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この計算機のメモリーは2000ワード(1word=10進12桁=5byte)、今流に言うと、10キロバイトに相当というちっぽけな機械だった。このメモリー500ワードを使って、管理工学科の浦助教授がアセンブラを作り、それでプログラミングの授業が始まった。 プログラムもデータもこの2000ワードのメモリーに格納する。大きな計算プログラムは作れない。我々は500ワードのアセンブラを外して、少しでもメモリーをプログラムとデータ格納に使えるように機械語(マシンコード)でプログラムをした。 |
もう一つの大型計算機にUnivac1107、Univac1108があった。大手町の三井物産ビルには日本ユニバックがあり1107が置いてあり、少し後に六本木の旧防衛庁にはUnivac1108があった。 1962年、3年生の時、管理工学科の森敬助手(経済学部出身)が「日本経済の計量経済モデル分析」の研究をしていた。44元の線形モデルの計数行列を過去の経済データから推定し、得られた基本行列を使って時系列的に年度を追って日本経済変動シミュレーションを実行するプログラム作成依頼を受けた。当初はK-1を使ったのだが、メモリーが小さすぎて、計算された1列、1列のデータを紙テープに鑽孔(さんこう)して取っておき、その1列、1列の紙テープ・データを読み込んでは、次のステップの計算をしなくてはならず、徹夜の計算作業となった。メモリーが小さいので計算結果データをメモリーに記憶しておくスペースが無いのだ。 森敬さんは、「よし、IBMに行って7090を使おう」ということになり、日本橋室町のIBMデータセンターの7090を使い、プログラム言語はFORTRANを使うことになった。FORTRANのプログラム書きは実に簡単でエラーチェックも容易にできた。 4年生の時は、三菱原子力がアメリカ軍の研究所であるRand Corporationが開発したばかりのシミュレーション言語、SIMSCRIPTを買ってきた。後にノーベル経済学賞をもらったマルコビッツが開発した離散系シミュレータだった。私はこれを使ってN自動車のプレス工場の生産ラインのシミュレーション分析プログラムを作成した。21、2歳の分際でこんな計算機が使えたのは、ゼミの関根親分の顔の広さによるものだ。電子工業振興協会とか日本機械工業連合とか、いろいろな協会・機関からの委託研究の金を計算機費用に使わせてくれたのだ。当時の金で7090は1時間30万円という金額だった。 SIMSCRIPTは出来立てのソフトでバグだらけだった。そこで、テスト・プログラムを書いてシステムのバグつぶしからしなくてはならなかった。エラーを見つけて、プログラマーに直しを頼んだ。菅波部長は喜んでくれ、「お駄賃だ」と言って、私にタダの計算時間を何時間もくれた。私の後に、三菱電機の研究者がSIMSCRIPTを使ってシミュレーション・モデル作成業務をしていた。彼らが読んだSIMSCRIPTマニュアルは私が翻訳した日本語版だった。後に日本OR学会で付き合うことになった小池さんだ。
そんなことが容易にできたのは、修士時代から日本科学技術連盟の「OR教育コース」で社会人教育の講師に駆り出されたり、その後も博士過程時代に日本生産性本部で生産管理の研修を担当させられたりしたお陰である。われわれが学生時代に勉強していたことは、日本社会、日本企業が導入したい新しい科学技術分野だったという背景がある。そういう先端的な学問を学ぶための管理工学科を日本で最初に開設したのは、東大を退官したばかりの山内二郎大先生(われわれはお爺ちゃんと・・後に勲一等旭日大綬章)だった。慶應大学退職後は、青山学院理工学部に新学科を申請するために招聘された。1970年、浜松町の貿易センタービルに出来た情報科学研修センターの初代理事長となり、我々は講師に呼ばれて浜松町に通った。
1971年は「FORTRAN応用」というタイトルで、社会でのいろいろなコンピュータ応用場面の話を何人かの講師により交代で講義がなされた。その講師の一人に頼まれて半年の間、毎週、放送センターに通った。1時間の講義はぶっ通しでビデオに収めるのだ。いくつかの場面、場面をばらばらに録画して、後で貼り付けるのではない。流して録画するのだ。ビデオテープは、画像の位置と音声の位置がテープの上でずれているので、音声だけのテープレコーダーのような「切り貼り作業」は嫌われていた。 連続して録画中の番組がストップされたことが1回あった。講師同士の談話の最中に、森口大先生が「コカ・コーラが・・・」と口に出した。