● 8月。大輪のヒマワリが咲き、原爆の日が近づくと、反射的に私はこの本を思い出す。そして「イャ、ヒマワリじゃない」と呟いて地に目をやる。すると雑草のように咲く黄色の草花が目にとまる。そこで「原さんが墓前に携えていったのはこの花か?」としばらく思案する。そうであるようなないような、何とも不確かな感情のまま、私は再び歩き出す・・・。そうしたことが何年も続いた。今年はそんな感情に決着をつけたくて、<黄色の小弁の可憐な野趣を帯びた、いかにも夏の花らしい>花を探し巡った。するとこの花が目に留まった。「ハルシャギク」という、近所の公園でもよく見かけるごく普通の花だが、お地蔵さんの周囲に咲いている情景に心惹かれた。原さんの万感もまた、そこにあったような気がした。これは奈良の元興寺(世界文化遺産)で10年6月に撮影された写真で、「奈良大和路のこと」と題するブログ(http://narayamatojinokoto.typepad.jp)から転載させて頂いたものである。
▼ 「原民喜」とか「夏の花」といっても若い人にはほとんど通じない。塾員ですらポカンとしていた。それでこの一文は注釈ずくめになってしまうが、ごく端折ってご紹介しておきたい。原民喜(はら・たみき)は1905年広島市に生まれ、塾文学部英文科を卒業した詩人・小説家。中学生時代から文学に関わり、戦時中は千葉で船橋中学の英語教師も務めたが、夫人に先立たれて失意のうちに郷里に疎開して被爆した。1947年、被災時の凄惨な体験を「夏の花」として「三田文学」に掲載、第1回「水上瀧太郎賞」を受賞、これを契機に一躍その名と作品が世に広まった。特に「夏の花」は日本固有のジャンルである「原爆文学」の代表作として、今も版が絶えない。新潮文庫版は大江健三郎氏の行きとどいた解説で読解の助けとなる。同氏はまた「若い読者がめぐりあうべき、現代日本文学の、もっとも美しい散文家のひとりが原民喜である」、「(原民喜は)原子爆弾の経験を描いて、現代日本文学のもっとも秀れた作家である」と激賞し、特に若い人々が読み継ぐことを期待している。一方、その人となりについては、戦後共に「三田文学」の編集に携わった遠藤周作さんが、あたたかい筆致で故人との想い出を記している。それによると原さんは、被爆約6年後の1951年3月、吉祥寺⇔西荻窪駅間の鉄路に身を横たえ、45年の生涯を閉じた。その外見は<満身創痍となった一羽の小鳥がしかもなお、羽を動かし、生き続けようとしている姿に似ていた>が、その気力については「平和への意思」と題した原さんの遺稿と思われるノートの一部(下の「」内の文)を引用し、次のように伝えている。
<「お前が原子爆弾の一撃より身もて避れ、全身くづれかかるもののなかに起ちあがらうとしたとき、あたり一めん人間の死の渦の叫びとなったとき、何故にそれは生きのびようとしなければならなかったのか、何がお前に生きのびよと命じてゐたのか」と原さんは書いているが、外見弱々しくみえた原さんからは想像もできぬこの烈しい言葉こそあの六年をどうにか生き続けさせる気力となったにちがいないのだ。>
(遠藤周作著「影法師」から「原民喜」についてのCoda)
▼ その死の前年、「近代文学(戦後すぐに創刊された文芸雑誌)」8月号に原さんは「原爆小景」と題した作品を発表した。それは「夏の花」その他の作品に載った10編の詩を括った詩集である。それを手にした楽友会創始者の一人・林光さん(1931〜2012)は「これらの詩には音楽が必要だ、とその時思ったが、20歳になるやならずのぼくはその手だてを持たなかった(「被団協」新聞2010年3月発行374号)」。そしてその思いをあたため、第1部「水ヲ下サイ」を作曲したのは1958年、27歳の時だった。続く第2部「日ノ暮レチカク」と第3部「夜」は1971年のことで、この間にも13年の歳月を要した。結局、終曲の第4部「永遠(とわ)のみどり」が完成したのは、世紀を越えた2001年、作曲者69歳半ばのことであった。「こうして、完成した『原爆小景』四章の様式は、作曲者の生涯にわたる作風の変遷に沿って変化しながらも、その精神的内容は一貫して変わらないと信じる。作曲者は以前、『日ノ暮レチカク』を中央パネル、『水ヲ下サイ』と『夜』を左右両翼として西洋中世の祭壇画になぞらえたことがあったが、両翼を閉じたところに『永遠のみどり』を置くことにより、文字通り祭壇画は完結したといえよう。(2001年8月9日/林光・東混/八月の祭り○22/プログラムより)」。実にこの作品は、全曲でおよそ25分の簡潔な無伴奏合唱曲ではあるが、作者が心と精神と力をつくし、半生をかけてまとめ上げた畢生の大作であり、何百人、何千人が合唱しても、それなりに天地が呼応するスケール感豊かな、希有の大曲といえるのである。
▼ 毎年8月に林光+東混のコンビで「原爆小景」を演奏し続けてきた「八月の祭り」コンサートも、今年で第33回となる。残念ながら、今年から指揮台に先輩の姿はなく、ステージからの語りかけも耳にし得ない。だが、いみじくもそのチラシに銘打ってあるように、私たちは「光さんにさよならはいわない」。なぜなら「原爆小景」が歌い継がれるところ、林さんは必ずそこに居る、と確信するからだ。例えばバッハは没後262年だが、今もその音楽
― 特にカンタータや受難曲のメッセージは人々の心にこだましている。その意味で私たちの側で忘れ去らない限り、人間の存在にとってヴァイタルなメッセージは永久に残る。まして今は「原発」の存続か否かで国論が、というよりも世界が大きく揺れ動いている重要な時機。どうしてこの日本で、被爆者にしか発せられない貴重なメッセージを放置できようか。

詳細 ⇒ http://homepage3.nifty.com/TOUKON/teiki.htm#林光追悼
■ それは原民喜、林光両氏が後輩に託した一種の遺言である。問題はその信託に、私たちがどう応えるか、ということだ。私は「原爆小景」を歌い継ぎ、広めていくことではないかと考える。これはかなりの難曲だし、東京混声合唱団の専売特許のようになっている。しかし、そこに止まることが作詞・作曲者の本意とは思えない。先ずもって楽友三田会合唱団がアマチュア合唱界の先駆けとなり、日高さん(14期)の指揮で全曲演奏してみたらどうだろう。それは林先輩に対する最良の追善供養となり、私たち自身の原水爆や原発に関する見識を高める好個の機会となるに違いない。なぜ日高さん?当ホームページのMMCコーナーに載った「『鎮魂の賦』に想いをこめての信州旅行」という市村さん(9期)の記事を読んだからだ。そこには今年の20回定演で「鎮魂の賦」を指揮する同君が、皆と一緒に信州へ旅した事情が書かれている。以前も同様に演奏予定曲ゆかりの地を訪ね「おらしょ」の時には長崎へ、「良寛と貞心尼」の時は新潟へ旅したそうだ。演奏者の態度として誠に見上げたもので、他人にはなかなかできないことである。しかし、そうした真摯で誠実な曲へのアプローチこそ「原爆小景」を歌うに最もふさわしい曲づくりの基本であろう。善は急げ。一日も早く「広島」、「長崎」あるいは「福島」への旅を実現し、「楽友会」に新たな定番を植えつけてほしい。小林先輩の「青春讃歌」を、後輩たち子々孫々がおおらかに歌い継いでいけるようになるためにも―――(オザサ/8月6日)
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