通さずにね、発表したんです。その言い方がね、非常に独断的に聞こえたらしくて、折角今まで自分たちだけで練習してきたのに、何の断りもなしにトラを入れて、気分を壊されたというわけですね。演奏会が終わってものすごい吊し上げをくったんです。まぁ僕の失敗だから仕方ないけど、あの頃は何かにつけて感情的になる空気が続いたんだよ。
川島:そういう事は随分長く続きましたね。
司会:それだけ皆さん一生懸命お考えになっていたわけですよね。
伴:いやネ、そうとも言えないんだよ。ガミガミ言った人は止めてしまったりしてね。年頃が非常に理屈を言いたがる頃でしょう。出まかせの場合もあるわけですよね。それでトラはその時だけ!
佐々木:あの時だけ。
松延:モツレクだけどね。一生懸命練習してね、結局できなかった時あったでしょう。確か2回頃だったと思うんだけれど・・・
伴:練習をやった時、すごくよい曲だというので毎年のようにやりたい、やりたいと言って・・・、時期的に早いと見たわけでしょうね、先生が。
司会:その頃は皆さん、大きな理想があったんじゃないですか?
伴:最初の発表会の時ね、岡田先生に「君、発会の挨拶をしろ」と言われてね。至上命令で仕方なしに10分位喋ったんですよ。その時ね、合唱をやるのは単に歌って遊ぶ楽しみだけでなしに、もっと大きな目的があるという事、これは間宮さんのコンポジションを採りあげた事にも関連しているんだけど、要するにどこの音楽でも、その国のいわゆる社会とか、その国に密着しているでしょう。そういうものを作り上げていかなければいけない。何らかの意味で社会的に貢献しなければならない、という意味のことを言ったんだ。それは何も会の方針ではなく、僕の独断でいった事なんだけど、それに賛成してくれた人も何人かいるわけなんだ。この前の合宿で楠田がね、「それは楽友会のバック・ボーンですよ」なんて言っていたけど、果たしてそうなっているかどうかは知らないけどね。
川島:そういう論議は、でも戦わされたね。
下村:やっぱりネ、日本人に密着した音楽をネ。
川島:しかし全般的に、そういうことを自覚して合唱活動をやった人はごく一部ですな。
佐々木:3回目はフランクのミサ曲でしょう。
川島:山葉でね。ピエロもやったじゃない。
司会:4回目で「定期」にすることに決めたんですね。何か理由があったんですか。
伴:あの時は真二つに分かれてね。我々は年1回の演奏会に目的をおくべきか、練習に目的をおくべきか議論したよね。
松延:いつもの事じゃない(笑)。
伴:結局、演奏会が無かったら張り合いが無いぞ、ということだったのじゃないかな。
松延:それから、初めて日本青年館でやるという事でね、マネージメントの意味で大変画期的な事業だったね。たくさん人を集めなければならないから。あの時の「戴冠ミサ曲」は割に皆、感激をもって歌ったよ。
三戸:あの時はそれにメンデルスゾーンも。
松延:「キャロルの祭典」もあの時だね。
川島:女声コーラスが初めて真価を発揮した曲だ。
中浜:コンクールでよかったのはこの時?
伴:コンクールも「キャロルの祭典」でしたね。
野本:後シューベルトの・・・・・
土屋:初めはただもう歌っているだけで、女声はとっても幼稚でしたね。それであの頃が一番まとまっていました、気分的に。
野本:メンバーもよかったですね。
土屋:そう。それに筑紫さんも最高学年だったから・・・
野本:ワグネルが一緒にやったのも初めてだ、オケが。
川島:岡忠なんかよく考えていたよね。岡忠は夢をもっていましたよ、その点非常によかった。独善的なところもあったけど、独創的なところもあったよ(笑)。
三戸:盛岡の演奏会が非常に印象に残っているんですが・・・
野本:二グロやったんだよナ。
§4 合宿 ―伴さん怒られる―
川島:「定期演奏会」制を軌道に載せるについて、第一に思い出すのは「合宿」だね。
松延:僕らが高3の時からだな。
伴:エート、最初は山形県の温海温泉。
松延:演奏会するつもりで行ったらさ、講堂が前の日の大火事で燃えちゃっていて、あの時は泡食ったよ。
伴:でも演奏会はやったんだ。小林のオヤジさんなんかが奔走してくれて。
川島:その時は男だけで行ったというんで、女の方から大分ネ・・・
伴:そうそう、あの時は男だけだった。初めての合宿でもあって、すごく楽しかったなア。
松延:翌年から混声だったね。
川島:結局ね、演奏会が一つの目標になったでしょ。その為には夏に合宿やって、大いに技術を上げようと、そういうような事から合宿が始まって、最初はいろんな問題が予想されたので、男だけで行ったんですよ。
司会:そうか、翁島は2度目の時ですか?
