老若男女が一堂に会し、2時間以上もスクリーンに見入っている状況は印象的で、きっとこの映画は「ひめゆり」、「火垂るの墓」、「人間の条件」等と並んで、戦争を伝える名作の一つとして、今後も長く人々に語り伝えられていくに違いない、と感じ入った。(映画の概要は⇒こちら)
著者の妹尾河童氏は’30年生まれの神戸っ子で、「はじめ」の名は肇(Hajime)といった(ちなみに「河童」はその後の実名)。だからこの題名は著者の少年時代の自伝であり、決して「Hな少年」を意味するものではない(も一つちなみに、これ以前に出版されたユーモラスな随筆集、というか小自伝集「河童の手のうち幕の内」に「女性に惚れっぽいのは、自分でどうすることもできないビョーキだった」と書いてある・・・)。

映画のチラシ
▼ Hは洋服店を営む実直な父、人一倍熱心なクリスチャンの母、それに2歳下の妹がいる4人家族の長男坊。世界恐慌が波及し、国際的にも国内も物情騒然となるなか、一家は地味ながらも比較的安泰な日々を過ごしていた。Hの物怖じしない、のびのびとした自由な気風は、その家庭環境や国際港・神戸の風土、さらには父親に連れられて当時としては珍しい多くの外人顧客に接する機会に恵まれたことによって育まれたものであろう。Hは毎日、母親が編んでくれた朱色のセーターを着て、元気いっぱいに少年時代を謳歌していた。そのセーターの胸の真ん中には大きな白字のHというイニシャルが浮き立っていた。皆がそれをからかっても、本人は一向気にしない。むしろそれを誇りにしていた風があった。
何しろ少年たちに人気の野球の英語用語は禁止され、ストライクを正球、ボールを悪球と呼び換え、ユニフォームのロゴが全て漢字化させられた時代のことである。これはごく珍しい、勇気ある行動だったといえよう。
▽ ボクは’36年の生まれだから妹尾さんより6歳下。しかも場所は東京だから事情はかなり違う。物心ついた時、周囲はカーキ色の軍隊色一色で染められており、軍事国家はあらゆる面で国民に不自由を強いていた。
野球は既に影を潜め、小学生(当時は「国民学校」に学ぶ「少国民」と言われた)は「馬跳び」や「水雷艦長」という一種の鬼ごっこ、あるいは「徒競争(駆けっこ)」や「缶蹴り」に熱中するしかなかった。それとて集中できたわけではない。必ずと言っていい位、途中で警戒警報のサイレンが鳴り、皆はチリジリになって退避所に逃げこまなければならなかったからだ。
ある時、チョットもたついていたら、突然急降下してきた敵機の機銃掃射を浴び、すんでのところで射殺されるところだった。敵機が去った後に脇を見たら、自分が伏せた地面の横30p位の処に連続した銃弾痕があり、子供心にゾッとして震えが止まらなかった覚えがある。
▼ 父は都市銀行の行員で、台湾に新しい支店を開設すべく単身赴任していた。家族を呼び寄せる段になり、先行して家から家財一式を送ったら、途中で輸送船が撃沈され、一切が海の藻屑となってしまった。それで母とボクたち3人の小学生姉弟はそのまま自由が丘で暮らし続けた。戦局は日を追って敗色濃厚となり、国民は耐乏生活のどん底に追いこまれていった。
こんな時勢に、女手一つで育ち盛りの小学生3人を育てるのはどんなに大変だったことか。食糧事情は最悪で、母はいつもモンペ姿でリュックを背負い、片手に大きな風呂敷包を抱えて頻繁に近県の農家に通った。配給の食料だけでは生きていけなかったからだ。近県に行くのも容易ではない。列車の本数は少なく、乗客は車内にあふれ、か弱い女は入りこめない。寒風吹きすさぶ中、上野⇔水戸間を連結部のブリッジに立ちづめで往復したこともあったという。
激しいインフレで生活費はすぐ底をつき、農家の好意にすがって物々交換に応じて貰っていたらしい。交換価値は日を追って下落し、財産は目減りする一方だった。目の前から大事にしていた玩具や本、あるいは雛祭りの人形や端午の節句の兜や剣までもがドンドン消えていくのが悲しかった。
でも母はもっと辛かったろう。家事ばかりではなく、隣組の仕事も大変そうだった。蒲柳の質の母にとって、防空・防災訓練や防空壕掘りの重労働に駆り出されるのはどんなに辛いことだったろう。就寝前にホッとした口調で「寝るほど楽は無かりけり」と唱えるのが、母の口癖だった。
▼ いつもは気丈に振舞っていたが、ある晩フト目に涙を一杯に溜めていた。指輪類を磨いていたので、手を痛めたのかと思ったがそうではなく、翌日それ等を供出することが悲しかったらしい。
「ぜいたくは敵だ!」「欲しがりません!勝つまでは」というスローガンの下、政府は強権を発動して国民の私物まで召し上げるようになった。少しでも金目のものがあれば「隣組」を通じ、「供出」させた。「隣組」とは江戸時代の「5人組」に等しい住民同士の相互監視組織であり、「供出」とは本来は「神仏に捧げ物をする」事だが、戦時中その対象はあいまいな「国体」であった。
その時の銅・鉄・貴金属類がどう処分されたのか?後年、私はその疑問を解きたくて、大蔵省まで行って調べてみた。鉄や銅はすぐに武器・弾薬に転用されたらしい。だが貴金属類をどうしたのかは、全く不明で闇に包まれていた。
できる事なら母の供出した宝石類を取り戻し、墓前に供えたかったがダメだった。役所はどこも「知らぬ存ぜぬ」の一点張り。責任の所在すら明らかにできず、結局、誰かが中間搾取して猫ババを決めこんだものと推理するしかなかった。これが平時だったら、国家的犯罪として大変な騒ぎになっただろう。
余談だが、わが家の墓は小金井の多磨霊園にあるが、戦時中、何者かによって鉄製の門扉や花立て等、すべての金属製品は強奪されていた。これまた犯人の特定は難しいが、周辺の墓地全部が同様の被害にあっていたので、個人の仕業とは思えない。近隣の軍需工場か国が勝手に、組織的に略奪したものと推測した。この頃は、墓地さえ悪鬼が跳梁する修羅場であったのだ・・・。
種々卑近な例を挙げたが、戦争とはこんなものだ。泣いたり、傷ついたり、損したり、苦しんだり、死んでいくのは無力な民間人だけで、一部の権力者とその家族・親族や、税金で飯を食っている連中は、どさくさに紛れて身を保全し、私腹を肥やす。現在のシリア内戦は、その醜い典型の一つといえよう。

シリアの難民
■ 「少年H」の話から大分それてしまったが、要はその映画を見ながら改めて戦争の恐ろしさや不条理を再認識し、その時代の再来を促す連中の勢いを止めたいと思ったのである。そこに折よく、大前研一さんの「世界から尊敬されるドイツ、警戒される日本」と題する論考(PRESIDENT
Online 8月23日)が出た。これを絶好の教材として紹介させて頂き、皆さんと問題意識を共有できればと願っている。(2013/9/7:オザサ)
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