リレー随筆コーナー

慶應義塾楽友会合唱団創立70周年に想う

 
長谷川洋也(1期)


 楽友会への想いは感謝しかない。合唱に、宗教音楽に、指導者に、友人に、後輩に。1期生の私達に慶應高校楽友会の最初の指導者の岡田忠彦先生は苦労されたことと思う。慶應女子高は創立2年目からの参加だが、男子高にくらべて人数が少ないので、演奏会の度に先生の出身校の国立音大の学生にエキストラとしてソプラノ、アルトに参加してもらい、男声とのバランスをとった。

女子高側は音楽のことは岡田先生に任せて、とても協力的だった。合唱には全員参加、土曜日には全員日吉の男子高に行くよう指示されていた。合宿には音楽の先生でなく家庭科の高比良先生が責任者として参加された。この先生のご協力を忘れることはできない。先生は文学部の高比良教授の未亡人で女子高創立と共に女子高の教諭になられた方。この先生のお力添えで、当時、同期の筑紫と私は女子高音楽室にフリーパスで出入りできたのだった。

特に私は、学部の3年になり、三田に移ってからは、毎日放課後女子高でコールユーブンゲンとコンコーネの個人レッスンをすることになり出入り自由だった。

合宿での先生は時に自ら包丁を取り、女子高有志を指導しながら我々に食事を供して下さった。

合宿といえば、思い出した花巻温泉での合宿。7期の三井さん、当時高1だったと思う。ブランコに乗っていた。そこに、いたずら盛りの某君が、ふざけてブランコを後ろから強く押した。深窓の令嬢が多い女子校の中でも三井さんは極めつきの令嬢だ。恐怖のあまり手を離してしまった、そして気絶!即医者!何事もなく回復するまで、岡田先生は全身全霊で、先生の信じる何物かに必死で祈っておられた。先生の気持ちはよく分かった。

 楽友会の初期、順調に運営されていたのは優秀な後輩たちのお蔭でもあると確信している。会の運営、コンサートの実現、そして合宿地の選定と宿舎や練習場の確保と各種交渉、その他全部は2期以降の諸君がやってくれた。

我々1期生は、伴 有雄(故人)が男声合唱の責任者、筑紫武晴が女声合唱の責任者として夫々技術屋に徹した。技術の無い私は、女声の底上げと団内の融和に専念した積り。マージャンが出来たから、それを武器に後輩達に教えまくった。

女声との融和のひとこまか。日吉での練習の帰りに女子高6期の野上さんと渋谷まで一緒だった。話が弾んだので食事して帰ろうかと誘った。それはいいけどお金が無い。仕方がないので野上さんを連れて質屋に行き、学生証を見せ、シェーファーのボールペンを出して「いくら貸してくれるか?」と言ったら、「いくらでも良い」と言われた。そこで1000円借りて食事をした。家に帰って練習疲れを入浴で流して、風呂場を出ると、オロオロしたお袋が来て、親父の前へ連れて行かれた。ワイシャツのポケットに入れた質札がバレたのだ。しかし、親父は何も言わずにお金をくれた。

一方、野上さんが先輩におごられたと言ったのだと思う。女性2,3人と共に野上さんの家に招かれご馳走になった。果たして質屋の件、親に言ったのか、居心地が悪くアセった。今は亡き野上さんの思い出だ。

 合唱を超えて傑出した友人達がいた。まず、3期の若杉 弘、後年、指揮者の世界で小澤征爾か若杉かと評価された男の若き日。母一人子一人の2人暮らし。亡き父親は駐米公使。フォーレのレクイエム(1953)をやった時のバリトン・ソリスト。ちなみにソプラノ・ソリストは3期の村瀬和子さん。これが名ソプラノで若杉よりうまかった。

彼の才能を感じたのは確か大学2年の時。メノッティのオペラ「アマールと夜の訪問者」という曲の一部を自分で邦訳し、ピアノを弾き、指揮もして大学の教室で演奏した。プリマドンナは5期の小谷(旧姓手島)さん。相手役のテノールは私。その年、彼は藝大声楽科3年の編入試験を受け、シューベルトの「冬の旅」の「旅籠」を歌って合格した。その後、当時ソプラノの第一人者だった三宅春恵先生の演奏会で、小編成のオケの指揮を行い、認められて指揮者の道に転身した。

次に4期のオキヨこと井上 清。彼は学業優秀で医学部に進み、医学部のボート部に入り、後に主将を務めた。医学部4年の春、東大との定期戦に勝ち、合宿所から帰宅したとたんに塾體育會ボート部の主将に呼ばれ、第2エイトのメンバーに指名されて合宿所に戻った。身長186センチだから見込まれたのだ。それまではフォア専門でエイトは初めて。皆と同じ練習ではついて行けない。居残り練習で体重が4キロ減ったそうだ。でも、その年の早慶レガッタのメンバーに選ばれて、人生初のエイトで漕いだ。その後、医学部ボート部ではエイト専門となり、同部単独としては慶應だけが全日本選手権に出場した。が、結果は残念ながら予選敗退!彼とは気が合って、ある日カルテットをやろうと話し合い、トップの私とセカンドのオキヨ、それにバリトンは3期のザザ(佐々木)、ベースは6期の島田を加えて練習を始めた。

ザザの提案で民放の「家族そろって歌合戦」という番組に出ようという事になり、早速出掛けて行った。もちろん合格!そして年末にはその年の最優秀者を選ぶ番組に呼ばれた。歌った曲は山田耕筰の「青蛙」。島田の家で徹夜で猛練習をした。そして本番!結果は2位。審査員の1人、童謡歌手出身の有名なMさんから「テナーとバスでテンポがずれた」との批評があった。冗談じゃない!福永陽一郎先生のアレンジ通り、ハーモニーに変化をつけるためテノールが半拍遅れて入るのだ。おまけに福永先生は当時私が所属していた東京コラリアーズという男声合唱団の指揮者だ。間違えるはずがない。無知な審査員のため、年間トップを逃がした!

