交歓会がお開きになっての帰り道、その日に逢った新入部員の顔を思い浮かべているうちに、ふと「青春」についていろいろな事が頭に浮かんできた。
ご存知の通り、古代の中国人は、四季に色彩を与えていた。夏は朱(あか)、秋は白、冬は玄(くろ)、そして「春は青」という具合に。あたり一面に青々とした草が生え出した光景を見た印象を、色彩化すると青になるのだろう。「青春」という言葉は、ここから生まれたという(これもまたご存知の通り、詩人の北原が「白秋」と名乗ったのも、これによると言われている。)
フランスのある詩人が、「もし私が神であったなら、人生の最後の部分に青春をもってきただろう」と言ったという事を、塾生の時に何かの本で読んだことがある。それを読んだ時、なかなかの名言と思った。「青春」は本当に楽しく、素晴らしい。その中で死を迎えられたら、どんなにか人生を充実したものとして感じながら、往生する事ができるだろうかと、その時は思った。
しかし、社会人になって40代の時だったか、もう30年も前の事になるが、ビジネスマンの間で、ウルマン(Samuel
Ullman)の「Youth(青春)」という詩が非常にもてはやされた時があった。“Youth is not a time
of life, it is a state of mind.(青春とは人生のある時期を言うのではなく心の様相を言う)”という一節で始まる、この詩に出逢った時、名言と思われたフランスの詩人の言葉も、私にとって少し色褪せた感じとなった。
ウルマン
は言う。「年を重ねただけでは人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚の皺を増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ」。「年は70であろうと、16であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く、『驚異への愛慕心』・・・」。
これを読んだ時、そうか、「青春」とはその人の心の状態なのだ、とつくづく思った。
そして又、62歳を過ぎて退職間際になった頃、「荒れ野の40年」と題して西ドイツの国会で、あの有名な演説を行った、西ドイツ大統領(そして統一ドイツ後の初代大統領となった)ヴァイツゼッカーの「回想録」の中に、「青春の時代は素晴らしい。だがいつも羨望に値するとは限らない。」という文章に出逢った時、その言葉に妙に共感を覚えたのを思いだす。
翻って私が大学2年生の時、練習を終えて仲間と日吉の銀杏並木を歩いていた帰り道、駅の向こう側に大きな太陽が、赤々と沈んで行くのを見、〈
今、太陽が沈んでいくのは、今日が終わろうとするのではなく、明日また日が昇るためなのだ 〉と感じたものだ。夕日を見ても、それは「一日の終わり」を意味するものではなく、そこには常に「明日」という、輝かしい未来があるのを感じていたのだ。この時、私は確かに「青春」を感じていたに違いない。
交歓会で逢った、あの初々しい新入部員の諸君も、今、あの夕日を見ながら、あの時の私と同じ気持ちで、日吉の銀杏並木を駅に向かって歩いているだろうか。(08年9月16日)