しかし国内の反応は意外に鈍く、私たちの「東京スコラ・カントールム(斎藤/5期、杉原/11期、故・海外/9期それに私、といった多くの楽友会仲間が中心となって創設した宗教音楽専門の合唱団)も、10月9日に予定していた創立20周年記念演奏会を中止する気にはなれなかった。
イングリットのプロフィール(CDライナー・ノートから)
また、その為にドイツから招いたソプラノの名歌手イングリット・シュミットヒューゼンも予定通り到着してくれたので、練習も順調に進み、本番前日は前夜祭を催して気炎をあげた。以下はその時の会話の一部:
私 「ほんとによく来てくれたね。海外の演奏家のドタキャンが多いから、実はヒヤヒヤしていたんだ」
イングリット 「そう。今回はNY経由で来たの。だから、ドイツでもアメリカでも、ずいぶん皆に止められたわ。友達のバーバラ・ボニーも『怖いから私は行くのを止めた』といっていた。やっぱりみんな心配よー。よく皆さんは平気ね。私だって、以前皆さんとご一緒してなきゃ、多分お断りしていたと思うわ」
私 「そんなもんかねぇー。ボニーさんの『ドイツ・リートの夕べ』は私も楽しみにしていたのに、中止になって残念だった。でも、彼女の場合はリサイタル会場が『水戸芸術館』で、事故のあった東海村に近いから気持ちは分かる。だけど今回は、報道で『施設外に影響はない』といっていたから、東京の私たちは心配しなかったんだ」
イングリット 「Ach so・・・aber・・・日本の報道ってそんなに信頼できるの?」

イングリットを囲んで(‘99年、東海村原発事故の翌月)
このイングリットの反問を思い起こすと、今更ながらにハッとする。
確かにそうだ。若い頃よくやった「伝達ゲーム」にしたって、あれほど単純な遊びなのに、始めに囁やかれた短文が、そのまま最終者に伝わることはめったになかった。ましてや、競争激烈なメディア合戦の時代。事実は一つでも、末端の読者や視聴者に伝わる頃には、かなり歪んだものになる。
特に原発には大きな利権が絡むから「政・官・財」の3界どころではない、御用学者に事欠かない学界や、スポンサーに楯突けないマスコミ業界も巻きこんで、5界(誤解)まみれの混戦となる。「何が真実か」なんて、結局のところ、誰にも分からない。だから巷の情報や風説を信じて行動するのは愚の骨頂であり、公的機関の公表資料といえども当てにはできない、ということを肝に銘じておくべきだった。
そのことは「関東大震災」の際、「朝鮮人による暴動」のデマを故意に飛ばし「自警団を虐殺に狩りたてた」のは当時の警察官僚で、後に「原子力(発電)の父」、「テレビ放送の父」、「プロ野球の父」と崇められた、元読売新聞社主の正力松太郎氏であった(石井光次郎著「回想八十八年」カルチャー出版社/Wikipedia他)こと。あるいは日清、日露そして大東亜戦争へと戦火を拡大したのは直接的には軍部だが、その圧力に屈して世論を誘導したのは朝日、毎日、読売といった大新聞やNHK等のマス・メディアであったこと等を想起すれば自明の理だったのである。
要するに一般市井の人々は「狼の群れに囲まれた羊のようなもの」で、音楽愛好家など簡単に蹴散らされ、狼どもの餌食となってしまう。だから何ごとも日頃から「蛇のように賢く、鳩のように素直に」自分の頭で考え、自分の考えで行動する習慣を培っておくべきなのだ(この段落の「」内はマタイ10:16)。
今回の福島原発事故に際しても、海外の楽人の反応は素早かった。4月末から6月下旬にかけて約40回の公演を予定していた「ウィーン少年合唱団」の反応が一番早く、事故から程なく「公演中止」の広告が出た。半世紀以上も続いた初夏の年中行事であり、平和のシンボルともいうべき「天使の歌声」が途絶えたのは誠に残念ではあったが、憲法に「原発建設の禁止」を謳うオーストリア人としては当然の措置であったろう。
もっとも原発大国のフランス「国立リヨン管弦楽団」でさえキャンセルしたし、ドイツの「ドレスデン・フィル」、「ベルリン・フィル8重奏団」、ヴァイオリンの「アンネ・ゾフィー・ムター」などもこれに続いた。
アメリカの「メトロポリタン・オペラ」は予定通り総勢380名の陣容で来日し、6月に14ステージの引越し公演を敢行した。が、マエストロ:ジェイムズ・レヴァインを始め、ソプラノのアンナ・ネトレプコ他の「スター歌手」は、「未曽有の出来事で、想定以上の数のキャストの変更を強いられた」のが実情であった(演奏会プログラム別冊)。

ディアナ・ダムラウの演じるルチア「狂乱の場」から
とはいえ最終日(19日)を飾る「ランメルモールのルチア」を観に行った家内はニコニコ顔で帰宅した。理由の第一は、もちろん「ルチア」を歌ったディアナ・ダムラウが素晴らしかったこと。かの有名な「狂乱の場」での長丁場も、真に迫る、息もつかせぬ絶唱だったらしい。それに何よりも、彼女の音楽にかける情熱にうたれたという。

ディアナ・ダムラウのプロフィール(プログラムから)
ディアナは、アンナ・ネトレプコの出産時に代役としてこの役を獲得した。だからアンナの後塵を拝していたことは事実である。だが、その後の躍進は著しく、今や両人共にメトの花形プリマとして、押しも押されもせぬ存在となっていた。だが今回、アンナは契約をキャンセルしたが、ディアナは頑として予定を変えなかった。そして、乳飲み子を抱えて来日を果たした!練習中はその男児を傍らに寝かせ、合間をみては自分で授乳していたというから半端じゃない。
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