 若杉、オキヨに続いてもう1人。4期の金沢 敬さんのことを記しておきたい。通称コケシ。卒業時、文学部心理学科トップで金時計をもらった才媛!以下に当時親友であったデコこと筑紫秀子さんの、亡き金沢 敬さんを偲ぶ手記の冒頭を紹介したい。

「敬さんとの出会いは昭和26年4月。慶應女子高等学校3回生B組でした。長い髪を三つ編みに、丸い顔がまさにコケシの様で、直ぐにコケシという愛称でしたしまれました。ピアノも大変お上手で共に混声合唱団音楽愛好会に入部し、毎週日吉の男子高音楽室まで練習にご一緒しました」

これは名文だ!聡明で可愛らしい音楽好きの少女たちの姿が目に浮かぶ。

父親は慶應医学部教授、驚いたことに弟さんは東大医学部へ入り、後年天皇のご典医を務めた金沢一郎先生だって。

その後、女声の指揮者は筑紫武晴が卆業して若杉 弘が引き継いだ。しかし、彼は難関藝大3年への編入試験を前にしてレッスンに追われ練習を休みがち、時には無断で来ないい時もあり、女声だけで練習していた。

当時女声合唱の代表だったデコは、副代表だったコケシと相談して、一緒に若杉に会い指揮者を辞退してくれるよう頼んだ。普通は岡田先生を通じて話すところを直接若杉に申し出たところにデコ、コケシ・コンビの非凡さを感じる。若杉だって直に言ってもらった方が気分はよい。卒業時、心理学科で金時計のコケシが直接話そうと言い、デコが同意したのかな。とにかくファインプレー。

「若杉さんはホッとした様だった」と、これはデコの言葉。

デコ、コケシのコンビの決断が女声の衰退を止め、一方、若杉も無事藝大に合格した。その後、コケシは医師である渡辺家に嫁ぎ、夫に従いカンザスに定住し、日本語学校を開設し、校長を務めて在留日本人のために尽力された。

デコの手記の終章

「コケシは昭和62年11月、がんを発病し、小さな箱の中に灰で帰国されました。今は函館の渡辺家のお墓にやすらかに眠っておられます」

合掌!

 ある年突然すごくうれしい話が舞いこんだ。

27期生から「定期演奏会でブラームスのドイツレクイエムを演奏するがOBも一緒にやらないか」とのお誘いだ。「定演をOBと共演しよう」という度量、「より良い演奏をしたい、という純粋さ」素晴らしい!おまけに曲が大好きなドイツレクイエム!大いにやる気になった。勿論、曲は完全暗譜している。

打ち合わせの時の幹事長・笹倉君のリーダーシップ。テノール・パートリーダー清野君の自信に満ちた態度。そしてソプラノ・パートリーダー古畑さんの優秀さ等、まだ憶えている。

さて本番!第一曲目後半、テノールだけがファゴットとメロディーを歌うところで、小生、出そこなった。完全暗譜を誇ったくせに何事だ。実は数年前、前田幸市郎先生の指揮で歌った時にも同じところで間違えた。指揮者がファゴットに向かい、テノールへのアインザッツが来なかったから。言い訳無用!それが完全暗譜か!パトリの清野さんはチャント歌ったと言っていた。

何と大先輩の私が、ノーミスで歌った学生たちに後れをとるという情けない話が本文のコーダになった。

でも、これも私の創立70周年への懐かしい思い出のひとつです。

(2019年2月)

    


編集部 いつも長谷川さん(1期)は編集部オザサ主幹(4期)に促されて「楽友原稿」を執筆してくれる。早く書かないと厳しい催促も飛んでくる。長谷川さんはデジタルやネットなんて知らない世代です。そこで、原稿はいつも手書き原稿を郵便で送って来ます。

その原稿をオザサ主幹が校正をしながらWordで打ち込んで完成させ、かっぱにメール添付で送ってくるのです。前回の投稿「楽私雑記」を送ってくるときに「やっとWP化出来た」と書いてきました。

今回の長谷川原稿はそのまま封筒に入ってかっぱの所に届きました。いやーぁ、ビックリ!これが第1ページ目です。11ページあります。

こんな貴重品の原稿は「涙もの」です。楽友の皆さん、長谷川さんはこの齢になっても脳味噌は若いままです。身体の方は病気にもやられましたが、今は元気そのもの。2018年7月のOSFコンサートでは元気でお会いしました。


かっぱ  長谷川さん  デコさん

(2019/2/17・かっぱ)

 


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