スタジオ2階の調整室からディレクターが階段を飛んで降りてきて「ストップ、ストップ!!」 「コカ・コーラ」は商品名だ。NHKでは口に出してはいけない。ただ「コーラ」とだけ言えばよかったのだ。面白い経験だった。 コンピュータ講座では、電電公社が開発したタイム・シェアリング・システムが使われた。言語はFORTRANだった。スタジオには端末機があるだけで、それが電話線で電電公社の大型コンピュータに繋げられているのである。端末から電算機につなぎ、プログラムを作成する作業は、計算機のスピードが速くなったので、複数人のユーザーが「時間を分割して」順番に使って行くシステムが開発された。使っている人は、あたかも自分1人で使っているような感覚だった。日本語では時分割方式と呼んだ。 パソコンが70年代後半に開発されるのだが、それ以前は、自宅でも端末機でタイムシェアリング・システムを使って計算プログラムを作成していた。電話で計算センターを呼び出し、受話器を端末機のカップラーにはめ込む。そうするとセンターの主装置につながって、結果が端末機のタープライターで紙に印字してくるのだ。 初期のころ、東大の大型機センターにはよく繋がせてもらった。 さらに、広告会社の電通がアメリカに海底ケーブルでつないでタイム・シェアリング・サービスを商売にしていた。私は電通の友人から無料でアカウントをもらい、夜中になると電話でつないで作業をした。海の向こうでは、多くの計算センターが専用線でつながっている。そして、こちらではどこのセンターにつながるのか、やってみないとわからない。ある時はシカゴの計算センターに、ある時はベネズエラのカラカスのセンターが出てきたのには驚いたものだ。
Apple II,Commodore PET,Radio Shack TRS-80が1977年に発表された。アジア生産性機構で日本に勉強に来るアジアの人たちのためにTRS-80を7台買い入れた。講習会がないときは、誰も使わないので、慶應の川瀬先生に1台借りて使っていた。企業の研修に持って行ったこともある。さる有名タイヤメーカーだった。
2年後の1979年には、国産のNEC PC-8001が売り出された。本体とフロッピー・ディスク、プリンターなど周辺機器は別々に買わされた。翌1980年には沖電気がオフィス用にプリンタ内蔵の一体化PCを売り出した。NECもOKIも我が家に置いてあった。プログラミング言語はBASICだった。BASICはダートマス大学でメインフレーム用に開発された言語だったが、初期のPCは電源を入れるとBASICが立ち上がった。手軽な言語だったが数値計算やOR解析には何の不便もなくプログラムできた。
BASICだけしか利用できなかったパソコンに、CP/Mというオペレーティング・システム(OS)が開発され、いろいろなアプリケーション・プログラムが使えるようになり、本格的なプログラム開発がPCで出来るようになった。次にMS-DOSが開発され、これがWindowsが普及するまで主たるパソコン用OSとなった。90年代半ばまで使っていた。 OSの下にワープロや表計算のプログラムが使えるようになり、数値計算だけではないコンピュータの汎用性が一気に増した。日本語ワープロは画期的だった。日本で最初にできたのは「松」という日本語ワープロで管理工学研究所が売り出した。確か1982年だったと思う。四国のJUSTシステムの「一太郎」は後発だが、値段が「松」の半額で売り出したので、プログラムの優劣がわからない素人は「一太郎」を買った。かな漢字変換プログラムの違いは大人と子供くらいの差があった。素人には使い比べはおろか、プログラムが何で書かれているかも知ることはない。スピードも比較にならない。 私は「松」ユーザーだったが、長いもの巻かれるがごとく「一太郎」を使うようになった。文書ファイルがワープロごとに違っていて、「松」で書いた文書ファイルは「一太郎」には通用しない。逆も同じ。それが「一太郎」を使うようになった理由だ。私の「松」文書ファイルを「一太郎」ユーザーに送っても、読んでもらえないのだ。悲しかった。
計算センター所長だった私が中心となって工学部全体で使えるパソコン教室を2部屋、新しい建物を建てて開設した。富士通にハードウェアを入れさせ、ソフト環境はCANON SoftにUnixを準備させた。学生のプログラミングはC言語で教育することになった。まだ、PC環境はMS-DOSでBASICが普通だったが、一歩先を見てUnixとC言語にした。 私の研究室では、SUNのSPARCワークステーションとパソコンはMACの組合せだった。MACにはグラフィックスやサウンドなどを扱う優れたアプリケーションがあったからだ。そう、ワープロも一太郎よりプロ好みだった。Windows前夜の話です。