野本:お金がいっぱい返ってきたんですよ。1500円も。確か5千円払って。
佐野:それはその後だろう。
中浜:そうそう、盛岡だよ。
川島:53年、2度目の時、会津若松の公会堂で演奏会やったじゃない。会津のオーケストラと一緒に。
伴:そうだ。あれはフォーレ。それからさっき三戸が言った盛岡の時にはサ、合宿の最後かその前日に演奏会をやったんだ。で、合宿中はその為の練習に集中したんだ。それですごく効果が上がったんだよ。みんな団結しちゃってね。それで演奏会がよくできたんだよね、すごく。
野本:その時伴さんがニタリと笑ったんだよ。終わって、俺まだ覚えているんだ<アレ、こんなおっかない人でも、笑う事があるのかな>と思ったんだ(笑)。
川島:合宿について忘れちゃいけないのはネ、必ずいつも各地で有力な後援者に恵まれたこと。最初の頃の会津や翁島では、現地のアマチュア・オケのリーダーでもある穴沢先生というお医者さんにとてもお世話になりました。演奏会はその方のお陰でできたんですよ。そういう事は楽友会の為に忘れちゃいけない。
佐野:ずっと招待状はお送りしています。
三戸:盛岡からコーリューブンゲンをネ、みんなの前で一人ずつ、あの・・・
佐野:11時頃までネ。
野本:最初着いた晩に楠田さんがお説教したでしょ。3年、4年が後ろにずらりと並んで正座して、怖い顔して睨んでて、楠田さんが一歩進み出て長々とやったの覚えているな。
松延:盛岡が野本たちの初めての合宿だったんだね。あの時高1かぁー。
三戸:それから、伴さんなんかが怒られたのも、あすこじゃないですか。「襟のないものを着ちゃいけない」っていうんで、楠田さんに。
佐野:飯食う時に、なんか、普通の下着だけで来ちゃったもんだから(笑)。
川島:要するに、技術指導部門がいて、事務屋さんがいてね。ちゃんとうまく、こう・・・。
伴:一応分離してきたわけだよね。
§5 規約改正
司会:何かあの、上級生が泣いちゃった、てなことはないですか?あまり高校生がうるさくて。
伴:女性にしぼられたよ。土屋さんたち鼻息が荒くてね、その頃は(笑)。
土屋:今から思うと恥ずかしくて。何か規約をネ、大学生の人たちが勝手に作って、これを承認しろというんで、それで何だか・・・・・。何か後でお聞きしますと、その規約を作るのに、すごい苦労なさったらしいんですよね。それなのに私たちが、ダメだなんて言っちゃって。
司会:それは最初のお話しに出た規約の事ですか?
伴:違う。変えたの。銀座の鳩ポッポでね、朝の5時頃まで考えていたっけ。
司会:それがこの前まであったわけですね。
野本:それから高校独自の活動をするんで、規約を作ったりし始めたのが、僕らの高1の時かな。
福井:そう。僕が入った時はまだ大学と一体の活動をしていた。で、別れてきたというのは、小笹さんとか小島さんなんかが高校3年の時でしたね。
伴:高校が高校独自の活動を始めた一つの理由として、「三校」の活動があるでしょう。
佐野:あれは少し後ですね。僕らが高2の時です。
川島:結局ネ、野本君たちが入って高1から大4まで揃い、7年間の幅ができ、それにつれてネ、段々いろんな事が・・・
司会:そういう意味で、伴さんが最上級生になられた頃、苦労なさったことはどういう事ですか?
伴:要約して言えば、大学の上級生と高校生の考えている事が全然違うんだよ。たった3年か4年の開きなんだけど、考え方は相当な開きがありますよ。だから大学生の考えを、高校生は全く理解できないっていう事もあるわけだ。そういう事でね、色々とこう、ひっかかりがあったんじゃないかな。
佐野:今も大体同じですね。
司会:その時、三戸さんなんか、うるさかったのではないですか?
