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![]() やまぶき(「季節の花 300」より) |
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<年をとると涙もろくなる>と人は言う。ご他聞にもれず、私にもその現象が起きてきたようで困っている。もうすぐ
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▽ 最近は急に物故者が増え、半世紀以上も親しくしてきた友・知人が一人、二人と姿を消していく・・・明日はオレの番だと思うと、無性に淋しくなる。すると自然に涙がこみ上げてくるのだ。いやはや、湿っぽい話で申し訳ない。桜咲く「4月」はおめでたい月。時期的にふさわしくないとは思ったものの、やはり「岡田先生」の「偲ぶ会」が近づき、昔のこと等思い出していたら、ついついこんな書き出しになってしまった。
▼ 先生は塾校新設とほぼ同時にスタートした楽友会の前身「音楽愛好会」の発足当初(1948年)から、ご本業の他に当会の部長兼常任指揮者の役割を |
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![]() 読売新聞取材班著(中央公論社刊) |
▽ だが、事はそんな身近な話題だけに限らない。昨年は「戦後70年」という節目だったから、特に刺激が多かったのかもしれないが、涙はとめどなく流れた。1945年の敗戦時に9歳だった私にも<かなり深い心の傷が残っていたのだなー>と思うと同時に<やはり加齢現象には逆らえない!>との思いを深くした。 ▼ そんな思いに駆られた数々の資料の中で、最も印象に残ったのは「戦後70年 にっぽんの記憶(読売新聞取材班著/中央公論新社‘15年12月初版/¥1800+税)」と題した本である。内容は現役のベテラン新聞記者たちが全国に散在する、数少なくなった戦時体験者約70名にインタビューしてまとめ上げた貴重な証言記録と、随所に当時の写真や数値データを配した簡単に言えば史書なのだが、その体験記を読んでいて、フト涙ぐんでいる自分に気づくこと、一再ではなかった。史書を読みながら涙するなんてことはかつて無かったことなので、単純な私は<あゝ、この書は名著だ!>と思ったのである。 |
□ その中に小泉信三元塾長の次女で、昨年米寿(88歳)を迎えられた小泉妙さんの「小泉信三は息子の戦死を (2016年4月7日/オザサ) |
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![]() 初来日の時に聴きに行って、ころりと参りました。家に帰って何の気なしに引き出しを開けると、名刺の束の中にタブローズの支配人の名刺を見つけました。記憶をたどると、20年前に娘が一緒にディナーをと言って連れて行ってくれた時にもらった名刺らしいのです。 2016年3月に、ヒッキーさん夫妻と出かけました。ヒッキーさんはシンガポールに住むイギリス人のご主人をもつ奥さんで、彼女は東京とシンガポールを行ったり来たりの生活です。 |
丁度、ご主人がこの1週間はEasterでお休み、東京に来ていたので一緒に連れて行きました。 そこで、ディナーをタブローズのダイニングで食べてからダリちゃんのところに行こうと、本当に20年ぶりにレストランに入りました。20年前に何を食べたのか何も憶えていません。いや、とてもユニークな料理を食べさせてくれました。料理を運んでくれたアシスタントマネージャーの羽田野君という若者に、「20年前にもらった支配人の名刺がある」と話をすると、「その頃だったら、新川支配人ですか?」と言う。「そうだ、新川さんだ」に彼は大喜びして、従業員のアルバムを抱えて来て「新川さんです」と当時の写真を見せてくれた。
そんな時代には羽田野君はまだタブローズの従業員ではない頃だ。それにも拘らず、古い支配人のことを知っているというので爺ちゃんはびっくり。ここの従業員の教育をまざまざと見た思いだった。 食事が終わって、ラウンジに移動するのに、まだ飲み切れていないシャンペンのグラスを運んでくれて「チェックも後で結構です」と至れり尽くせりのサービスだった。 3月に赤坂のカナユニが閉店となった。2月には最後のライブをやらせてもらった。独特のメニュー、美味しいものが食べれなくなると寂しい思いをしていたのだが、図らずもタブローズがお気に入りの店となってくれた。世の中って面白いものだと思い、この店の紹介を書く気になった。 以前にも紹介したDaryl Shermanです。前の晩に「明日行くよ」とメールしておきましたので、ダリちゃんは大喜びで迎えてくれました。 |
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![]() パクさんが5年前の正月に77歳で亡くなりましたが、ひとり、ふたりと消えていきます。不動のメンバーで続いたダークはギネスブックに長寿記録で掲載されていますが、この記録は永遠に破られることはないでしょう。 4月2日(日)の夕方にOZSONSの練習が組まれていました。小島が「ゲタさんのお通夜が6時からあるから5時には終わりたい」と言ってきました。 小島には不動前から桐ケ谷斎場への地図を書いて持たせて送り出しました。 ゲタさんのご冥福をお祈りいたします。 |
父親がそれを一番よく知っていたのではないでしょうか。そこで、自分のオフィスのマネージャーをやらせたり、TV番組のプロデュースとか作曲などをやらせてきました。したがって、日本ではJr.の名前は出て来ません。地味に育てられました。お姉ちゃんのナンシー(1940年生まれ)はポップ・シンガーとして華々しくデビューし有名人になりました。 父親が亡くなってから、タガが外れたのか表向きに歌手生活を始めたようでした。2010年2月には日本に来ました。シナトラ協会の仲良しのおば様が、Blue Noteに予約をしてくれていました。一番前のど真ん中の席で、手を伸ばせばSinatra Jr.に届きそうなところです。 お父さんと姿や声質はそっくりです。でも、歌い方も英語の発音も違います。生まれはニュージャージーですが育ちはカリフォルニアで、父親の綺麗な発音には遠く及びません。それでいながら、父親と同じ歌ばかり歌うので余計に粗が見えてしまいます。でも、大衆にはそんなことはどうでもいいことで、シナトラJr.がシナトラの歌を歌ってくれれば、それで嬉しいらしいです。My
WayとかNew York New Yorkなんてヒット曲が出てくると一段と拍手が高まるのです。 |
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もう6年前なんですね。どこか身体に不具合でもあったのか、椅子に座って歌っていました。まだ、66歳ですから、そんな歳ではありません。それに足元がおかしいのです。シューズを履いていないのです。うす茶色のムートンの防寒ブーツを履いているのです。靴を忘れてきたのかと思いました。 何日か後、私のチケットを予約してくれたおばさんからメールが来てシナトラJr.との写真が添付されていました。 そして、「あのムートンのブーツはJr.のお気に入りなんですって」とのことでした。 |
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それで、他のお婆ちゃんのライブを聴きに行ってきたが、アーネスティンの生のライブは聴けずじまいで帰ってきた。
The Seattle NewsのInternet Newsに、 Jazz
great Ernestine Anderson dies The celebrated singer, once described by Quincy Jones as having the sound of “honey at dusk,” died Thursday, March 10, in the Seattle area. She was 87. と出ている。R.I.P. 今度の日曜日は岡田先生の追悼会の日だ。(2016/4/7・かっぱ) |
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