90年代に入って企業・民間がE-Mailを使うようになり、JUNETは終了しNTTなどの通信業者がインターネットサービス・電子メールサービスを行うようになった。80年代前半に東急電鉄沿線の電線を利用してiTSCOMというプロバイダーが出来たのはすごく早いころだった。恵比寿に近い我が家に電話線でつないでもらった。 私が好んで使ったE-mail用のソフトはEudoraだった。MicrosoftのOutloookは使う気がしないままだった。2000年代になってOperaというブラウザーがWeb-mailを備えていた。蔵王のスキーロッジのパソコンにOperaを入れてメールの読み書きができる。Webmailの利便性は高いものがある。両方を使って久しかった。 2008年にGoogle Chromeが出来てGmailが使えるようになった。DOCOMOの携帯でも最近のスマホにもGmailが手軽に使える。もうGmailは12年使い続けている。現在、23,000以上のメールが保存されている。100GBのキャパシティがあるが、18%使用中と出ている。 世の中では、Windows95が売り出された時、秋葉原の電気店には朝早くから行列が出来た。パソコンのOSはマイクロソフトが独占してしまった。Windows PCの世の中では、OfficeのWordが日本語ワープロの標準となってしまった。 Windows95は、Windows98、WindowsME、Windows2000、WindowsXP、と変遷し無理やりにグレードアップしてWindowsVistaが悪評ですぐに、Windows7そしてWindows8とXPと比べて複雑になっただけで使い難くなった。さらにWindows10は最悪のWindowsとなった。
現在の楽友三田会の公式サイト http://keiogakuyukai.com/はオール楽友会連携を目指して、2008年7月に公開した。 ジャズ好きの私は歌や曲、作詞家や作曲家などのデータやエピソードを集めてデータ・ベースを作り始めた。当時、めずらしい写真も沢山あった。まだ、ネット上にそんなデータや写真はほとんど無い頃だ。本や雑誌などからスキャンしてしまってあったものだ。それを見た友人が印刷してくれと言った。90年代のカラー・プリンタは3原色+黒の4色を別々に4回紙を出し入れして、やっとカラー印刷になる。A4版1枚が4、5分かかった時代だ。印刷してあげることはできない。そこで、ホームページにすれば、勝手に見て、勝手に印刷もできる。1年ほどかかって公開したのが1998年10月だった。「Jazzにまつわる話」 http://ozsons.jp/は22年経っても書き続けられている。 2000年代初めまでは自宅にインターネットサーバーを置いていたが、出回り出したウィルスに冒されると危険なので、商用レンタルサーバーを使い安全管理は人手に任せた。
Web Siteを素人が作るのは簡単ではない。そこで生まれたのがBlogだった。謂わば「簡易ホームページ」である。画面の構造が1ページの長〜い紙と思えばよい。そこに、文章打ち込んだり、簡単に写真が貼り付けられる。これで、自分の日記を書く人が増えてきた。「楽友」のような複雑な章・節・項、さらに関連するページへのリンクなど、親切に設計してあるウェブサイトとはレベルが違う。 Webを見るためのBrowserもいいものを選ぶことが大切である。インターネットの初期にNetscapeが使いやすくできていたが、早いこと撤退してしまった。それで、代わりに選んだのはOperaだった。Internet Explorerは入っているが嫌いなまんまだ。2008年に出てきたのがGoogle Chromeだった。
電車の中の風景はすっかり変わりました。彼らは「スマホ・SNS依存症」という病人なのです。自分の上げた自分の写真などを含む記事、これにお友達が「いいね」とクリックしてくれる。嬉しくなって脳の中には、脳内麻薬であるドーパミンが分泌され、興奮状態になります。こうして世界中がSNS依存症患者で埋め尽くされているのです。私は「不携帯」と皆さんから呼ばれています。SNS依存症患者にするためのプログラムをわざと書いていることを初めから知っていたので、持ち歩かないことにしたのです。家内に言われて持って出かけても、電話に出るかメールのチェックしかしません。 先月、FORUMでもお知らせしましたが、再度、書いておきます。 スマホ+Facebook ⇒ ドーパミンの恐怖 (2020/2/7) |
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