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年末恒例のコンサートというと、ベートーベンの第九交響曲合唱付きがまず頭に浮かぶ。12月は各プロオーケストラの第9演奏会が目白押しである。NHK大晦日の紅白歌合戦は見ないが、裏番組の第9は見るというクラシックファンも多い。日本で年末の第9が定着したのは、戦後間もない頃のN響による年末公演からだという。黒柳徹子さんがお父さん(N響のコンサートマスターだった)から聞いたところによると、学生の合唱団の家族へのチケットがたくさん当てにできるので、期末手当替わりに開かれたというのだが、そのおかげもあってか、楽友会の先輩方は、1951年末のN響第九に国立音楽大学の学生に交じって参加させてもらえたわけだ。もちろん出鱈目に歌ったのでは門前払いで、ちゃんと歌える実力があったということだろう。 第9は年末だけではなく、いろいろなイベントでも取り上げられる。「人類はみな兄弟になる」とみんなで歌い上げるのは確かにお祭りに相応しい。そうはいっても、向島の芸者さんたちが黒留袖で参加したり、あちこちの町に「第9を歌う会」があるのは日本だけかもしれない。 私が最初に第九を歌ったのは今から60年前、高校2年生の時だった(注1)。1957年(昭和32年)4月20日、オリンピックで建て替えられる前の東京体育館を会場に、第5回民放祭合同大演奏会「1000人の合唱」という催しが開かれた。オーケストラはABC交響楽団(今は無い)、東京交響楽団と分裂前の日本フィルハーモニー交響楽団の合同で約200人、それに合唱団の800人は二期会合唱団、藤原歌劇団、東京芸大、国立音大、コーロエコー(ここに我々がはいる)の合同で、1000人の合唱となる。この時は、第一部が渡辺暁雄の指揮でボロディンの韃靼人の踊り(注2)を、第二部がオケ単独の演奏でコダイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」全曲を、第三部が近衛秀麿の指揮する第九の第四楽章だった。アリーナに作られた仮設のステージは平場がオーケストラ、その後ろに高々と階段式に800人の合唱団席が設けられていて、歌うのはちょっと怖かった記憶がある。
次の機会は翌58年の慶応義塾創立100年記念式典だった。日吉に新しく出来た記念講堂で、ワグネルのオーケストラで歌った(そのため、例年暮れにある楽友会定期演奏会は7月に繰り上がった)。式典の記録には昭和天皇・皇后陛下が臨席され、TV中継もあったとあるが、第9を歌ったことしか記憶にない。やはり緊張していたのだろうか。この時の音楽之友社の楽譜(定価100円!)は今も手元にある。社会人になってからも、神奈川県を中心に何回か歌う機会があったが、いつもこの楽譜を使っていた。合唱の男声パートの最高音は、720小節目のder ganzen Welt ソプラノはAで14小節続くが、テナーは3小節だけ。とは言っても、FisやGが頻発した後だから結構大変だ。当時は若さで乗り切れていたようで、楽譜には何の書き込みもない。 時は過ぎて1968年に仕事の都合で栃木に転勤してからは、すっかり合唱から離れ、第9も聞くだけの時代が続いた。ところが、1989年に横浜みなとみらい開港130周年横浜博覧会が開かれ、その野外特設ステージで第9の演奏会が行われることになった。神奈川交響楽団と公募の市民合唱団によるもので、近所の人に誘われて、これで第9は卒業というつもりで参加した。長く歌っていないので、とてもAを出す自信はなく、はじめてのバスパートだったが、練習中は特に不便は感じず、自信満々で歌えるはずだった。それが、いざ本番の会場でリハーサルの時に、初めて暗譜だと聞かされた。練習では「楽譜を離して」などという話は出ていなかったのであわてたが、なんとか歌い終えることができた。それ以来、第9のステージは遠慮している。 (2017/11/01)
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