伝説のバンド:今の人には知る由もありませんが、昭和12,3年頃にカルア・カマアイナスというバンドが創設されたといいます。創設者は芝小路さんの同級生の原田敬策氏、もう1人の創設者リーダーが朝吹英一氏という方です。朝吹英一氏は昭和8年経済学部卒の塾員で三井財閥の朝吹家の御曹司です。日本で木琴(シロホン、マリンバ)の先駆者として平岡養一氏と並び称されています。高輪の大邸宅では毎週土曜日にメンバーが集まってハワイアン音楽が流れたのだそうです。
芝小路さんは、原田氏に誘われてハワイアンを始め、ウクレレを練習したのだそうです。この3人に合流したのが雪村いずみのお父さんである朝比奈愛三氏です。この4人になったのが昭和15年の夏頃で、活動の場が公演、レコードと広げられていったのです。しかし、カルアのメンバーにはプロは一人もいないアマチュアバンドでした。そのアマチュアバンドが日比谷公会堂を満員にしたり、レコードも大ヒットとプロ並みの人気と実力を兼ね備えた大変なバンドになってしまいます。
カルアの公演には東京に知識人が集まる社交場となったという記述があり、小泉信三塾長の姿もあったといいます。
日本は1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争の開戦へと突っ走ります。それでもこのバンドは活動を続けたといいます。さすがに向こうの歌を歌っていたのでは風当たりが強くなるのは明白です。そこで、朝吹氏は自分達で日本語の歌を作詞・作曲してレコードを出しました。そして、カタカナのバンド名は使いにくい時代、「南海楽友」という楽団名を使うようになったといいます。最終的にはもう1人のメンバー、東郷安正氏がベーシストとして加わり、敵性音楽といわれたハワイアンやジャズを演奏し続けたのです。
この年にこのグループ初のレコードを吹込みしました。それが、朝吹英一詞・曲「陽炎もえて」歌:芝小路豊和です。歴史的和製のハワイアンです。お聴きください。
陽炎もえて 芝小路豊和
もう1つの伝説バンド:それ以前の1933年(昭和8年)に長尾正士氏が学生ミュージシャンを集めて結成したフラタニティ・シンコペーターズというジャズのフルバンドがあります。戦後、長尾さんは1946年(昭和21年)に復員してきた仲間を集めてオルフェアンズ(The
Orpheans)を結成しました。
1949年(昭和24年)にはオルフェアンズは発展的解消をして、小島正雄氏とブルーコーツを結成しました。小島正雄といえば11PMの司会者として知る人が多いと思いますが、初めはブルーコーツでトランペットを吹いていました。そのうち司会が専業となり「MC」という言葉をメディアで広めてしまいました。小島さんは54歳の若さで1968年に急死されました。⇒小島正雄追悼アルバム

芝小路さんとオルフェアンズ
2004
長尾さんが1998年にオルフェアンズを再結成しました。ここに芝小路さんが専属歌手として迎えられました。お元気だった長尾さんは2003年に90歳で突然亡くなりました。しかし、オルフェアンズはその後も活動しています。スリーグレイセスの向かって一番右で歌っている白鳥華子(旧姓長尾)は、長尾さんの姪に当たります。
現在のブルーコーツもオルフェアンズも長尾さんが作ったフラタニティ・シンコペーターズを原点とする70年以上の歴史を持つ由緒あるジャズバンドです。
不思議な話:学生時代から私を可愛がってくれた東芝の原野秀永氏という方がいます。私が小金井の工学部の3年生(1962年-63年)のとき、原野さんが東芝からの委託研究を慶應に持って来たのです。コンピュータのプログラミングの仕事でした。それを私達学生がお手伝いをさせられました。
そのご褒美に「お前達、ご馳走してやる」と東芝高輪倶楽部に連れて行かれました。同倶楽部は高輪桂坂の中腹にありました。
それ以来、特に学会の活動で私を引き立ててくれたのが原野さんでした。言い方を変えると、よくこき使っていただいたのが原野さんでした。40数年間も親しくお付き合いさせていただきましたが、昨2009年6月に93歳で亡くなりました。一緒に国際学会に出かけてあちらこちらホッツキ歩いたことが懐かしい思い出です。⇒原野さんを悼む
最近、知ったのですが、何と東芝高輪倶楽部は旧朝吹邸だったところです。(わかやま/4月7日)