伴:一番うるさかったですよ。
三戸:そうでもないですよ(笑)。
福井:まあネ、毎年の事なんだけど、高校2年から3年になった時が一番うるさいんだ。3年の秋頃になると静かになってね、大学入ると解るんだ。
野本:一番表面化したのは2年の時の会津の合宿。
中浜:そうそう。高校は行かないなんて言って・・・・・
三戸:ブラバンと一緒にやることに反対して・・・
司会:へそ曲げたのは誰ですか?
野本:僕らだよ(笑)。
伴:どこのクラブでも起こる問題だと思うよ。塾高生は受験戦争が無いから、高2の中頃から3年の初めの頃は、クラブ活動で一番活躍する時期でしょう。主体性というものが一応あるしね。
土屋:それから、あの頃女子高が厳しかったですね。校長先生から、練習遅くまですると文句が出ますし、楽友会員の成績が落ちると部に対して文句が出て、筑紫さんが一々弁明にいらしたりして、最初の頃が何といっても一番大変だったですね。
松延:男声コーラスじゃワグネルに敵(かな)わないし、ウチはどうしても混声を看板に掲げなければならない。ところが女子高しかいないんだよ、女の人が。大学の女子はごく僅かで、3年位になって三田に行ったらほとんど出てこなくなるしね。高校というものを除いちゃネ、特に女子高を除いたら話にならんかったものね。
中浜:人数的に確かにそうでしたね。
川島:だから、その頃から、学外からも女子学生をジャンジャン会員に引っ張ろうじゃないかという論議をしたじゃないか.。
野本:1回、近親者じゃないか、関係者は入れてもよいっ、ていうような事で(笑)。
土屋:3人以上の推薦があれば・・・
全員:あア、そうそう(笑)。
中浜:しかし、昔はかなり閉鎖的だったな。川島)チームワークを乱すというので・・・
三戸:文連加盟の話が出たのもその頃じゃないですか。
川島:うやむやの内に終わっちゃったけど。
伴:大学の文連に入ると、高校からのアレが貰えない、という事もあったんじゃないの。経済的に・・・・・。
松延:やっぱり高校におぶさっていたんだね。
野本:いつもね。7年の巾とか、女の子が足りないとか言って。
福井:でも7年の全学年が揃ったのは、君たち7期の連中が高1になってからだから、その前と後では、少し違いますね。
松延:だから今第2期だか3期位で、同じ繰り返しでもその中身はね、随分。
中浜:変わっていますネ、それは確かに。
伴:困難の度合いが減っていますよ、やっぱり進歩していますよ。
§6 大学新入生
中浜:それから後の大きな変化というのは、大学からの新入生も募集した事。
佐野:福井さんたちの学年からでしょ。
中浜:そう。僕らの学年から採り始めたんですがね。ザザ(佐々木さんのこと)がね、大学入学式の数日前に「採れ!」って言うんでね、慌ててやったもんだから、ざら紙にちょこちょこっと募集の文句を書いてね、だから誰も入ってこない。
土屋:女の子が来ると5、6人でパッと囲んじゃって、男の人だと「何ですか」なんて言っちゃって・・・(笑)。
中浜:バランスが一番心配だったんですよね。その次の年になるとチョット本格的とまではいえないけど、ザンバ(下村さんのこと)たちが入ったわけだ。
野本:その学年に女の人は入りましたっけ?
福井:入ったけど辞めたんじゃないの?
佐野:俺たちの学年も入ったけど辞めちゃった。やっぱり排他的雰囲気があったのかなー。
松延:でも残る人たちもいて、それで全体がおかしくない形にもっていったというのはね、大変な進歩ですよ。僕らの時は恐らく、そういう話をしてもダメだったろうと思うんだ。
中浜:大学の部としてね、高校の延長ではなくてね。慶應の部としていくのには、やっぱり大学から採った方がいいんじゃないかな。
川島:結果的に見て、そういう流れにあったんじゃないかかしらね。
司会:下村さんの時は、男性が何人ですか?
下村:4人かな。全部で20人位入ったけど、殆ど辞めてしまって、次の年には長谷達が大量に入ってきたんだな。岡崎、石崎、東郷も残っているし・・・
長谷:僕らが入った時は夏に演奏会があるというので、練習のたびに新しい楽譜がきて、その事で一生懸命で、他のことはあまり考えなかった。
佐野:僕らも特に何もかまわなかったもんな。
長谷:外から入ってくると誰かに甘えたいんだけど、誰に甘えていいか分からない。うっかり甘えると高校生だったり、とにかく話しかける時には制服のボタンを見る事にしたんだ。でも今ではね、すごく沢山入ってくるから、相互依存でいけるんじゃないかな。
下村:沢山入ればね、やっぱし残るんじゃないの。それでだんだん大学が充実してきましたね。
佐野:高校との関係も前とは逆になってきた。
司会:でもまだバランスの問題が残っていますね。
佐野:楽友会の歴史は女性問題につきるか(笑)。
§7 家庭的雰囲気の行方は?
伴:まあ、これは慶應全体の問題だけどね。とにかくこの2年くらいが、新しい段階への一つの試金石となるんじゃないかしら。
司会:人数が多くなる事でネ。でもマスプロ的になって、今までのような意志疎通がだんだん減ってきますね。まあ大学生を採って大学中心になってくれば仕方のないことでしょうがね。
伴:だからね、家庭的雰囲気以外の一つの違った方向が出てくるんじゃないかな。練習を通して結ばれていくという・・・。今までは、いわゆる内輪をまとめる意味で、色んな事を練習以外の場でもやったわけだけど、それがあまり成功したとは言えないんじゃないかな・・・・・。
中浜:大学生といえばまあ大人でしょ。それぞれ考え方も違うわけですよ。
土屋:でも私たちが入った頃の上の方たちは皆大人っぽかったけど、この頃の大学3、4年生の人たちは子供っぽいんじゃないかしら。
伴:それは土屋さんが大人になったからですよ。
土屋:いえ、そうではなくて、お手紙なんか頂いても、だんだん家庭的雰囲気が無くなって甘える人がいなくなったなんて・・・甘える事ばかり考えているみたい、特に女の人なんかそれが・・・
福井:さっき伴さんが「成功しなかった」と仰ったけど、音楽を通して結びつく前の過程として、どうしても通らなければならない前提だったんじゃないかしら。
伴:それを少し重く見過ぎる場合があるんですよ。
中浜:ありましたね、確かに。部員の少なかった頃は減らないように雰囲気を気にしてネ、色々気を使いました。
福井:中浜が週に1度は喫茶店に行かなければいけない、なんて言っていたじゃない。
川島:少人数の時はそれも健全な形なんだけどね。
野本:全体としてはうまくいかないで、グループみたいのが出来てしまって・・・・・
司会:でも、上級生下級生の別なく、練習の後なんか、どこかへ行っちゃうなんて、他のクラブにはみられない事ですけど、その頃からの伝統を受けついでいるような気がするんですけど、よい事じゃないですかね。
福井:そういうものは絶対残りますよね。
伴:もちろん、そりゃ良いんだけど、本質的なものが二次的になるとまずいね。
§8 これからの発展方向
司会:その問題はこれ位にして、最後にこれからの発展方向について。大学からの新入部員が内部からの継続部員が煙たいとか、高校には高校独自の活動もあったりして、タイミングを合わすのが難しいわけですよね。この問題をどう思いますか?
中浜:いつか「楽友」に書いたけど、全部一緒というのはムリがありますね。7年間の巾は貴重なものだとは思うけど、やっぱり次第に分かれていくべきでしょうね。将来の為にね。
三戸:僕はね、自然に分かれてしまうだろうと思うんです。無責任のようだけど仕方のない事ではないかな。ただね、大学生が何かの形で指導するとか、そういうつながりは残しておいてもね。それでいいと思うんですけどね。
福井:力関係だと思うのですよ。人数のことで、相互で考えて理解しあって、その時の最善を尽くせばいいでしょう。なるようになる。それで一番よくなっていきますよ。技術的な事は別として。
下村:でもね、大体の流れとして大学の人数が増えていくから、分かれていくんじゃないかな。
福井:今のところではね。でも先のことは何とも言えないでしょう。減る事もあるかもしれない。
司会:ではもうこの辺で。将来の夢でも。「楽友会館」を建てようというような事はどうですか?
伴:OBに入る麻雀の収益は寄付するとかね。決めて一度やったんだよね。あれは誰だっけ。
松延:オイ、もうテレコ止めろよ。気になるよ。
司会:そうですね。ではこれで一応座談会は終わりという事に致しまして・・・ここからは後に残りませんから、皆さんご自由に喋ってください。どうもありがとうございました。
「楽友」第18号(1961年11月発行)より転記(2011年10月・オザサ)
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